Love you now and forever

 私が小学校入学直前のこと、両親が管理するアパートに一人の男の人がやってきた。

「はじめまして。諸伏景光です。今日からお世話になります」
「はい、はじめまして。相川です。今日からよろしくね」

 母に挨拶する彼を、母の後ろに隠れて見ていた私。

「その子は……?」
「ああ!娘のはなこです。ほら、挨拶は?」

その頃人見知りが激しくて、母に促されても中々出てこない私に優しく声をかけてくれた。

「はじめまして。今日からここに住むことになった諸伏景光です。君のお名前は?」

目の前にしゃがみ込んで聞いてくる彼におずおずと喋りだす。

「相川はなこ……」
「はなこちゃんか。歳はいくつ?」
「5さい……。今年小学校に入るの」
「お!小学校入学か!じゃあ俺とお揃いだな、俺は今年の春から高校に入るんだ」
「おそろい……」
「そう、おそろい。一緒にがんばろうな」

そう言って私の頭を撫でてくれた手に私は幼いながら恋に落ちた。


その時うちのアパートは入居者もあまり多くなく、1人暮らしでまだ年若い高校生という彼を両親は頻繁に食事に誘った。その度彼は私の隣に座って、たくさんおしゃべりをしてくれた。

「学校どうだった?」
「知らない子いっぱいいた」
「そっかーだよなぁ。友達出来そう?」
「がんばる……」
「おう、がんばれ」

俺もがんばるから、そう言ってまた頭を撫でてくれた。私は彼に撫でてもらうのが一番好きだった。







「あ!ひろくん!」
「お!はなこじゃん」
学校の帰り道で見かけた彼の後姿に声をかける。彼はわざわざ足を止めて待っててくれていて、私がそばにいくと必ずしゃがんで目線を合わせてくれるのだ。
「学校帰りか?」
「うん!ひろくんも?今日はやくない?」
「おー俺も今日はテスト期間だから早帰りなの」
「てすときかん?わたしも今日算数のテストだったよ」
「お!またおそろいだな」
頭をくしゃくしゃにされ、きゃーと言いながらも嬉しくて嬉しくて笑ってしまう。彼も一緒に笑ってくれて、自然と手をつなぎながら歩き出す。
「ひろくんはー今日はもうおうち?」
「ん?ああ、今日はもうお家。テスト勉強しないとなー」
嫌だなぁとぼやくひろくんを見上げながら、彼の気持ちとは裏腹に私の心は沸き立っていた。
「じゃあ!わたしも一緒にお勉強したい!ひろくんのじゃまはしないから!」
「ん?遊びに行かなくていいのか?」
「いいの!今日はおべんきょうするひって決めてたの!」
 別にそんなこと決めてなんか無かったが、折角一緒にいられるチャンスが目の前にあるのだ。飛びつく勢いで必死にお願いする。
「んーじゃあ一緒にお勉強がんばるとするか!」
「うんっ!!」
 嬉しいなって握った手を振り回していたら、彼は苦笑しながらも私に合わせてくれていた。そういうところが、優しくて好きだった。
 その日は夕ご飯の時間まで2人で勉強をした。大嫌いな勉強をしているって言うのにひろくんと一緒だとすごく楽しくて嬉しかった。
 一緒にいるのが楽しくて、嬉しくて、私はいつもひろくんにくっついて回っていた。多感な高校生の彼が、ただそこに住んでいるっていうだけのアパートの大家の娘を疎ましがらずに本当の妹の様に接してくれていたのだ。
 だからこそ、私の中で決め事があった。それは、彼が誰かと一緒にいる時は近寄らない、声をかけないと言うものだ。彼にだって交友関係があって、色々な事情がある。幼いながらにそれは感じていて、だからそれは、私の中での不可侵条約だったのだ。



「見て見て!!制服!中学生になったよ!」
 彼の家に飛び込み玄関でくるくる回る。突然やってきた私に彼は嫌な顔せず、笑って対応してくれた。
 私が小学校を卒業して中学生になる頃、彼は大学4年生。初めて袖を通した制服に、少しだけ大人の気分になって、少しでも彼に近づけたんじゃないかとドキドキして嬉しかった。
「おー!似合う似合う!そうかはなこももう中学生かぁ……。早いもんだなぁ」
「ひろくん親父臭いよ!!」
「お、ぴっちぴちの大学生に何を言うか〜!」
「きゃー!!」
 頭をぐしゃぐしゃにかき回される。私は昔から彼にこうされるのが大好きだった。ひとしきりぐしゃぐしゃにした後は、必ず手櫛で整えてくれるのだ。
 彼はまだアパートに住んでいてくれて、バイトに講義に忙しそうにはしていたけれど、偶に私を遊びにつれて行ってくれたりした。きっと彼が就職したらこうは行かない。あと1年ちょっとの執行猶予期間だ。
彼に彼女がいた期間もある。今はいないみたいだけど、何度か見かけたこともあるのだ。でも仕方ないのだ。私はまだ子供で、彼にとっては妹も同然だ。でも、彼の中で妹だったとしても、私を気にかけてくれているのが嬉しかった。少しだけ悲しいし、最初は家で大泣きしたけども、今は大丈夫。なんてったって中学生になったのだ。ちょっとだけ大人になった今は多くを求めない。これからチャンスはあるから大丈夫なのだ。

でもね、やっぱりちょっとだけ気になるの。

優しい優しいひろくん。少しはあなたに近づけましたか?





 彼が大学を卒業して、警察官になると警察学校というところに入った。卒業したらこのアパートを出ていくのかな、なんて思っていたのだけど、その予想は良い意味で裏切られた。彼はまだこのアパートの住人である。ほとんど帰って来ないけど。
 偶の休みに彼がこのアパートに帰ってくる度に私は嬉しくて、少しでも話せたら、会えたら良いなって過ごしていた。一緒にご飯を食べられるとなった時は飛び上がって喜び、両親が窘めるくらいにひろくん、ひろくんとずっとしゃべり続けた。今日あった事、昨日あった事、先月あった事、話したいことはいっぱいある。だって彼は忙しい身だ。会える時間なんて限られている。いっぱいいっぱい話して、私のこともっと知ってほしい。それ以上にもっと知りたい。ひろくんの話はとっても面白いのだ。同期とかいう人たちの事を話す彼はいつだって楽しげだ。私はその顔を見ているのが大好きなのだ。

 彼が警察学校を卒業するとき、彼はアパートを去った。ついにこの時が来てしまったのだ。お世話になりましたと笑う彼と、少し寂しそうにしながらも笑って送り出す両親。私だけずっと下を向いていた。

「はなこ」

名前を呼ばれて顔を上げる。本当は顔だってあげたくない。でも、ひろくんが私の名を呼んでいるのだ。顔を上げない訳にはいかない。
 顔を上げた私の顔をみて、彼は苦笑して頭を撫でてきた。
「そんな顔するなって。もう会えない訳じゃ無いんだし、ちゃんと連絡もするから」
「ん……」
「約束する、ほらゆびきり」

 差し出される指を数秒見つめ、自分の指を絡めた。大きな手だった。

「ゆーびきりげんまんうそついたら針千本のーますっ指切った!」

 彼の言葉に合わせて降られる手を私は無言で見つめる。私はまだ彼の眼をしっかりと見れていない。

「ほら、ゆびきりしたから。約束は守るぞ、俺は。……だから泣くな」

 
泣いてない。泣いてなんかない。まだ、私は泣いてなかったのだ。それなのに、そう言って優しく頭を撫でられたら、我慢していたものが勝手に溢れ出してしまう。
 ずるい。ずるい。そんなことされたら、そんな声で言われたら、我慢なんてできる訳がないじゃないか。
 ひろくんはそんな私を見て笑っていた。ひどい、人が泣いてるのに。そんな気持ちも込めて、私は彼に思いきり抱きついてやった。
 恥ずかしいとか、もうそんな歳じゃないだろとか、そんなの知らない。だって、次いつ会えるかわからないんだ。だから、ぎゅっと思いきり抱きついて、泣いてやった。多分鼻水もつけた気がする。
 彼はやっぱり笑っていて、私が泣き止むまでずっと頭を撫でながら、そのままでいてくれた。


 それから彼は約束通りちゃんと連絡をくれた。といってもお仕事が忙しいのか返信はまちまちで、会うのだって1ヶ月に一回程度だ。
 彼が去ってから半年が過ぎたくらいから、お仕事がもっと忙しくなったのか、会える機会は目に見えて減った。携帯でメールしても、帰ってくるのは数週間後だったり、時には数ヶ月後のこともあった。彼は忙しくなる直前に、連絡が取りづらくなる旨を私に伝えてくれていたから身体の心配はすれど、そこに不満なんて無かった。
 彼女でも家族でもない私を気にかけてくれていて、約束を守ってくれているだけでもありがたい話なのだ。
 それに、彼がどれほど警察という職業に一生懸命なのかを知っている。警察官になる為の努力を知っている。ずっと近くで見ていたから。その仕事に懸ける思いは垣間見えていた。
 それでも時間を見つけては会いに来てくれる彼に、愛しさは募っていくばかりだった。




一度、話したことがある。大変じゃないか、辞めたくならないのかと。

 その日はいつもの様に突然やって来たひろくんに誘われて近くのファミレスでご飯を食べている時だった。ひろくんは最近髭を伸ばし始めていた。それを言うと、ワイルドだろ?なんて言ってきて笑ってしまった。大人っぽく見せる為って言っていたけど、ひろくんは髭があってもなくても、かっこいいし、私からしたら十分大人っぽいから気にしなくて良いのに。
 そんな世間話をしている最中に、ふと聞いたのだ。
「ひろくんいつもすごい大変そう。警察ってそんなに忙しいお仕事なの?」
 1ヶ月ほどロシアに行っていたという彼の言葉とお土産を前にして問うた。彼は以前にもアメリカ等の他の国へ行っていたと話していたことがあった。警察ってそんな色々なところにいくものなのだろうか、休みがないものなのだろうか。大変過ぎじゃないかという気持ちがあった。
「なー?こんな大変な仕事なんて思ってなかったよな?」
 俺もびっくりした、とそう笑う彼は、けれどもこの仕事に就いた後悔なんて微塵も感じさせない笑顔だった。
「辞めたいって思ったこと、ないの……?」
 愚問だった。それでもそんな質問をしてしまうくらい、大変そうだったのだ。
「んー……勿論辛いことも多いけど、辞めたいって思ったことはないな?俺はこの仕事に誇りを持ってるよ」
「そっか……。いつもお仕事頑張ってるひろくんかっこいいもんね」
「お!嬉しいこと言ってくれるじゃん。そんな良い子には特別!好きなもの頼んでいいぞ*」
「ほんとに!?やった!!じゃあねっ、パフェ食べたい!いちごのやつ!」
「はなこは本当に甘いの好きだよなぁ。んー俺も久しぶりになんか食べようかな……」
 そう言ってメニューをめくる彼とあれやこれやと言い合いながら時間を過ごした。
 彼はやっぱり優しくて、格好良くて、私は彼がこんなに信念を持ってやれる警察官という仕事に興味を持った。みんなを守るお巡りさん。私もいつか、そんな仕事に就きたいなぁ、漠然とだけど、そんな風に思った。


 高校生になった。彼は相変わらず忙しそうで、中々会えない日々を過ごしていた。高校に入学して3ヶ月ほど経ったある日、彼はやっぱり突然我が家にやってきた。
 歓迎する両親と私にたじたじになりながらも、久しぶりに彼と私と私の両親と4人で食卓を囲んだ。
 私は久しぶりに会った彼に高校の制服を見て欲しくて、いつもなら直ぐに着替えてしまう制服を着たまま過ごしていた。わざわざ制服を着てるなんて、やっぱり子供っぽいかなと思ったりもしたけれど、少しでも私が大人になったことを知って欲しかったのだ。私はもう、16歳になる。結婚だってできる歳だ。
 彼は私の制服姿をみて、少しだけ驚いたような表情をして、笑った。
「もう高校生か……。大人になったなぁ。会った時はこーんなに小さかったのに」
 そう言って手で私の小ささを表現する彼に、そんなに小さくなかった!と怒ったように言いながらも、私は内心とても喜んでいた。
 彼が私がちゃんと大人になっていっていると言ってくれた。認識してくれていた。
 彼は私を笑って宥めながら、優しい顔をして
「制服似合ってる。可愛いよ」
と言ってくれたのだ。だからきっと、私は浮かれていたのだ。浮かれた勢いでやってしまったのだと思う。


 ご飯も終わり、良い時間になってきたし帰るという彼を見送りに玄関へでる。
 月明かりに照らされた彼を見つめる。
「じゃあまたな」
 そう言って決まったように頭を撫でてくれる彼に、私はつい口を滑らせた。
「ひろくん、好き」
「は?」
 私の言葉に突然何を言い出すのかとびっくりしたのか、私の頭においてあった手が中途半端に離れて止まる。
 言ってしまった。でももう戻れない。
「わたし、ずっとひろくんが好きだった。家族としてじゃないよ?ちゃんと、ひろくんを男の人として好き」
 わたしの言葉に、暫くびっくりして呆けていた彼が真剣な表情に変わる。ああ、この人のこんな真剣な顔を見るのは初めてかもしれない。
「はなこ」
 あ、振られる。彼の私の名前を呼ぶその声だけで悟ってしまった。
 だから私はそれを遮った。
「あのね、わかってるの。ひろくんが私のことそういう風にみてないって。でも、伝えたかったの。いつまでも妹でいたくないから……。だから、だからねっ!いつか私がもっとちゃんと大人になって、ひろくんと並んでも問題ないって年齢になったら、その時に返事、聞かせてほしいな……。それまでひろくんに好きになってもらえるよう、いっぱい頑張るからっ!…………だめ、かな……」
 ひろくんは答えない。黙って私をみている。やがて、小さな溜息と共にその沈黙を破った。
「…………わかった。その時はなこがまだ俺のことを好きって言ってくれたなら、その時に返事をするよ。約束だ」
「好きだよ、ずっと好き。それは変わらないよ」
 そういうと、彼は困ったように笑って
「ありがとな」
と言ってくれた。
 もう遅いからそろそろ家に入れと言う彼に従い、手を振って家に入り彼と別れる。
 玄関のドアを閉めると同時に座り込む。浮かれていたにしたって、告白するなんて何をしてるんだ自分、と後悔が襲う。多分、困らせた。でも約束もしてくれた。彼は約束は守ってくれる。だから私は、彼に釣り合う女性になれるように努力しよう。それが今の私にできる唯一のことだ。









 それから、彼から連絡が来ることはなかった。勿論私からの連絡に返事が来ることもない。最初の数ヶ月はまた忙しいのかな、と思っていたが半年が過ぎ、1年が過ぎ、2年が過ぎた。いつしか彼に宛てて送ったメールは宛先不明で返ってくるようになり、電話も通じなくなっていた。
もうきっと彼から連絡が来ることはないのかもしれないと思ってしまうことが増えた。
 もちろん泣いた。それはもう沢山泣いた。あの時、告白なんかしなければ良かった。きっとそれが原因で彼は私と連絡を取るのをやめたのだ。これが彼の答えなのかも知れない。そう、思った。だってそれ以外原因なんてわからなくて、きっとこれは彼なりの告白の返事なんだろうと思った。
 でも、そんな事をする人では無いということも知っていた。きっと彼は今は会えなくても、私が大人になったその時に会いに来てくれる、そう信じていたし確信もしていた。だって彼は、ひろくんは、約束を守ってくれるから。

 23歳、学生を卒業して社会人になり、世間的には立派な大人の仲間入りをした。
 私は、あの時の彼への憧れを胸に、警察官になった。信念を胸に歩く彼の姿にずっと憧れていたから、たとえ彼と距離を置かれたとしても、警察官になろうと思う自分の気持ちを疑うことも、否定することもなかった。
 警察官への道のりは厳しかったけれど、これが彼の歩んで来た道、そう思うとなんだか楽しかった。


 今日、配属先への初出勤だ。


 ねぇひろくん、私もう大人になったよ。あなたからしたら、まだ私は子供かな?……まだ返事はもらえない?
……返事なんかいらないから、ひと目でいいから会いたいよ。






「はじめまして。本日付で警備局警備企画課配属されました、相川はなこです。よろしくお願い致します」
 目の前の上司に向かって敬礼する。上司は緩く頷いて、私に向き直る。
「話は聞いている。学校の方では随分優秀だったようだな」
「お褒めにお預かり光栄です」
「俺は降谷零、君の直属の上司にあたる。悪いがここは万年人手不足でな。覚悟しておいてくれ……」
「はい」
 私の返事に頷く上司を見やる。ひと目見た瞬間から、なんだかどこかで見たことがある様な気がしていた。上司をみた瞬間から感じていた違和感に首をかしげる。こんなに整った顔をした人と会っていたら流石に覚えている気がするのだが……。
 そんなことを考えていると、変な顔をしていたのだろう。上司から怪訝な顔をされる。
「どうした。何かあるのか」
「えっ、あ、申し訳ありません!少し、降谷さんの顔にどこか見覚えがあったので……どこだったかなと考えておりました」
「ああ、昔は潜入捜査の一環で喫茶店でバイトもしていたからな。そこでじゃないか」
「喫茶店……ですか、いや、なんか違う気が……」
 話していて浮かぶのは、もうずっと昔の彼の姿。遠くから眺めていた彼と一緒にいた人に似ているのだ。その人は、彼の親友だと聞いた気がする。
「あっ、昔みた知り合いの友人に似てるんです、降谷さん」
「……知り合い?」
「はい、なんとなくですけど、似てる気がします。喋ったこともないし、遠目でしか見たことは無いんですが。その人は友人から、ゼロって呼ばれていまいした」
 そう、彼、ひろくんの友人に似ている気がしていたのだ。幼いころの記憶だからおぼろげではあるが。
 降谷さんは何かを考える様な顔をして、私に問うてきた。
「……その知り合いとはどんな奴なんだ」
「知り合いと言ってももう何年も連絡をとっていないんですが、私とは歳が離れていて……。もしかしたら降谷さんと同じくらいの年齢かもしれません。私の両親が管理しているアパートの住人でした。幼いころからよく面倒見てくれていて、私、その人に憧れて警察に入ったんです。……ってすみません。語ってしまって」
 つい余計なことまで言ってしまった。恥ずかしい。しかも会って初日の上司に自分の警察になった理由を語るとか恥ずかしすぎる。ちらっと上司の顔を伺うも、彼は感情の読めない表情をしていた。
「いや、良い。その友人も警官なんだよな。名前を聞いても?」
「あ、はい。もしかしたら降谷さんもご存じかもしれないですね。諸伏景光さんって方なんです」
「……そうか」
 そう言うと上司は表情も変えずに踵を返し歩き出した。なんだろう、その態度が少しだけ気になったが、その後は特に気にすることも無く、彼の指示に従って動くことに食らいつくので必死で、その時の事はすぐに忘れてしまった。


 ここに配属されて半年とちょっと、少しずつ仕事にも慣れてきていた。降谷さんからの指示はいつも的確で正しい、そしてその分だけ難しかった。言われたことをただこなすのでは無く、常に考えて行動しろと度々言われていた。当たり前の事だが、これが中々難しい。もともとが異色の仕事を行う部署であるからに、自分の考えが正しいのか、何が正しいのかの判断が難しかった。それでもどうにか食らいついていくことで、現時点での評価はそこそこ悪くない様だった。
 それは、警視庁公安部に所属する先輩の風見さんから教えてもらったことだ。所属は違えど、公安の先輩として彼から学ぶことは多かった。
 深夜、私が慣れない仕事に忙殺され疲れが見え始めていた頃、風見さんに声をかけられたのだ。風見さんは降谷さんと連携を主にとっているからか、私の指導もして下さっている。他愛ないミスをしてその処理に追われ、デスクでうなだれる私に彼は声をかけてくれた。
「降谷さんはこの仕事に熱意と信念を持ってやっている。仕事において使えない人間は使えないとはっきりと言う人だ……。君はその点、あの人に認めてもらえているんだろう。……少し、羨ましいほどだ」
「え……」
「だから、ここで膝をつくな。もう少しでこの忙しさも少しは緩和するだろう。実際君は良くやっている。ここで躓いたら、戻って来られなくなるぞ」
 実際、挫けてしまいそうな時だった。毎日深夜までの残業に昼間は降谷さんの指示で外に出ずっぱり、やっと家に帰れたと思ったら呼び出される日が続き、その上今回のケアレスミスだ。身体の疲労も精神面も辛くなっていたそんな時にかけられた言葉は、私を奮起させるには充分で、その言葉があったからこそ、ここまで頑張って来られた面もあるだろう。
 なんせあの降谷さんが認めてくれているというのだ。あんなに完璧な方に認めてもらえているのなら、こんなところで躓いてなんていられない。
 それに、ここで逃げたら私はきっと、いつか彼と会えた時まっすぐに向き合えないと思った。彼はどんなに忙しそうにしていても私の前で弱音を吐いたことは無かった。




 
「相川!」
 大きな案件も無く、あとは帰るだけという夜。風見さんに声をかけられた。彼の元へと行くと、難しい顔をした風見さんがいた。
「降谷さんがお呼びだ。資料室へ行って来い」
「?はい……」
 何か重要な案件でもあったのだろうか。そう考えるくらい風見さんの表情は固かった。不思議に思いながらも資料室へ急ぐ。降谷さんは忙しい方だ。あまり待たせてはいけない。
 資料室へ着き、ノックをすると扉の中から入れと声が聞こえ、失礼しますと言いながら中へ入る。中には案の定降谷さんがおり、彼のそばにある机には何冊かのファイルが置いてあった。ここ資料室は機密事項が多く保管されている。昔の事件の調査資料など、閲覧に制限がかけられているものも多く存在している。多分、あの机に乗っているのは私では閲覧が許可されていない資料だろう。そんなものが無造作に机にある状態で私を呼び出して良かったのだろうかと不思議に思いながら彼へと向き直る。
「お呼びでしょうか」
「ああ、こちらに」
 そう言われて素直に彼の元へ向かう。降谷さんはすごく真剣な表情で言った。
「今日、君をここへ呼びだしたのはここにある資料を君に見せるためだ。この資料は以前俺が潜入捜査をしていたとある組織に関する一連の捜査情報が記載されている。……今の君には本来閲覧権限がないものになるが、君には知る権利がある、そしてこれを見せても良いとこの半年で判断した。これは俺の独断だ」
 そう言って差し出された資料を受け取るとずしっと重く、相当な案件だったことが伺えた。
「この資料を見るのは決して強制ではない。見るのが嫌になったらやめても良い。業務には直接関係の無いものだ。読み終わる頃に風見をここに向かわせるから、資料はそのままにしておいてくれて大丈夫だ」
「あ、はい。わかりました。……でもなぜ私にこの資料を?」
「君なら受け入れられるだろうと、あと、そうだな……。きっとその方がアイツも報われると、勝手に俺がそう思ったんだ……。では、俺は戻る」
 そう言って彼は部屋を出て行き、残された私は椅子に座って受け取った資料を開く。そこに書かれていたのは、通称黒ずくめの組織と言われる組織との壮絶な戦いの数々だった。
 途中、資料に書かれる上司の名前と共に、見覚えのある名前が出てきたことにより、なぜ上司が私にこの資料を見せたのか、そして…………彼の現在を悟った。
 

 ああ、ああ……。途中までは堪えていた涙も、彼の最期の記述を見たときにはもう止まらなかった。
嗚咽が漏れる。なんで、どうして、彼が、なんで。
「ひろくん…………、ひろくんっ、ひろ……くっ、ふっ……ああ……」
 大好きだった。大好きだった。大好きだった。彼に会いたくて、彼に近づきたくて、彼に、認めてもらいたくて、ここまで来た。私の世界の中心にはいつも彼がいた。
 ずっと、いつか約束通り私の告白の答えを、返事をくれると、彼は約束だけは守る人だからと、信じていた。
 私がのうのうと生きていた時、彼のその命の灯は潰え、彼はもうこの世にいなかったのだ。この記述を見る限り彼にはお墓だって無い。もう、彼に会うことは一生出来ない。
 記述を見ると、私の告白の直後に彼はこの世を去っていた。あんな……彼を困らせるだけ困らせた日が最期になるなんて……。
 涙で視界が歪み、資料が見えない。でも、この資料は絶対に最後まで読もうと決めた。彼が言葉通り、命を懸けて従事した任務だ。目を逸らさず、最後まで見届けよう。
 泣き過ぎて頭が痛い。鼻が詰まって、息もしづらい。でも、どんなに時間がかかっても良い。最後まで……そう思って必死に読んだ。

 読み終えて資料室を出ると、そこには風見さんが待機していた。風見さんは私の顔を見ると、顔を歪めた。
「今日はもう、帰って良いそうだ。ゆっくり休めと……降谷さんが」
「はい……、ありがとう、ございます。…………失礼します」
 きっと私はすごい顔をしていただろう。声もガラガラで小さくしかでない。化粧だって剥げ落ちて、目は腫れているのが自分でもわかる。
私に気を使ってくれているのだろう。それならば、ありがたくそれを享受させて貰おうと庁舎を後にした。


「おはようございます」
 翌朝時刻通りに出勤した私に、風見さんと降谷さんは驚いた表情をしていた。昨日家に帰ってからもひとしきり泣いた為顔は酷い有様だが、化粧である程度誤魔化せているだろう。
「おはよう…………大丈夫か……」
 昨日の私を見ているからか、風見さんは心配そうに声をかけて来てくれた。優しい人である。
「はい、大丈夫です。昨日は情けない姿をお見せして申し訳ありませんでした」
「いや……」
 まだ何かを言いたそうにする彼を置いて、自分のデスクに荷物を置き、降谷さんのデスクへと向かう。
「あなたが、ゼロだったんですね……」
 私が声を掛けると視線をあげた降谷さんと目が合う。だから最初に会った時、彼に見覚えがあったのだろう。
「ああ……アイツとは幼馴染でな。君のことも話に聞いていた。まさかこんな所で会うとは思っても見なかったが」
「ふふっそうですね。……降谷さん、ありがとうございました」
「……ありがとう、とは?」
「資料を見せてくださったことです。…………私は、知れて良かったです」
 真っ直ぐに彼を見つめる。そう、知れて良かった。彼の生き様を知れた、彼の最期を知れた、これはここに来なければ、降谷さんが手配してくれなければ私は一生知ることができなかった事実だ。だから、感謝している。
「そうか……。本当は少し、真実を知ったら今日君はここに来ないんじゃ無いかと思っていたんだ」
「そう……ですね。昔の私なら、来れなかったかも知れません。彼の後を追っていたかも知れない。でも、私はこの仕事に就いた。彼が信念を持って、命を懸けて取り組んだ仕事に。だから私は、私が必要になくなるくらい平和な世の中になるまで、この仕事を続けたいと思います」
「ふっ……良い覚悟だ」
「ありがとうこざいます」
 礼をしてデスクに戻ろうとすると、降谷さんに呼び止められ振り返る。彼は少し押し黙ったその後に、優しそうな、泣きだしそうな顔をして言った。
「アイツは……君に会うことで、救われていた。いつも君の話をしていたんだ。久し振りに会ったらまた大きくなってた、君が初めて作った料理がすごい出来だったと。君の笑顔を見ると、頑張ろうって思えると、君にずっと笑っていてほしいから、と……」
 それだけは伝えたかったんだ、と言って、言うことを言うと彼は席に着き仕事にかかり始める。
「っ……、ありがとう、ございますっ」
 目頭が熱くなる。もうこちらを見ていない降谷さんに向かってお辞儀をして自分もデスクに戻る。何も考えていなかったあの頃の私だけども、彼にそう思って貰えてたのなら、これ以上の幸福はない。
 ああ、泣かないって決めたのに、涙が出てしまいそうだ。でも、まだ泣かない。今は仕事中だから、仕事が終わったら思いっきり泣こう。きっと明日も酷い顔をなるけれど、大丈夫。いつかは乗り越えて、そして笑おう。
 だって彼は、私に笑っていることを望んでいたのだ。いつまでも泣いてなんかいられない。






 でも少しだけ、少しの間だけは泣かせてほしい。いいでしょ?だってひろくん、約束、守ってくれなかったんだから。
 私、大人になったでしょ?良い女になったでしょ?ぜんぶぜんぶ、あなたのおかげ。
 だから、だからね、いつか私がそっちへ行った時、告白の返事、聞かせてね。あなたに会えるその時まで……あなたから告白されるくらい良い女になってるから。……約束ね。














 ああ、ここまでか……。
 階段を登る足音を聞きながら思う。ごめんな、ゼロ。後は頼んだ。
 覚悟はしていた。恐怖はない。あるのは後悔。
 銃のグリップを握る手に力を入れる。

 ああ……最後に思い浮かぶのが君の顔なんて……。
 可愛い子、大切な女の子。
 答えてあげられなくてごめん。
 まだ幼さの残る顔を思い浮かべる。きっと、後数年もしたらすっかり大人の女性の顔になっている。綺麗なんだろうなぁ……。見れなくて残念だ。
 幸せになってほしい。あの無邪気な笑顔に何度も救われていた。
 こんな生きるか死ぬか、殺伐とした世界に身を置いて、心が疲弊していた時に、無邪気に笑いかけてくれたあの笑顔に。
 大切だった。守らなければいけないと思った。だからこそ、頑張れたんだ。
 俺はここでおしまいだから、俺のことなんか忘れて幸せになってほしい。いや、少しは覚えててほしいかな?
 まぁどっちでもいいさ、君が笑っていられる世界なら。



 なぁ……俺は、君の世界を守れていたかい……?


 好きだったよ。幸せに。