
いつもの帰り道を通らなかった。いい天気だったし、あちこち寄り道して帰りたくなったから。このあたりに住み始めてそう日は経っていないけど、どこの通りに出れば帰れるのかは分かっている。迷ってしまっても来た道を戻ればいいだけだ。まだ陽も落ちきっていないし。
だからそう、大丈夫。いつもと違う路地裏に足を踏み入れる。夕食の支度をする人の家のにおい。蓋の空いたゴミ箱を見つめているカラス。散らばったなにかの破片。眠たげな猫がコンクリートの塀の上に居座っている。傾いた陽に照らされる街の横顔。道のりは入り組んでいてほんのり薄暗い。夜なら絶対に通らない。そこまで不用心じゃない。歩く。次は右、次は左。ふらふら、気分で曲がって歩いていく。
「一日で一番怖い時間っていつだと思う?」
ふと、昔そんな言葉を投げられたことを思い出した。いつもの通りの脈絡のない質問だった。当たり前のように夜だと答えた私に彼は笑って夕方だよと言ったのを憶えている。
「黄昏っていうだろ」
こういう時の彼はいつも、優しくて口調も丸かった。兄のように私の知らないことを教えてくれた。今はそんな時間も少なくなったけど。
「うん」
「あれ、誰ぞ彼から来てるんだ。薄暗くてよく見えないから、オマエは誰だって」
あおくて綺麗な瞳の中の私はどんな顔をしていたか。
「目の前にいるそれが何か、わからなくなるのが黄昏。だから本当に怖いのは──」
なんで今、こんなことを。
「こんにちは」
それはきっと目の前に。
斜めの太陽を遮るように、夜を背負った人が立っているからだ。
「こ、んにちは……?」
知らない人だった。真っ黒な人。お坊さんの服を着た、背の高い人。髪が長くて目が細い。特徴的な姿はきっと一度見たら忘れないと思うから、会ったことがない。それなのによくわからない懐かしさのようなものが込み上げてきて。
違う、懐かしいのは私じゃない。じゃあこれは。これは、誰の。
「いい天気だね」
「そうですね?」
夕方にはふさわしくない挨拶。彼はじっと私を見ている、のだと思う。何せ顔の半分が影になってよく見えない。逆光だ。顔の向きが私の方だし、見られているのでいいんだろう。どうして?
知らない人は動かない。私も動けない。彼の向こうは大通りで、そこにさえ行ければ帰れるのに。何となく動いてはいけない気がして私は立ったままでいる。髪の黒、服の黒、影の黒。真っ黒なその人はまた口を開く。
「本当に見えていないんだね」
「……なにがですか?」
「いや、」
彼が一歩こちらに踏み出す。大きくて骨張った手が黒い和服の袖から見える。少し曲げられた指。ゆるく吹いた風がぬるい。やけに肌に纏わりつくようで、薄ら怖い。
「君が選んだのかな」
何のことだろう。
「ああ、違うな。悟の方だ」
「悟を知ってるんですか?」
「旧い付き合いでね」
なんだ、悟の知り合いなのか。じゃあ納得だ。良家の生まれだということは知っているから、きっとお寺の家の人くらい交友関係の中に普通にいるんだろう。少しだけ安心する。大丈夫だ、と思った。
「元気にしているかな」
「はい、とても」
「だろうね。元気じゃない方が想像できない」
穏やかな声で彼は呟いた。一歩、また一歩。私のすぐ前にたどり着いた彼を見るために自然と頭が上を向く。影の差した顔の中、細い目の色もまた黒い。悟とは、全然違う。
「悟から君の話を聞いたことはないんだ。きっと皆そうだろう」
「ああ、私もそ、」
「見れば誰でも分かるようにしておいてそれなんて、変だとは思わないか」
「ええとその、なんの」
「隠したいなら最初から触れなければよかったのに」
なんだか変だ。私に話しかけているのに私の言葉を待っていない。なんにも聞いてなんかいない。私が見えていないみたいだ。
「きっと今まで運が良かったんだろうね」
「あの、」
すこし怖い。悟はほんとうにこの人と知り合いなんだろうか。
「君の運が良かったか、あいつがそうだったのかはわからないけれど」
大きな手が肩に置かれて、思わず跳ね上がる。地面にくし刺しにされたみたいな気持ちになって、息が震えた。さっきまでずっと温かった風はいつのまにか止んでいて、真っ黒な和装だけが、黒だけが私の目の前にあって。真っ黒の中の私の顔は間違いなく怯えていて。
あ、と思った。何がどうしてこんなに怖いのかがやっとわかった。
「夜は、一人じゃ危ないよ」
ずっと、笑っていなかったんだ。
ばき、と酷い音がした。その音が自分から聞こえたのだと、気付く前にぐらぐら、真っ黒が私の、めを、あたまのなか、を。
あ。
路地裏の片隅、人通りの少ない場所。それが幸か不幸かはわからない。普通の病院に運ばれていたらきっと助からなかったであろう怪我をした彼女は今静かに眠っている。あらぬ方向に折れ曲がった手足は元に戻り、心臓の音は安定していた。
らしくもなく震える手で抱きかかえて、見えたものを纏め上げることもせずここまで走り抜けてきた。それがよかったのだと聞かされた時に少し、ほっとしたのは事実だ。
彼女を任せてから改めて現場に向かったが、そこには何もいなかった。暦の傷口の残穢の主は確かにその場で消えていた。推定で二級、この程度の呪霊からも身を守れないのが暦だ。見えないからわからない。術式がないから祓えない。その生き方をよしとしたのは他ならぬ己で、暦本人はそんなことを何も知らない。
血をぬぐい取った現場の残穢はふたつだった。ひとつは呪霊のもの。もうひとつはその呪霊を祓った、見覚えのあるもの。わざと残していったのだろう。アイツが、暦を助けた?そんなはずはない。自分の両親に手をかけた人間が非術師を助けるなんてありえない。まして、五条悟の残穢を乗せた人間なんて格好の餌だろうに。薄汚れた地面に残る事実を紐解く余裕はないままその場を後にした。
「中途半端だな、お前は」
処置を終えた旧友は呆れた調子で言い放った。
「傷は」
「治るよ。何回言わせんの。ったく、そんなに大事なら家にでも閉じ込めておけばいいのに」
耳が痛い。その通りだ、でも。
「……僕はさあ、別にこの子の全部を奪いたいわけじゃないんだよ」
彼女には彼女の人生を歩んでいてほしい。離してはやれないけれど閉じ込めておくつもりもない。この子の全部がほしいけれど、奪い取るつもりはない。自由意志のその先でこの子が選んだものが自分でないのなら意味がない。何か言いたげな硝子は口を開こうとして、息を吐いた。ただの「使用人の娘」でないことはきっともう知られている。それでも彼女はそれ以上を踏み込んでこない人間だから構わない。今日は一日安静だと告げて彼女は部屋を出ていった。
二人きりになった部屋の中で、暦の手に触れる。少しだけ冷たくなっている。怪我を、させてしまった。そこにいなかったばかりに。
「ごめんね」
ずっとそばにいてもやれないのに手を離してやれない。そのくせ閉じ込める気もない。ろくでもない感情だ。未だ満たされないまま、行き場と答えをずっと待っている。こんなものが愛でいいのなら、そんな言葉で片付けられるならどんなにか楽だったろう。
立ち上がって、眠る彼女に口付けた。お伽話じゃないから、目覚めなかった。今はそれでよかった。深いブラウンの髪に指を絡ませて、考える。なにか、装飾品の形がいい。この前開けてやったピアスかネックレス。指輪はまだ重いだろう。彼女がそれと分からないような、呪符と同じ効果を持つものに仕立て上げる。今日見舞われたようなものなら簡単に弾けるだろう。残穢なんかじゃ足りなかった。この呪いの一部を切り取って彼女に分け与える。
せめて、守ることくらい。
根底の想いがなんであれ、そのくらいは。迷ったままの行いだとしても、許されるはずだ。
not yet
未だに
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情交と街