++恋に狂うとは言葉が重複している。恋とはすでに狂気なのだ。/ハルト



 
 今度結婚するんだ、その言葉が彼女のぷくりとした唇から放たれる。その言葉が彼女の唇から紡がれた瞬間、自身の頭の中がすっと冴えきっていくのを感じた。
 
「そうなんだ」
 
 グラスを持つ指の感覚が無い。指の先が冷え切っていて、自分の指ではないかのような。心の奥底でどろどろと溢れ出る醜い感情を押し込むためにアルコールを流し込む。喉の奥が焼ける、わずかな痛みを感じるだけで味がしなかった。どんな人なの、そう尋ねると彼女は花が綻ぶような笑顔でこう言った。とても優しくて、素敵な人だよ、と。
 
「君がそう言うのなら、きっと素敵な人なんだろうね」
 
 ハルトくんにそう言ってもらえると嬉しいな、そう微笑みながら答えた彼女の華奢な薬指に、指輪があることに気が付いた。なぜ今まで気が付かなかったのかが不思議なくらいだった。
 
「結婚式はするの?」
「まだ話していないけど、するとしても内々にかな。あまり大きいのはしないと思う」
「そっか」
 
 お金もかかるしね、表面では取り繕いながら俺はそう答えた。それに彼女も将来のことを考えるとなかなかね、と頷く。
 彼女が白いウエディングドレスを着て幸せそうな表情で微笑む姿が容易に想像できた。こじんまりとした会場で、粛々と式が行われる。赤いバージンロードの上を彼女が俯きがちに歩く。その先には俺が見たこともない男が居て、彼女が自身の元へ来るのを待つ。それでいいのか、自問自答をする。彼女の隣に居るのは俺じゃなくていいのか、手に取ったグラスを強く握った。俺は既に顔がほんのりと赤くなった彼女にアルコールを勧める。それに彼女はもう一杯だけ、とはにかみながら返答した。
 変わらないことなど無いのだ。どうしてそれに俺は気が付かなかったのだろう。口の中をぐっと噛みしめる。あの島の中で俺は収容者、かたや彼女は相談員として過ごした。互いに想いを育みあって、最後に好きだと、確かに彼女に俺は言ったはずで。彼女の心は依然として見ることは出来なかったけれど確信はあった。彼女も俺を好いていてくれていると。けれどどうやらその想いを二年という歳月が引き裂いてしまったらしい。変わらないものだと思っていた。変わらずに彼女は俺を想ってくれてくれているものだと思っていた。
 ――私が大変な時に彼が支えてくれたの。それって君があの島から出た直後のこと? ――ずっと傍にいてくれて。それは君の弱みにつけこんでいるだけだよ。――それで優しくて素敵なひとだなあ、って。それは君の弱さを狙って声をかけただけだ、男なら誰だってする常套手段だよ。酔いが回った彼女がその男との馴れ初めを話す度に、喉の奥から醜い言葉の群れが吐き出されそうになるのを必死に舌の根で留める。変わらないものなど無いのだ。これまでだってそうだったじゃないか。研究に没頭している間に友人同士の関係がまるきり変わることもあった。日本を離れている間に街が随分と様変わりしていた。彼女もいま見れば、少し大人らしくなったと感じるし、昔のように笑わなくなった。変わっていないのは俺だけで、それがとても惨めに思えていやになる。胸が苦しくて、じくじくと膿んだように痛んだ。
 これでいいのか、そう自問自答する。彼女の隣に居るのが誰かも分からない男で。彼女の弱みにつけこんで迫るような卑怯な男で。いやだ。彼女の隣に居るのは、俺でありたい。羨望、嫉妬、怒り、汚い感情がぐるぐると渦巻く。
 
「……ごめん、少しお手洗いに行って来るね」
「ああ、分かった。待ってる」
 
 彼女が席に立つ。彼女の背中が見えなくなって、それを確認した後にテーブルの上に無造作に置かれたスマートフォンが目に入った。最低な男だと自覚している。しかしもうこの機会を逃せば後が無いことが分かっていた。彼女のスマートフォンのパスワードは知っている。彼女の誕生日、パスワードを解除する指の動きですぐに気づいた。今しかない、俺はそのスマートフォンを手に取ってパスワードを開ける。何時ごろに帰る?迎えに行くよ、メッセージの通知が画面の上部に表示された。大切な婚約者を、誰とも分からない男に会わせるような男。こうなることも知らないで。俺はその名前を元に、彼女の電話帳から本名や住所、電話番号などを確認して、彼女のスマートフォンを先ほどと同じように寸分たがわずにテーブルの上に置きなおした。
 自身のスマートフォンに持ち替えて、その男を手当たり次第に探す。早速SNSでその男の名前を見つけた。顔が一致しているし、何より”恋人”の欄に彼女の名前がある。
 
「――ただいま、どうかした? 何か夢中になって見ていたみたいだけど」
 
 彼女が戻ってくることに、画面をずっと見ていたからか気が付かなかった。俺はその問いかけに、平静を装うように何でもない、と返答して取り繕う。彼女はスマートフォンの画面を見て、少し口元を緩める。どうしよう、そろそろ時間も時間だし……、その言葉に悪行が彼女に知られたわけではないと安堵した自分が居た。それにそうしよう、彼に心配させてもいけないしね、と思ってもいない言葉を放つ。俺の方が、ずっと卑怯だ。幸せそうな表情をする彼女の顔をこれから壊すつもりでいる。そしてその幸せが崩れたとたん、彼女に寄り添い、彼女を抱きしめ、そしてあまつさえ彼女を自分のものにするつもりでいる。俺は、最低な男に違いなかった。





じっくりと相談員の婚約者を社会的に殺して、傷付いたところで成り代わろうとするハルト
20160416


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