何でこんな奴と飲もうと思ったんだか。私は数日前の自分の思考を疑った。

酒は好きな方だった。飲み始めたのは二十歳より前、硝子に誘われて。初回からいきなり限界を試された私は、その日以降うまい塩梅に酒の良さだけを楽しめる範囲内でお付き合いをしている。嫌なことを忘れられる、のかは疑わしいところではあるが疲れは軽くなるし気分は上向きになる。酒と私の相性は良い。
だから私は時折人を誘った。一つ下の後輩、二つ下の後輩、硝子も勿論。それがまあ此度はタイミングが悪く、多忙を理由に皆にことごとく断られてしまった。ひとり酒も嫌いではない。でも次は誰かとくだらない居酒屋談義をしたい。建設的である必要はない。とにかくどうでもいいことを、思いついたままに適当に話して、時間を浪費したい。仕事の愚痴でも何でも。それにこのままじゃ、私だけが暇人みたいで嫌だ。
人恋しさというには少し錆びついた感情を持て余し廊下をふらふら歩いていたとき、向こうからやってきたのは見知った男だった。だから、声をかけた、のだと思う。そういえば、こいつが酒を飲むのかどうか知らなかったな。

「何それ?ナメてんの?」
目の前の男がストローで啜っているのは緑色の鮮やかな液体。アイスクリームに、ご丁寧にさくらんぼまでついている。
「メロンソーダだよ。ゴリラ知らないの?」
「知ってるわよ」
突き刺さった長いスプーンでアイスを掬いながら男、五条悟は小馬鹿にしたように笑った。
賑やかな大衆居酒屋の片隅。私たちはちょうどうまい具合に空いた角の席に向かい合って座っている。机の上にはそれはそれは可愛らしいクリームソーダと、ポテトと唐揚げと、私のビールが乗っていた。
何だろうこの、この感じ。ほんのり、誘わなければよかったなんて思いつつビールを流し込む。
「オッサンみたいだね」
「うるさい」
誘わなければ良かった。もともとこの男とは、昔から反りが合わない。顔を合わせるたび、くだらない言い合いの応酬になっていたと思う。
「私が言いたいのは、こんなところまで来てそれってどうなの?って」
「僕酒飲めないし」
誘わなければ良かった!二度と誘わない!そもそもこいつもなんで乗ったんだ。どういう過程でこうなったのか、一番肝心の部分が脳内で行方知れずになっている。
「いちごミルクをご注文のお客さま、」
「はーい」
しかももう二杯目に突入している。果肉がグラスの底に沈んだ、デザート代わりにちょうどよさそうなピンク色はとても唐揚げには似つかわしくない。ファミレスか何かと勘違いしているのだろうか。アルバイトと思しき店員の、え?それ飲むの貴方なんですか?みたいな目が痛い。わかる、私もそう思う。私が飲んでいる方がまだ理解できる。本当にそう思う。
「それで、何の話だっけ」
「話なんて特にないわ」
「何それ、話があるって怖い顔するから来たんだけど」
そうだっけ。いやそんなはずは。
「勘弁してよ、ボケるにはまだ早いでしょ。嫌だよ僕オマエの介護なんて」
「頼んでない」
私の望んでいた「くだらなさ」はこういうのではない。ああ言われれば違うと言い、こう言われれば違うと言い、もしかして今日はずっとこれが続くのか。ダメだそんな、不味い酒は勘弁。頭の中をひっくり返し、せめてなんとかいい感じの話題がなかったかと漁る。
「お仕事の調子は最近いかが?」
「見合いかっての」
まあそれは、私もそう思ったけれど。けれども。かつて嫌というほど行かされたつまらない場所の思い出が蘇り、苛々が募る。
「うるっさい、本当なに、貴方ってこう…」
「はいはいキレんなって。仕事、仕事ねえ…」
より大きな面倒を天秤にかけた結果、やつはやつなりに話を広げようと考えはじめたらしい。先ほどとは別の店員が運んできた枝豆を食べながら様子を伺うことにした。一粒、一粒。食べることに集中しなくていい枝豆はとても楽だ。
そうだ、と五条は手を打った。
「面白い子が入ってきたよ」
「それ、去年も言ってたわ」
「そうそう!あっちはあっちで見所があるんだよ、もしかしたら僕と同じくらい強くなれるかも」
その顔は至極愉快そうで、本心からの言葉なのだとわかる。教師になると聞いた時は正気かと思ったけれど、こういう顔を見るに本人は本人なりに真剣に、かつてより真っ直ぐなやり方で若人に接し、その成長を楽しんでいるのだろう。生徒側は多分鬱陶しがっているだろうけど。
はたして彼のいうことが本当になったなら、この腐った世界に新たな風が吹くかもしれない。性格に難しかないこの男には、誰にも否定されない実力がある。家柄は御三家、自身は当主、術式は相伝に特別な眼。いつのまにやら領域まで獲得したというのだから大したものだ。術式を持たない私からしてみれば彼はどこまでも遠い位置にいる。その遠く高い場所に並ぶ人間が増えたなら、きっと苦しみから救われる人が増えるだろう。非術師も、術師も関係なく。
「前の子は術式が変わっていたのだったわね。今回の子は?」
「今回のはね、すっごい呪い提げててさ。もーおどろおどろしいのなんの」
その言い方からするに、使役しているわけではないのだろう。
「呪い?本人は術師じゃないの?」
「特級の呪い背負った元一般人だよ」
「気の毒な話ね」
つまりその生徒は望まずしてこの世界に引き摺り込まれたということだ。決して良い世界ではない。堂々と言える。人の感情の薄汚いところばかりを見る羽目になる彼に心底同情した。しかしその呪いとやらを、どうしてこの男は祓ってしまわないのだろう。生徒欲しさ?呪術師はいつだって人手不足ではあるけれど、それで一般人をどうこうする人間ではないはずだ。
私がジョッキを開けるのを待って、彼は再び口を開いた。
「その呪いの方は彼のことが大好きみたいだけど」
思わず手が止まった。
「ミックスジュースをご注文のお客様」
「はいはーい」
「こちらのグラスはお下げしても、」
「はいどうぞ〜」
いつの間にやら空になっていたグラスを二つ店員が連れて行く。言葉を次げない私を彼の双眸が捉える。
「呪いを連れてる本人にも制御不能、もともと彼の幼馴染だったらしいけど面影はない」
「……」
「呪いになった子は非術師でさ。何でそこまでになったのかはわかんないんだよね、ほんとお手上げ」
嘘だ。こいつはきっとその時になればその呪いも祓えるだろう。他の誰にできなくとも、この男であれば可能だ。彼にできなければこの世の中はその呪いとやらによって終わるだけだ。そこまでになる可能性があるものを放置するような人間ではない。
この男に並ぶほどの人間はそうそういない。他に誰がいるのだろう。他に、誰が。
否。誰か、できるとしたら。
十年前に失った、たった一人の背中が浮かぶ。
彼ならば、もしかしたら。
「ちょっと、枝豆」
「あっ」
指の間から飛び出したグリーンは重力に従って消えていく。無意識に摘んでいたらしい。汚いだの行儀悪いだのここぞとばかりに文句を言われたが返す余裕はなかった。思考の揺れを押し流すようにジョッキを傾ける。半分以上あったそれが全て消えて、喉がかっと熱くなった。
「今度会いにきなよ」
「嫌よ」
「何で?オマエいつでも暇じゃん」
「暇じゃないわ、働いてるもの」
「じゃあ働いてない時」
「嫌」
「めっちゃ拒否るじゃん、どうしたの」
「どうもこうもないの」
察しが悪い男ではない。ないからこそ、多分私が何を考えていたのか気づいているはずだ。気づいた上でその人と、呪いと、私を会わせようとする意図が、わからない私でもない。
呪いになってなおその人をその人として認識し、かつ愛することができる。それがどれだけの不幸と奇跡によるものかは分からないけれど、とにかくできるという実例が示された。術師でない人間でそうなれたのなら、だとしたら。
喉の奥ひとつ、滑り落ちて。
貴方の裡に溶け込んで。
貴方のそばで貴方の役に立てるような、そんなものに。
「グラスお下げしてもよろしいですか?」
「あ、ええ、ありがとう」
通りすがりの店員に空のジョッキが回収される。追加はどうかと尋ねられ、少し思案して甘いカクテルを二つ頼んだ。
喧騒の中、カクテルが運ばれて来るまで二人黙ったままでいた。べつに居心地が悪いわけではなかったから、話題を無理に変える必要を感じなかったのだ。多分きっと、二人とも。
やがて運ばれてきたオレンジと紫のグラスの片方を彼に向かって押しやる。
「ん、これお酒でしょ?僕飲めないって」
「貴方が、」
嫌そうに歪む顔を制するように口を開く。
「貴方がそれを全部飲めたら、その子に会いに行ってもいいわ」
「…それ、僕に得ある?」
「あるんじゃないの?ないなら最初からこんな話振らないでしょう」
「うーん、オマエって性格悪いよね」
「強かになったと言ってちょうだい」
細長いグラスを傾けて、オレンジジュースのようなそれを飲む。甘くて、これのどこにアルコールがあるのか全然わからない。軽い。
サングラスを隔てた奥、水色は私と、私のグラスと、自分のそれを交互に見ている。そして観念したように持ち上げ、傾けて。
「やっぱいいや」
彼の中の天秤は私に傾かなかったようだ。軽い音を立てて酒は机の上に戻される。
「そこまで駄々捏ねてるのに無理強いするほど僕は鬼じゃないよ」
「お気遣いどうも、お優しいこと」
私は二杯目を傾ける。やっぱり甘いし、アルコールの味はしない。こんなものでは酔えないし、私はまだ素面のままだ。
素面だから、わかっている。嫌味を挟んだ向こう側、確かに彼が心配していること。十年前の傷が未だに治っていないと知っていること。可能性を提示した上で、こちら側に留めようとしていること。全部。
数日前の廊下でのやりとりが急に思い出された。難しい顔して、悩み事?話があるなら聞こうか?なんてナンパもどきの軽い調子で聞かれたから、肯定と共に日付をすり合わせたのだ。軽薄を装って、この男は定期的にこんな席を作ろうとする。その機会を私のものとぶつけてみたんだ、そうだった。
「五条、大丈夫よ」
酒の味が舌に残っている。すこし粘度がある、人工的な甘みだった。
「心配しなくても、私は」
まだまともなふりをしていられるわ。
続ける代わりに、彼が飲まなかった酒を飲み干した。
からん。
溶けきっていない氷が滑って、音を立てた。



melt mellow memory


prev next

戻る

情交と街