++ファーストキスはレモンの味/チアキ





 ファーストキスは何の味だったか覚えてる?、彼女にそう尋ねられたことがある。彼女と面会をするのにも慣れてきた頃のことだ。その頃の面会は、事件のことを調べてきた彼女がそのことを俺にも伝えるという形式で、面会終了まで少しだけ時間が余ったのだった。
「ファーストキスはレモンの味、とはよく聞くけど。覚えてないな。ていうかこの話題結構恥ずかしくないか?」
 話したいことはたくさんあった。しかし実際に彼女と会うと、何を話したかったのかすっかり頭から抜け落ちてしまう。彼女から切り出された話題に内心どぎまぎしながら答える。彼女から面と向かってこういった話を切り出されるのはあまり無かったからだ。
 確かに恥ずかしいね、と苦笑いをしながら彼女がことのあらましを話し始めた。
「シンディーがいつキスをしてもいいように口のケアはしっかりしなきゃだめよ!、ってミント味のスプレーをくれて、そう言えばファーストキスはレモンの味ってよく聞くなあって思ったの」
「へえ、じゃあ今君とキスすると、ミントの味がするってわけか」
「チアキさん、目がいやらしいよ」
 シンディーは、彼女が仲良くしている相談員だったな、思い出す。彼女は俺にじとっとした目を向けて、面会室のガラスから露骨に離れるような動作をした。ごめんごめんと悪びれずに言うと、彼女はそのまま元の姿勢に戻る。
「君はどうなんだ? 俺だけに尋ねるのもフェアじゃないだろう?」
「えー覚えてないよ」
「恥ずかしい?」
「違うよ。本当に覚えてないの。だって私のファーストキス本当に小さい頃だったから」
 記憶にないくらい幼い頃、一体誰だったんだ、と心がもやもやした。そんな俺を見て彼女は、面白そうに笑った。
「相手はお父さんだよ。あれ、お母さんだったかな、お祖父ちゃんやお祖母ちゃんだったかも。小さい頃にたくさん、ちゅっちゅされてたらしいよ」
「なんだ」
 はあ、とため息を吐くと、彼女はチアキさんもたぶんそうだと思うよ、とくすくすと笑った。そうかな、と言うと、きっとそうだよと彼女が返答した。
「自分の子供が生まれたとして、可愛くて可愛くてしょうがなくて、思わずちゅうってしちゃうんじゃないかな」
「君との子供?」
「うーん、じゃあそうだとして」
 少しだけ想像してみる。彼女に似て可愛らしいに違いない。唇や頬はふっくらしていて、目の色は俺や彼女に似た黒や茶色だろう。天真爛漫で、意志が堅くて、優しくて、そういうところは彼女に似てほしいと思う。俺のことはお父さんやパパ、と呼んでくれるのだろうか。言葉を発するようになるには時間がかかるから、きっとそれまでにはたくさん子育てで悩まされることもあるんだろうけれど、隣に彼女が居て、二人で協力しながら子育てをしていくのだろう。そう思うととてつもなく愛おしく思えてきた。
「……するかもしれないな」
「でしょ? だからチアキさんもきっとそうだったと思うよ」
 本当のファーストキスは、と彼女が言う。
 そろそろ時間か、と時計を見てみるが、まだ少し余裕があるようだった。そこで意地悪な質問を投げ掛けてみる。
「それじゃあ覚えてる方は?」
「えー」
「君、最初からその家族からキスをカウントして話をしてたんだからずるくないか?」
「チアキさんも覚えてないって濁したじゃない」
「覚えてる方を言うから」
 彼女は頬を染めて、目を伏せた。唇を噛んで、意を決したように開くと、小さい声で答えを口にした。
「……味しなかったよ」
「触れるだけのキスならそうなるよな。最初から舌なんて普通はいれないし」
「ねえ!」
 頬を赤くさせた彼女が目を三角にさせる。監視カメラもあるし、この面会は映像として残されているだろうから、あまりこういう話をしない方がいいことは分かってはいるのだが、彼女の反応が楽しくて思わずからかってしまう。
「俺も覚えてる方のファーストキスは無味だったけど、味がした方も言った方がいいかな?」
「言わなくていいから!」
 もったいぶりながら口を開くと、うわああ、と声を出しながらくるんと後ろを向いた。俺はなるだけガラスに近づいて、大きめの声でゆっくりとその言葉を口にする。
 面会終了のお時間です。タイミング良く看守のいつもの事務的な声がドアの開ける音ともに響いた。相変わらずニヤニヤとした気持ちが悪い表情で随分と盛り上がっていたようですが、とこちらを見やる。
「──何がアルコールの味がしたんですか?」
 耳を塞いで俺を見ないように体くるりと逆向きにしていた彼女だ。きっと聞こえなかっただろうそれを、看守が口に出してしまった。それを聞いた彼女が耳まで真っ赤になる。
 それじゃあまた、といつも通りに言うと、彼女が、ばか、と口をぱくぱくさせた。こんなに意地悪をしたらまた彼女の機嫌が悪くなってメッセージの返信が冷たくなってしまうかもしれない。あとで謝ろう。それにしても彼女の可愛らしい反応が見れて役得だ。





 震える唇を離した。彼女の肩に触れている自分の手が、自分のものでは無いかのように冷たい。いつもの面会室のガラス越しではない、生身の彼女に触れたのは初めてで困惑している。柔らかさも、彼女から漂う甘いにおいも、体温の温さも、すべてが現実のものであるはずなのに実感が驚くぐらいに湧かなかった。
 天気はあいにくの曇りで、風が吹いている。規則正しく並べられた墓石の群れの中、一つだけ花束が置かれたそれには、俺の名前が刻んである。そこに二人、立つ。
 屈んだ背を戻すと、彼女の伏せられていた瞼がゆっくりと開かれる。彼女の瞳の中には、不安そうな情けない顔をした俺の顔が目一杯映りこんでいた。彼女の肩に触れた自身の手が強張っている。力を入れすぎたのか柔い肉の感触がした。
 一年、あれから一年が経った。社会的にクロイワユーゴは死んだ。任務に失敗した俺は、どう足掻いても遅かれ早かれ真犯人や組織の人間に殺される未来しか存在しないということは記憶が戻った時点で予想がついていた。正直それまでの俺は、生きることに大して執着もなかったし、それを承知でその仕事をしていた。しかし彼女に出会い、彼女と関わっていくうちに、生きたいと強く思うようになった。彼女と共に生きていきたい、そのためには俺自身の存在を一度抹消するしかなかった。事故を偽装し、クロイワユーゴを死んだと見せかける。そう提案したのは河内さんで、表の世界で彼女と共に生きるためにはそうするしか方法が無いと、俺はその提案に乗った。情報の漏洩を抑えるために、真相を知っていたのはごく限られた人間だけだった。電話が傍受される可能性も考え、彼女に対しても嘘の情報を与えるという手はずが立てられていた。
 この一年、彼女のことを見ていた。幾度となく連絡を取ろうとして諦めた。彼女が俺のことを忘れて幸せにしていたのなら、そう考えると彼女に連絡をすべきではないと強く思ったのだ。巻き込まれる形で島に留まるよう強制され、愛さないという心ない言葉を俺に言われ、そして極めつけに嘘とは言え、死んだという最悪な形の別れを告げられているのだ。忘れてしまいたいと、もう顔は見たくないと言われても何らおかしくない。彼女と生きていきたい、そう願ったはずであったのに、その行動は彼女の恩に仇を返すようなものだった。だから今日彼女がこの場所に来るまで、その言葉が発されるまで自信が無かったのだ。彼女は俺のことを心の片隅にとどめおいてくれているか、俺のことをまだ好きでいてくれているのかが。
「……チアキくん、緊張してる?」
「……ああしてる」
 情けないことに即答した。彼女はそんな俺を見て、くすくすと笑った。彼女が笑う振動が触れている場所越しに伝わってくる。あのね、小さな小さな声で囁かれる。ファーストキスは何の味がした?、その言葉に緊張が吹き飛んで、思わず笑みが零れた。二人、いたずらを画策するように縮こまって顔を見せ合う。額がこつんと重なって、もう一度してもいいかな、そう尋ねると彼女がいいよ、と少しだけ目を潤ませながら言葉を紡いだ。風で揺れる髪の毛を横にまとめるとくすぐったそうに彼女が身を捩った。彼女との初めてのキスは、緊張でよく分からなかった。唇が触れたような感触はしたけれど、夢心地で気がついたら唇が離れていて。ねえチアキくんはやく、そう急かした彼女に、分かってる、と囁く。
 心から愛しているひとと、一つになれるこの瞬間はこんなにも愛しいのか。腰を引き寄せて口づけを落とす。たぶんこれが、幸せ、ということなのだ。





20190430


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