30秒のハグは1日のストレスを3分の1減らす/桜庭薫
人生って詰まるところ乙女ゲームなんだと思う。好感度を上げるために相手の意向に沿った行動をして、自分の感情を押し殺して、それが死ぬまで続いていく。
大変申し訳ございませんでした、私はその言葉を、頭を下げる動作を、そればかりをロボットのように繰り返す。相手の話がどれだけ支離滅裂だろうと理不尽であろうと、今求められているのはただただ頷き平謝りすることだ。ここで自分の意見や反論を言えば、相手の機嫌を更に損ねることになる。相手に応じて選び取った言動と行動をする。出来るだけ相手の好感度が上がるように、慎重に言葉を選び取る。ゲームと違って可視化されたパラメーターも無いし、正解は一つだけということでもない、それに選択肢を考える時間はごく僅か。加えて相手の好感度を上げる作業は私が死ぬまでずっと続いていくし、私が大して好きでもない人に関してもこうやって好感度を得なければならないという時点でとんだクソゲーだ。
メールでの目上の者に対する姿勢がなっていない、それで長々30分も説教をされている。それに対しては潔く非を認めて謝った。そこで済む話かと思いきや、謝ればもう一度最初から目上の者に対する姿勢がなっていない、の無限ループ。更に怒鳴られ、罵声や人格を否定する言葉まで叩きつけられる。もうこれ、パワハラとかモラハラだよなあ、と思いながらも何もしないのは、このことで私が彼の機嫌を損ねれば、所属するアイドルたちの仕事に関わるからだ。胃がきりきりと痛む。私だけが我慢すれば済む話。きっと相手の方も、日頃のストレスが溜まっているのだろう。私のメールがたまたま彼の導火線に火を着けてしまっただけだ。
ぐっと拳を握りながら、彼の話に口角を上げて頷く。関係の無いことでも貶されている、何も言い返せない自分が情けなくて、悔しくて涙が出そうだった。
ようやっと彼の話が終わって、解放される。涙も出そうだったけれど押しとどめた。嗚咽も喉の奥に押し込んだ。ここで泣けば、私が女だから情けない、女だから泣けば済むと思っている、と更に罵倒されると分かっていたからだ。すっかりと消耗しきった心と重い足取りで、彼らを待たせている駐車場へと向かった。
「すみません、遅くなってしまって」
「俺らも今来たとこだから。名前、番組のプロデューサーから呼び出されてたけど、大丈夫だったか?」
「大丈夫です! 事務所戻りましょうか」
車に乗り込む。助手席に桜庭さん、後部座席に柏木さんと天道さん。車のエンジンをかける。
車の中で、今日の収録のことを三人が話す。車の中で反省会をすることも多い彼らだ。それに耳を傾けながら運転をする。
「やっぱり生放送って難しいですね。撮り直し出来ないから、間違えてしまうと次のフォローが大切になりますし、あと言うこともきちんとはまるようにしないと……」
「確かに。一応事前に予行練習はしたけど、本番ちょくちょく変わったからな」
「マイクが最初から入っていないのに慌ててしまったのも反省すべきだ」
「本当にすみません……」
「いや、あの場面では僕か天道がすぐに気が付いて柏木にピンマイクを渡すか、代わりに読み上げるのが正解だった」
プロデューサーとしての品位に欠ける、君からプロデュースされるアイドルは皆自信が無いように見える。これは所属するアイドルたちを束ねきれていない君の責任だ。今回の番組で生放送だからハプニングもあることは重々承知しているだろうに、それに対しての動揺も隠せていなかった。君たちに期待が大きかった分失望した。とても不快だ。
番組のプロデューサーから言われた言葉が頭の中で反芻される。鼻の奥がつんとした。思い出すと自分の不甲斐なさも、心ない言葉を言われたことにも、彼らを貶されたことも悔しくて、泣きそうだ。黄色に変わった信号にブレーキを踏む。視界が潤んでくる。でも車の中で泣くことは絶対に避けなければ。事務所に着いたら彼らを降ろして、私はコンビニにでも行くと言って外でいったん泣いてから戻ろう。ぼた、と一筋流れた涙を指で拭って、ぱちぱちと瞬きをした。
事務所に着いて、その前に車を停めた。全員が降りたので車に鍵をかけた。天道さんと柏木さんの二人が事務所の中に入っていく。私も事務所の扉を開けて、そして白々しくあっ、と何か気が付いたように声を上げた。
「……──ボールペン切れたので、コンビニ寄ってから事務所戻りますね。山村さんに伝えていただけると助かります」
「分かりました!」
二人の後ろ姿を見て、良かった気付かれてなかったと安堵する。しかしその場に桜庭さんだけが残る。
「どうかしたんですか?」
「僕もコンビニに寄りたいと思っていただけだ」
「私ついでに買ってきますよ。何買ってくればいいですか?」
名字、と名前を呼ばれる。それにはい、と返事をする。一人で抱え込むな、突然紡がれたその言葉に驚いて素っ頓狂な声を上げてしまう。桜庭さんが私の目元を指の腹で撫でた。その行動に、ぶわりと涙腺が一気に緩んだ。ぼたりぼたりと私が意図もしていないのに、涙がこぼれ落ちていく。
彼らの前では気丈であるべきだ。私が不安を口にしたり、不満を述べればそれが彼らのモチベーションの増減に繋がる。強くあろうと、頼れるプロデューサーであろうと、そう思っていたのに。桜庭さんは私の弱さをいとも簡単に見透かしたようだった。彼は立ちすくんだ私を優しく抱き留めた。桜庭さんの首元に顔を埋める体勢になる。桜庭さんの肩にしがみつく。彼は私の頭をゆっくりと撫でた。
「……落ち着いたか?」
「すみません……。服に涙……、たぶん化粧も……」
「気にしなくていい」
彼が小さな子供をあやすように、穏やかな声でそう言った。
たくさん泣いて少し冷静になると、この状況、いささか恥ずかしいことに気が付いてしまった。桜庭さんの腕の中に入っている、しかも私は泣きじゃくっていて、これから顔を見合わせることになるし。泣き顔を見られるのは避けたい。目元も腫れてるし、充血してるし、たぶん化粧も落ちかかっているし、今鏡を見たら顔立ちがよろしくないに決まっている。
「知っているか。30秒のハグは1日のストレスを三分の一減らす効果があるそうだ」
「えっと、それじゃあ90秒で1日のストレスが全部消えるってことですか」
はあ、と彼がため息を吐く。君は馬鹿か、と彼お決まりの文言が背中の方で聞こえた。
「30秒でおおよそ33パーセント、60秒で55パーセント、90秒で70パーセントと逓減していく。100パーセントには計算上は届かないから類似した値と言える99.9パーセントのストレスを除去するためには、570秒、つまり10分近くのハグが必要だ」
つまりどうすればいいんだろう。固まっていると彼が、あと10分好きにしろ、と言う。桜庭さんの不器用な優しさにはいつも救われている、そう思いながらありがとうございます、と震えそうになる声で言った。
20171001
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