++彼だけが知っている/桜庭薫


 仕事が行き詰まったとき、疲れたとき、一人になりたいとき、それら三つが重なると私はふらりと自身の席から立ちあがる。事務所に居る面々や山村さんには、飲み物買ってきます、とささやかな嘘をついて向かうのは事務所の裏口だ。退社前に施錠がきちんとされているかどうかを確かめる形式だけの裏口は、ふてぶてしい猫がたまに通るぐらいの閑散とした場所だ。目の前の細い道路、私は扉の横の壁に寄りかかりながら煙草に火を付ける。ここに来る前に自分のロッカーの中からさりげなく取り出した。ニコチン含有量が低い甘いフレーバーの煙草と100円のライター、携帯灰皿。

「なんだかなあ……」

 私自身が彼らのこれからの活躍の方向を決めていると言っても過言では無い。最近は忙しくなってきて、予定が入らないために切り捨てなければならない仕事も増えてきた。どの仕事を受けるべきか、逆に切るべきか。彼らのニーズや体調、特質を加味して決めなければいけない。この選択を間違えればこの業界から一気にはたき落とされることもあり得る。誰からも注目されなくなるときが来るのかもしれないという重圧に戦っているのは彼らの方が一層強いはず。だけれどそれを決めるのは私に一任されていて、その狭間で責任感に押し潰されそうになる。
 煙を吸い込むと、徐々に苛々や緊張がすっと消えていくのを感じた。煙草を吸い始めたのはいつ頃からだっけ。昔は煙のにおいで顔を顰めてていたのに、まさか自分が吸うようになってしまった。灰皿にぐりぐりと煙草を押しつける。今日は一本じゃ足りないかも、と二本目を取り出そうとすると、ガチャリとノブを回す音が聞こえて、慌てて持っていた煙草を背中の後ろに隠す。

「ここに居たのか」
「さ、桜庭さん……!」

 どうかしたんですか、と内心罪悪感に苛まれてどきどきしながら尋ねれば、ああ、と彼が口を開く。束の間、彼の眉間が寄った。

「煙草くさいな」
「ははは……」

 事務所の面々には、私が煙草を吸うことを知られていない。においが少ないものを選んでいるはずなんだけれど。彼から気づかれないよう、彼側の手に持っていたライターをさりげなくポケットに入れようとすると、誤って滑らせてしまった。がちゃ、とライターがコンクリートの床の上を転げる。しまった、と頭を抱えそうになる。彼なんて煙草なんて吸わなそうだし、なんなら嫌煙家そうな雰囲気まで持っているのに。煙草なんて百害あって一利無しだ、とがみがみと言いそうな気さえもする。やばい、と視線を泳がせていると、まるで幻聴かのような声が聞こえてきた。僕にも一本くれないか、と。

「桜庭さんも吸われるんですか?」
「今は吸っていないが、学生の時に」

 ライターも、と言われ、あ、はい、と渡す。煙草を口でくわえながら、風よけにするために左手で口元を覆っている。その手慣れた動作を眺めていると、名字は吸わないのか、と言われたので私も慌てて2本目を取り出した。ん、とくわえた煙草についでに火を灯される。
 長い指で挟みながら、紫煙を曇らせる彼の横顔が綺麗で、まるでCMを見ているようだと思ってしまった。何をしても様になるのは彼の所作が美しいからだろう。

「桜庭さんは煙草なんてお嫌いなんじゃないかなあって思ってました」
「今でも好きでは無いな。大体害しかないだろう、これは」
「それじゃあ吸わなきゃいいのに」
「たまに吸いたくなるときもある。名字もそうだろう?」

 バレてた。ずっと気づかれていないと思っていたのに、と私が驚いていると、こんな事務所の裏に来てこそこそしていることと言えばこれしか思いつかなかった、と彼が言う。
 ぽんぽん、と彼が灰を落とす。甘い煙のにおいがまとわりつく。きっと吸い終えた頃には彼のにおいはこの煙草のにおいに消されてしまうに違いないと思った。
 私よりも先に吸っていた彼が吸い終わりそうだったので、携帯灰皿を手渡した。それに彼は吸い殻を詰めこんで、私に返す。

「そう言えば桜庭さん、私に何かご用だったんですか?」
「ああ。差し入れを渡そうとした」
「えっありがとうございます」

 彼がジャケットの内側から取り出したのは、一つ一つ包装されたちょっとお高めのチョコレートだ。それを彼が片手で鷲掴んでいる。私は慌てて灰皿に煙草を入れて、それを受け取った。六個ほどぼとぼとと落ちてくる。

「煙草よりはチョコレートの方が幾分かはマシだろう」
「あははは……」
「気負いすぎるな。何かあれば僕らを頼ればいい」

 3本目は吸わないように、と彼がライターをひらり、と私に見せつけて、机に置いておく、と立ち去る。
 私が疲れたのを見越したように現れたのも、煙草を差し止めたのも、その代わりにチョコレートをくれたのも。彼に全てを見透かされているような気がして、私は独りでに参ったなあ、と呟いてしまう。これまでも私の不調に一番に気が付くのは彼だったし、それに声をかけてくれるのもそうだ。私はチョコレートの包み紙を開けて、大きいそれを一口で口に放り込む。コーヒーに合いそうな、私好みのチョコレートだ。本当に彼には敵わない。私は空を煽る。








20170422


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