++ありふれた一日がいい/桜庭薫


 あれ、桜庭さんじゃないですか。聞き慣れた声がして、驚いて振り向くとやはり想像通りの人が居た。
 トレーの上には焼きたてのパンを二つ三つ、コーヒー牛乳まで乗せている。スニーカーを履いた彼女は、いつもよりも背が低いように感じられた。


「まさか桜庭さんに会うなんて思いませんでしたよ」
「それはこちらの台詞だ。一体どうしたんだ? 君の家はこちらの方面では無かった気がするが」
「趣味なんですよ。散歩」

 また新しい一面を知れた。
 出来たてのパンの入った袋を揺らしながら、名字が穏やかに笑った。ゆるく髪の毛を巻いている。仕事中は一つに結んでいるから新鮮だった。長い丈のスカートは淡い色で、彼女によく似合っている。カンカン帽を上にくいっとあげながら、名字が桜庭さんはどうしてここに?、と尋ねた。彼女の一挙一動に目が釘付けになってしまうのも惚れた弱みというやつなのだろうとどこか他人事のように思った。

「朝食に食べる食パンを切らしたんだ。明日からは仕事が続くし、買いに行くのも今日しかないと」
「ってことはあのパン屋さん、桜庭さん御用達のパン屋さんですか?」
「よく行くから、そういうことになるだろうな」
「なんと! そんなパン屋さんでお互い休日に出会えたなんてちょっと運命じみてません?」

 まあ冗談ですけどね、と彼女が笑った。運命か否かはさておき、こんな状況を放っておくほど僕は頭が回らないわけじゃない。名字と二人きりになれる機会など本当に稀だ。事務所にいるときは他の面々がいるし、スタジオやレッスンルームに居るときも必然的に天道や柏木が近くに居ることになる。だからこの好機を逃すわけにはいかなかった。今は恋人が居ないということを知っている。少し前に飲み会で、仕事と俺どっちが大切なんだ、と言われて仕事と答えたらフラれたと愚痴を漏らしていた。先週天道が、撮影で貰ったのだという美術館のチケットを彼氏と行ってこいよ、と渡していたのを、スンッという顔をして一枚だけ貰っていたことも踏まえて、彼女は今恋人が居ない。

「桜庭さん」「名字」
「あ、どうぞ」
「君の方が速かった」
「えー、本当にどうでも良いことなんですけど。今日天気良いですね、ってだけで。桜庭さんは?」
「それは朝食なのか」
「はい。適当に散歩して、どこか公園で食べようかな、と思って」
「栄養バランスが悪い。ほとんど菓子パンだろう、それは」
「いやーだいぶ欲望のままに買ったので……」

 バツが悪そうに言う彼女に、それなら、と提案をする。

「僕の家に来ないか。簡単なものだが、朝食を振る舞える」
「え、」

 僕の方を少し見上げて、びっくりした彼女の顔が見えた。しくじったか、急ぎすぎたか。いくら二人きりになれる機会が少ないから、といきなり男が家に上げるなど無いだろう。ぐるぐると頭の中に失敗だ、という文字が躍る。これだから恋という感情が嫌いなんだ。身体が浮ついて、正常な思考が出来なくなる。自分が彼女の一挙一動に翻弄されるような、自分の身体が自分でコントロール出来ない。自分の失言を挽回させるように、落ち着いた風を装って、君は前回の、と言葉を紡いだ。

「健康診断で悪玉コレステロールがなんだと騒いでいただろう。そもそも君の生活習慣を考えてみろ。仕事中は手早く食べられるからとカップラーメン、事務仕事も多くデスクに拘束されて、動かないときは1日座っている。最近申し訳程度に野菜ジュースを飲み始めたが、あれで本当に一日分の栄養素が摂れていると思うか? そもそもああいった飲み物は補助的な……」
「分かります、分かりました! ぜひ! 行きます!」

 おうちお邪魔するなら何か手土産とかいります?、と首を傾げた彼女に妙な所で律儀だな、と返した。私が買ったの半分こにして食べます?、紙袋を少し上げて彼女が笑った。



桜庭薫と穏やかな休日を過ごす
桜庭薫で両片想いなど読んでみたいです!



- 83 -

*前次#
ALICE+