++後悔したくない/山下次郎


 それで後悔しないって思うなら諦めていいと思うけど。山下先生が言った言葉を今でも鮮明に覚えている。先生が受け持った最後のクラス、その生徒。40人居る中の一人。先生はもう私のことなんて忘れちゃってるかもしれないけれど。



 蝉が鳴いている。うるさいくらいに。夏の間はどこもかしこも蝉の鳴き声でうるさくて参ってしまう。冷房が程よく効いた図書館は、見知った三年生たちがちらほら居る。学校からほど近くの図書館か学校の図書館に行くか、で私たち受験生の派閥は別れるのだけれど、私はもっぱら学校の図書館で勉強していた。部活動を指導する先生が運よく職員室に居たら分からないところは質問できるし、学校の方が私の家から近い。平日しか開いていないのと19時ぐらいで閉じてしまうのが難点だけれど。
 化学の参考書と睨めっこにも疲れて、窓から見える青々と茂った木の葉をぼんやりと眺めた。時計を見遣れば14時22分。どう考えても分からない問題がある。職員室に行けば山下先生居るかなあ、と机の上を軽く片付けて、参考書とシャーペンだけを持って職員室に向かった。
 エアコンの恩恵が浴びられない廊下は暑い。引き戸の前でとんとん、とノックをして失礼します、と言った。ほんのりと空調がついている。職員室を見回すとがらんとしたものだったけれど、山下先生の机はごちゃっとしていて、先生来ているんだなあということはすぐ分かった。電子レンジとか冷蔵庫とかがある方を見遣ると、山下先生が湯気の立つマグカップを片手にしている。私の姿に気が付くと、あ#名字#だ、とすぐに先生が気が付いた。

「最近どう? 毎日学校来てるって聞いてるよ」
「うーんぼちぼちです。化学の勉強してます。もう全然取れなくて……」
「#名字#受けたいとこ化学の比率高いもんねえ。まあ毎日コツコツしてれば今からならいけるよ。今日は何か質問?」
「はい。この問題なんですけど」
「ちょっと見せてね」

 山下先生が参考書を見る。これテストで皆正答率悪かった問題だ、と彼は独りごちて、席に座った。解答省略しすぎなんだよね、と私の方に冊子を向けて解説を始める。ここがこうだから、と解説の計算式に付け足される先生の字は黒板で見ている通りに丸くて、だけれど逆さまに書いているからいつもより不格好だ。分かった?、と尋ねられてはい、と答える。自分では絶対に分からなかった解法だ。
 ありがとうございます、と言って次に分からない問題を尋ねようとしたとき、先生はコーヒーに口をつけて、おもむろに言葉を放った。

「名字の第一志望、この前と変わったよね」
「模試の成績上がらなくて私にはレベル高いのかなって思って下げました」
「なるほどね……」

 山下先生がうーん、と唸る。

「下げるべきじゃないよ。国数英の点数は取れてるし、確かここの二次は数学と化学、生物でしょ。二次の比率も高いし、化学安定して取れるようになれば合格できると思うけど」
「でも……」
「ちょっと年寄り臭いこと言うけどさ、俺妥協したんだよね。それで、卒業して何年も経ってるのに時々思い出しちゃうんだよ。あそこで妥協しなかったら、どんな人生送ってたんだろうなって。受験までまだ六か月近くあるし、まあそれで後悔しないって思うなら諦めていいと思うけど」

 もうちょっと頑張ってみない?、と山下先生が言った。
 確かにちょっと諦めていた。部活動を引退したのは7月。周りの引退が速い中、部活動をずっと続けていて、私だけ置いてけぼりで、気が付くと模試でも定期試験でも抜かれることが多くなった。夏休みに入って本格的に勉強をし始めたばかりだと言うのに、この前の模試の結果に引きずられて志望校を落とした。
 受かるかなあ、と私が呟くと、そのために先生が何とかするんでしょ、と私の頭を撫でた。また何か分かんないところあったら遠慮無く聞きに来ていいからね、そう先生は言うと、私の手に引き出しから取りだしたチョコレートを握らせた。







 それから何回か春が来た。先生がアイドルになった。あの山下先生が、だ。最初こそ同級生のグループチャットで話題になって、嘘でしょ〜?!、と驚いたものの、何だかんだ山下先生に似合っていた。テレビの中には、白衣を着た猫背でチョークの粉がついた指先の山下先生は居なくて、先生をしていたときよりも堂々としていて、楽しそうな目をする山下先生が居た。数学の硲先生と、私が見たことのない金髪の先生と一緒に。
 テレビの中で楽しそうにアイドルをする先生を見ると、妥協しなかったんだな、と思った。あの夏の職員室で、少し遠くを見ながら苦笑いをした先生の姿を思い出す。あの時みたいに諦めなかったのだ、山下先生は。ファンレターでも書いてみようと思う。拝啓山下次郎先生へ、そんな書き出しをしたら先生は驚くだろうか。





20180719
お題箱より、(たぶんメール機能の不具合で文章よく分かりませんでした…!)お題箱より、時期的に、頑張り屋の誰かを応援しよう!という 頑張り屋のキミへ(頑張り屋の誰かを応援するイメージです!)



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