Act-16 胸騒ぎ
(これは賭けだ)

姫湖の躰にいる雪乃は思った。

逞しい暖かな胸に抱かれて、大人の女性としての心が騒めく。
転寝状態のような眠りから醒めて少し身じろげばポンポンと安心させるように背を撫ぜられて額にキスを落とされる。
不安定な心が落ち着いて、暖かくなってくる。

(赤井さん。 姫湖の躰を借りてごめんなさい。でも、姫湖ちゃんの心には無条件で愛してくれるにぃにぃが必要なの。 しーちゃんをつなぎとめる方法が思い浮かばない。 姫湖ちゃんは、後、数年もしたら、プロのモデル以上に綺麗に為るわ。 姫湖ちゃんは赤井さんをにぃにぃとして大好きで。 まだ気がついてないけれど恋心を抱いてる。 もしも、日本で、任務とはいえ、宮野明美と恋人同志に為るのをみたら、微かに残っている姫湖ちゃんの心が砕けて誰も信じられなくなってしまう。原作と違うけど、赤井さんは、渡したく無い)

姫湖としてではなく、雪乃の意識で、赤井の腕の力が緩んだ時に、もそもそと寝返りを打つようにそっとベッドから抜け出した。

「(姫湖?)」

腕からするりと温もりがなくなった感覚に赤井は直ぐに目を醒ます。
眠りが浅くてうとうとして目覚めている事はわかっていた。

躰を起こしてベッドサイドの時計を見れば真夜中。
キィ… と、ドアが開く音がしてパタンと閉まる。

(こんな夜中にどこへ―?)

バサリと毛布をめくって、ドアの近くで耳をすませれば、同じ階にある部屋のドアが開く音がして、赤井は気配を消して廊下に出た。
耳を澄ませていれば、少し経って、姫湖の部屋からサーサーという水の流れるような微かな音。

「そういえば、シャワーも浴びずに昼寝をさせて夕食にして、また寝かせたんだったな…」

赤井は苦笑するとほっと息を付く。

シャワーもお風呂も大好きな姫湖は烏の行水のような妹と違って長湯で、習っているピアノのクラシックのCDを聴きながらたっぷりと1時間は入っている。

赤井は苦笑すると自分の部屋に戻り、ベランダに出て、煙草を1本吸って意識を覚醒させる。
ベランダから姫湖の部屋の電気がついているのが分かる

(病院から戻ったばかりで長風呂をさせるとDrに怒られるのは俺だ。 風呂好きな姫湖には可哀想だが10分程度で我慢して貰うかないな。 おじさんの変わりは出来ないが、髪を乾かす位ならー…)

赤井がノックをして姫湖の部屋に入れば部屋に備え付けのバスルームからシャワーの音。

「姫湖? 髪を洗ってるんだろう? 長風呂をすると俺がDrに怒られるからそろそろ出て来てくれないか? おじさんや聖さんの変わりはできないが、俺が髪を乾かしてやるから」
「―…」

バスに入って転寝でもしてしまったのか返事はない。

「姫湖?」

躰が動く気配を感じ取れない。
脱衣所に違和感を感じて見回せば脱いだ筈のネグリジェがない。




胸騒ぎが、した。





「―‥‥‥‥ 姫? 姫湖、どうした!?」


ドアには鍵が掛かっているが構わずに蹴りをいれてドアノブを壊して開く。

その先に広がるのはメロドラマと同じ展開。
ネグリジェ姿のまま、首と手首にナイフを走らせ、頭からシャワーを浴びてバスタブにもたれかかるように気を失っている。


「姫っ!!」


シャワーの元栓を止めてバスタブに凭れている躰を抱き起すと脱衣所に掛かっているタオルを引き裂いて上腕をきつく縛り上げると容赦なく頬を叩く。
首は躊躇い傷程度。


「目を醒ませ! 姫湖! 馬鹿娘っ! 聞こえるか!?」
「―…ぅ?(赤井さん―… 気付いて、くれ、た―…?)」
「姫湖! 俺が分かるか!? 何をやったか、わかってるのか!」
「―… この  ま、ま―…(ごめんなさい。 私が修めたのは医学。 この位なら、看護婦がいるこの家でなら、死ぬ事は、ない…)」

薄く開かれた目は光すら映らないのか小さく呟かれる声。

「つったく! 何て事をっ!! 親不孝の馬鹿娘っ! おじさんとおばさん、聖さんまでを泣かせるつもりか!!」

細い躰に纏いつく濡れたネグリジェを脱がせて大きなバスタオルで包み込むと抱き上げてベッドに運び込みルームホンで看護師でもあるメイドを叩き起こす。

数分も経たずにパジャマにカーディガンを羽織った姿で医療キットを抱えた看護婦が駆けこんでくる。

「何時気づかれました!?」

「ベッドから抜け出たのは20分程前だ。水音がしだしたのは多分15分位前。 シャワーだろうと思って煙草を1本煙って、長湯を止めさせようと声をかけたのが5〜6分前、という所だ。」
「そうですか。」
「救急車を呼ばなくてもいいか?」
「大丈夫。 首の傷はかすり傷です。手首の方も広範囲で切ってますけど、切った場所も太い血管からずれてますし、衝動的に切っただけみたいですね。病院には連絡しておきますから、朝になったら輸血パックを届けて貰って、主治医のDrを呼んで診てもらう程度で大丈夫です。貧血を起こしかけてますけど、安静にして栄養のあるものをちゃんと食べれば2〜3日で起き上がる事もできますから。」
「よかった。 この子に何かあったら、後見人失格だ。手首を切ろうとする程、傷ついていた事に気づいてやれなかった。」

びっしょりと濡れている髪の水分をタオルで拭きとりながら赤井は安心したように云う。

「赤井さんの責任ではありません。 ですが、少しの間、安定剤を処方して様子をみた方がいいかもしれません」
「―…”いいかも”、とは?」
「云いにくい事ですが、自殺未遂をすると、自傷癖を発症してまた手首を切ったりする患者さんって多いんです。」
「PTSDの事か」
「あのような形でご家族を亡くして平気でいる方がおかしいんです。 恐らく衝動的なものだと思いますわ」
「そうかもしれないな。とても良く笑う子だったのに、この数か月笑っているのをみていない。 あれ程好きだったピアノにも触れてない。」
「とてもお上手だったとか」
「毎日毎日綺麗な音を響かせていると、兄馬鹿の聖さんがスマホで録音したのを聞かせてくれた。着メロも姫湖がジュニアコンクールで引いた時の曲を編集して。画面は勿論満面笑顔の妹で。ピアニストの登竜門と云われるショパンコンクールで史上最年少の優勝候補とも噂されていて。 学校が休みの土曜日はピアノスクールで朝から晩までレッスン三昧でね、勿論、勉強も頑張ってたが」
「飛び級してるんですよね?」
「本来ならまだ中1だが、すでに中3で高校も選び放題と言われている。だから、1年や2年休学しても何も問題はないんだが」
「そうですか… でも。 赤井さんがいれば時間はかかっても立ち直る事ができるとおもいますわ。」
「俺が?」
「姫湖ちゃん。… 赤井さんの服を握ってます。」
「ぁ―…」
「離れたくないんですわ。 赤井さんと。」

自由の利く手が赤井の服を握り締めている。
赤井はベッドサイドの椅子に座って毛布の中に手を入れる。


「(俺だって姫湖と離れたくない。 日本に行くのは、おじさんたちを殺した奴等が日本で胎動を始めたからだ…)」

「赤井さん。 明日―…といっても、今日ですが、お仕事があるでしょうから、少しでも休まれて下さい。姫湖ちゃんには私が付き添います」
「君こそ休んでくれ。目を醒ました時に傍に居てやりたい。」
「ですが」
「仕事なら心配ない。姫湖の体調が悪いといえば有給になる。」
「なら、シャワーで濡れた服を着替えて、髪も乾かしてきて下さい。」
「―… これ位なら―…。」
「駄目です。姫湖ちゃんの髪の水分は私が拭いて乾かしてますから。」
「分かった。 10分位で戻って―… いや、キッチンで珈琲を入れてくる。君の分も淹れてくるよ」
「有難うございます。ならカフェ・オ・レでミルクと砂糖をたっぷりのを。」
「甘党か?」
「いえ、牛乳と生クリームが苦手なので珈琲の時だけでも牛乳を補うようにしているんです。アレルギーじゃないんですけど…」
「了解した。」

赤井は頷くと自分の部屋に戻り、パジャマを変えてガウンに袖を通すとキッチンに降りた。
そしてカフェ・オ・レとブラックコーヒーを入れて部屋に戻るとバスタオルが椅子に置かれていた。

「すいません。 タオルだけではと思って勝手に着替えを…」
「いや、助かった。 幾ら妹のような子とはいえ、実際血がつながっているわけじゃないし、女の子、だしな。」


看護師の手に寄って新しいネグリジェを着せられて濡れていた髪の毛も丁寧に水分を拭きとられ、優しく乾かされサラサラとなびく。

「もし、寒がるようでしたら、ドライヤーを温風にして首筋を温めるかホットタオルを首元に当てて上げて下さい。あと、靴下を捌かせて保温を」
「首? 靴下?」
「首が暖かいだけで体感温度は変わります。体力が落ちていますから体感温度で 首、手首、足首 の温度が下がると風邪をひきやすくなりますわ。」
「あぁ。 そういえば確かに」
「熱がでるかもしれませんから、私は病院に連絡して必要と思われる薬剤を用意しておいて貰います。」
「頼む。 俺の仕事は姫湖が起きたらまずは説教だ。」
「確かにお説教も必要ですが、頭ごなしに雷落としは駄目ですよ。姫湖ちゃんは今、普通の状態じゃないんですから」
「了解した。」

赤井は自分の手を温度を確かめると、白い頬を温めるように包み込み、優しいキスを額に落とす。

「(今のお前を独りにする事は、俺にはできない。 たとえ、日本でどんな危険が待ち受けようとも)」
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