「ただいまー…」
玄関から聞こえたそれはいつもと違って不規則だ。どたどた、揺れる声と足音から見るに今日の飲み会とやらで相当に深酒してきたらしい。がたん、どすん。あちこちにぶつかるような音。迎えに行くか行かないか悩みつつ、リビングに繋がる扉の方を見る。
がちゃん。
必要以上に力を加えられたドアノブは大きな悲鳴を上げた。そんなことで壊れるほどのものではないけれど。向こうに立っている彼女と目が合った。目尻と鼻先、それから耳たぶが赤い。
「さとる〜…」
「おかえり、遅かったね」
「さとる〜…!」
鞄を床に落とし、キョンシーよろしく歩いてくる。流石に立ち上がって抱き止めてやると、背中に回った腕がぎゅっと締め付けられた。アルコールと煙草の混じった、外の匂いがする。
腕の力はそのままに暦は胸元に顔を擦り付けてくる。化粧でも落とすつもりなんだろうか。犬みたいにひとしきりごしごししたあと、飴のような目がこちらに向けられる。いつもの何倍もぼんやりした目。口が開かれる。
「えっちしよ〜」
「は?」
一瞬の間。
らしくもなく素の声が出てしまった。結構な音量で。爆弾を投下した彼女はなにが嬉しいのやら、にこにこ笑っている。行為自体は何度も繰り返しているものの、こんな誘われ方をしたことはない。そもそも誘ってこない。そんな暦からのどストレートな言葉。
「しないよ」
出てきたのは理性からの拒絶だった。考えなくてもわかる、この子は完全に酔っ払ってる。多分二日酔いになる。そんな有様を見て、好きな子に誘惑されてつい〜なんて気分には全くならない。キッパリとしたノーに、彼女は眉尻を下げる。
「なんでぇ?」
「酔ってるでしょ」
「酔っててもえっちできるし〜…」
「しない、吐くじゃん。やだよ僕ゲロまみれになるの」
「吐かない!」
暦は元気なお返事の後すぐに顔を顰める。自分の声が頭に響いたらしい。唸る彼女を抱き上げてソファーに座らせ、自分も隣に座った。彼女は体重を預けながら、人様の服の裾を指で引き伸ばしはじめる。
「本当にしない?」
「しない」
「ほんとに?」
「本当」
「うー…やっぱり…」
ずるずる倒れ込んで太腿の上。乗せられた頭を撫でてやる。
「私に魅力がないからだ〜…」
「なんて?」
返事の代わりにぴすぴす洟を啜る。
「魅力?何?」
「もうやだ〜…!」
「話聞けよ」
軽く叩けば彼女は仰向けになる。目尻の赤みが増したのは酒のせいだけじゃない。
泣いてる。
「何で?」
「う〜…」
「ほら泣くなって」
「だって〜…」
拭ってやろうと寄せた手を一回り以上小さな両手に掴まれる。あまり寂しそうに触れてくるものだから何があったのか察した。大方きっとこの関係について友人たちからあれこれ好き放題言われてきたのだろう。やれ逆ヒモ、やれ身体目当て、女の子って何でそう、他人の在り方に口を挟むのが好きなんだろうか。
この世の終わりみたいな悲壮な顔を浮かべ、途切れ途切れに暦は話し始める。
「わ、私色気ないし、別に可愛くないし、」
敢えて否定も肯定もしないで聞く。
「なんにもいいところ、ないから…いつかもう、いいって言われるかもって…」
「愛想尽かされるって?」
思わず出た深い溜息に身を縮めつつ、彼女は続ける。
「もう冷めてるかもって言われて…好きだったら、酔って帰ってゆ、ゆうわく…したら…その…」
恥が勝ったらしく尻すぼみになっていく。「ヤれなくなったらおしまい」を真に受けたんだろう。馬鹿なんだろうか。
「つ、つきあってない、から…悟が、他の人がいい、っていつか、言うかもって思って…」
一際大きな涙の粒と、搾り出すような声。
「それが、すっごくいや…」
言うだけ言って人の手で顔を隠す彼女を見ながら、微妙な苛立ち以上に、よろしくない喜びと感心が渦巻くのがわかる。
あー、酒の力ってすごい。十何年も昔に、ただ少し意地悪をして、もう遊ばないなんて言ったあの日のあの子に戻ってしまったみたいだ。勝手に不安になって、勝手に泣いて、こっちの気持ちを何一つ知らないまま、そのくせ握った手は離そうとしない。意地っ張りで弱気な、ばかな暦。
「はい、起きて」
自由な方の手を差し込んで抱き起こす。そのまま膝の上に座らせて抱き締めた。肩口に埋まった顔を見ることはできないけれど、今はそれでいい。
「あのさー、人のこと性欲塗れみたいに言うのやめようよ」
「ごめん…」
「僕だってちゃーんと今日は辛そうだなーとかやめておいた方がいいなーとか考えてるんだよ」
「ごめんなさい…」
あの頃とは違い短くなった髪に指を滑らせる。勝手に切ってきたときは少しムカついたな。でも短い方が似合うって、いつかは言おうと思ってた。
「これだけ長く一緒にいて、まだ捨てられる〜とか考えてるんだ」
「だって…」
「いちいち名前つけないと安心できない?」
「…………」
そこで、できないと言わないあたりがこの子らしい。微妙に欲張りになりきれない。本心はきっと、恋人だって言い張ってほしいんだろう。彼女だとか、将来は結婚を予定してるとか、そういうの。世間一般の当たり前に収めてほしい。そう思うのはわかる。だって暦は普通の子だから。
でもごめんね、こっちはそうじゃない。そんなつまらない名前なんて必要ない。そんなものに何の価値もない。いいところも悪いところも全部見てきたし、知ってる。何かが優れているからでなく、側にいるのが当たり前で、そこにわざわざ理由を探し出す必要はない。普通の人間にわかるように、彼女と言ってみることはあるけどそれだけ。
だからこの話はずっと平行線。暦が定期的にこんなふうになるのも仕方ない。
でも、そうだな。
当然がそこにあるのに、今日までそれで来たのに、他人の言葉なんかで揺らぐのは少し、腹が立つ。
「暦、」
肩を少し押して、顔を見る。少し崩れた、可愛くないかわいい顔をじっと見つめる。
欠点なんていまさらだ、そんなことで崩れないほどのものがあるって、いつになったら分かるんだろう。
「愛してる」
仄かにアルコールの香りがする唇にそっと口付けた。

違う意味で暴れる彼女を宥め、風呂に放り込んだ。寝支度が整う頃にはもう随分経っていて、残る酒と疲労のせいか布団に入るなり暦は寝息を立て始める。寝顔はゆるゆるもいいところ。さっきまで大騒ぎしていたとは到底思えない。
明日目が覚めた時、暦はきっとこのことを忘れてしまっている。くだらない悩みも、変にから回ったことも、その後も。いつもみたいに素直じゃない「可愛くない」「色気もない」暦に元通りだ。
ああ、でもそれじゃ勿体無い。せっかく素直で大胆なお誘いを受けたのだから、応えてあげないと。きっと夜になる頃には二日酔いも引いて、元気になっているだろうから。



Perfect love is the most beautiful of all frustrations because it is more than one can express.
- Charlie Chaplin
完全な愛というものは、もっとも美しい欲求不満だ。なぜならそれは、言葉以上のものだから。


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