
はてさてまあ、はぐらかすとは何だろう。自分の記憶をゆっくりさかのぼってみる。脳内ではエマージェンシーの一文字が渦巻いていたけれど、無理やり穴をこじ開けて過去へ旅をする。
そうして一つだけ、心当たりを思い出す。あれは、一週間前の出来事。
「ああ、薫!」
「あ、家康」
教室の戸を開けて外に出れば、廊下の向こうで待つ青年の姿が見えた。徳川家康。三つ年下の、弟のような幼馴染。同じ大学に進学した彼は、私の数少ない授業が終わるのをこうして外で待っている。最初は忙しいだろうし、他に友人もいるだろうと断ったのだが、「ワシがしたくてしていることだ」と言われてしまえば、それ以上強く言うこともできなかった。だって別に、嫌じゃないんだもの。
「それでな、今日は武田教授が…」
家康は色んな話をする。今日あったこと。昨日あったこと。それから私の話を聞いてくる。彼の、陽だまりのような一日に比べて、私のそれは埃かぶった倉庫の本のようで、なんとなく引け目。でもそんな面白くない話を、彼は笑顔で聞いてくれるものだから、この時間は心地いい。
「武田教授、いつでも熱血だしね」
「ああ、でもワシはあんな風に、熱く強い人になりたいよ」
「あはは、そうなるとちょっと、むさ苦しいな」
「そうか?薫が嫌がるなら、やめておこうか」
冗談めかして笑いながら、夕暮れに染まる道を歩く。私も家康も下宿生だ。家から離れた大学に行った私を追いかけるように、家康も同じところへ来た。
「それじゃあ、この辺で」
分かれ道に立つ。ここから左が私の家で、右が家康の家。言って振り返れば、少し後ろで立ち止まる彼が見えた。沈む夕陽を背にした彼の顔はあまりよく見えない。その拳は硬く握られている。
「…薫」
どうしたの、という言葉がなぜが出てくれなかった。彼の眼差しが私を貫く。嗚呼たまにある。真剣な顔だ。
「好きだ」
その口から絞り出された言葉は短いものだった。なのに重々しくて、ひゅっと息を呑む。あまりにも唐突。好きだ、すきだ。好きだって何?動揺する私をよそに、彼の唇がまた音を紡ぐ。
「好きなんだ、お前のことが」
聞き間違いではないのだと悟った途端、頭と身体が混乱からの逃走を図る。右足が一歩後ろに下がって、目が泳ぐ。
「あ、うん、ありがと。それじゃ、気をつけてね。うん。ばいばい」
「あ、いや、薫」
無理やり愛想笑いを浮かべながらブンブンと手を振って、そのまま早歩きで家に向かう。幸か不幸か彼は追ってこなかった。そうやってそのまま家に着いて、何の言葉も送らずに、寝て、起きた頃には、そのことは脳内に放り込まれて、仕舞われていたのだ。
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情交と街