
彼女が、台所に立っていた。
編んだ長い髪を揺らして、何かを作っているようだった。コンロにかけられた鍋からは湯気が立っていたし、フライパンからは良い音が鳴っていた。
窓からは柔らかい陽が差し込んでいる。今はきっと昼時なのだろう。
私はただ、ここで彼女を見ていた。
彼女は背が高い。私もそうだ。だから、このキッチンは悩んで、探し回ったものでできている。調味料入れは彼女に任せた。見た目を統一させたいの、と言いながら通販を見比べて唸っていたように思う。
そんな懐かしくて美しい記憶を思いながら。
これは全部夢だと理解する。
存在し得ない。そんな未来はない。私がそのまま高専を卒業し、彼女と二人暮らすことはあり得ない。否、あり得なかった。そうはならなかったのだ。私は彼女を置いていって、彼女は追いかけてこなかった。ただそれだけが真実だ。
これは夢か、そんなものを見せる呪いか何かだろう。
こんなものと笑ってしまおうと考えて、やめた。笑うことはできなかった。本懐を遂げた後のもしもを、考えてしまった。彼女を取り戻して、理想の世界で二人生きる。勿論そこには、他の家族もいる。力を持つものが苦しまず、笑って暮らせる世界。彼女とふたり、穏やかに生きる世界を。
かちゃかちゃという音が止んだ。彼女がこちらを振り向いた。
その顔は、霞がかったようにぼやけていた。
口らしきところがほほ笑みの形をとって、彼女は何かをいう。何かを言うのに、何も聞こえてこなかった。
そうか。
そんなものだ、夢なんて。
顔は、こんなものに頼らなくてもすぐに思い出せる。笑った顔も、怒った顔も、何もかもが愛らしかった。最後に見たのは、目を閉じたものだったが。声は、ああ嫌だな、思い出せない。人が一番最初に忘れるのは声の記憶だという。死の間際、最期まで残るのも聴覚だというのに。人の体はどうしようもない。
彼女はこちらを見上げて、私の言葉を待っている。今頃はもう少し雰囲気も変わっているだろうに、目の前の彼女は数年前のままだった。我ながら、想像力の乏しいこと。
それの肩に手を置いた。彼女はまだ、私を待っている。
「もう少しだよ」
そんな言葉は、現実の彼女に届かないと知りながら。
「もう少ししたら、迎えに行くよ」
幾度となく口にした、聞く人のいない誓いを吐いて。
手の中に収まった、黒い塊を、いつものように飲み込んだ。
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情交と街