Act-15 夜中の舞
ホテルならぬ藤代の家に帰ってきたのはもう10時を回っており、散々食べたあとだったので、夜食どころではない。
表通りに面した呉服屋の表玄関扉はとうに閉められ、裏(と云っても可也の旧家らしく店を含む一角そのものが私有地だった)の自宅門から案内された。

自宅の方は3階建ての洋風だが、店と離れは日本家屋の2階建て。
プロの中でも専門知識がなければ気が付かない所に監視装置が設置してあるのに、諸星は目を止める。

(黒澤氏のアドバイスか、それとも藤代さんも組織の一人なのか)

食べ過ぎで胃が苦しくて躰が重いと車で中でダウンした巳恩に一言位は説教を噛ましたいと思ったが、そんな事をすれば何を言い出すか分からない。
胃が苦しいと呻いていた巳恩だが、家に入ると、恭介と呼んだ男性と、綾乃と呼んだ女性にきっちりと挨拶をする。

「仁人おじ様、お約束よ。舞を見せて下さるでしょ?」
「ははっ! 食べ過ぎでもそういう約束は覚えとるんやな。離れを温めたりするのに1時間位掛かってしまうで? それでもええか?」
「なら、その前にお父様に挨拶をしてくるわ。いいでしょう?」
「ほんなら、離れに座を設けてやるさかい、仏さんに挨拶をして荷物を部屋に置いてからくるとええ」
「じゃ、福玉と荷物は僕らが運んでおいてあげるから、巳恩は仏間に云くといいよ。部屋のエアコンも入れておいて上げるから」
「ありがと!」
「どういたしまして、 諸星さんはどうします? 僕らと先に離れに来ますか?」
「俺もDr有間に挨拶をさせて頂きます。 何しろ、ミス巳恩は俺の大切な護衛対象だ」
「ほうか。 ま、離れへの行き方は巳恩が知っとるし、灯が灯るから一人でもこれるやろうしな。 巳恩、諸星はんの部屋は階段の上の客間を使って貰うんやで?」
「分かった。 諸星、仏間はこっちよ」
「はい」

私邸にしては長い廊下の端にある仏間で蝋燭を灯してお線香に火をつけると手を合わせる。

(組織の連中は無くなった人に手を合わせる事はしない。だが、肉親となれば別なのだろうか)

諸星もつかの間、幼い頃に立ち返ると巳恩よりも背後に控えているのを幸いに手を合わせる。
仏間の供え物の一角に桐の置物がおいてあり、その上に置かれた紫の袱紗の上にカフスボタンが置かれている。

「これはね、お父様の遺骨で作ったアンクオン・メモリアルダイヤのカフスなの。藤代のおじ様に差し上げたお父様の形見分け」

袱紗ごと取り上げて諸星にダイヤを見せる巳恩

「Dr有間の? ミス・巳恩の分はあるのですか?」
「ペンダントトップに指輪とイヤリングとブレスレットの4点セット。カフスボタンの他にタイピンもあるのだけど、タイピンは私が持ってるわ。黒澤のVaterがアクセサリーにすればいつでもお父様と一緒に居られるから、と作ってくれたのよ」
「そう、ですか」
「お母様が亡くなった時もお母様の遺骨でアンクオン・メモリアルダイヤのカフスとタイピン、それから指輪を作っているのよ」
「―…それは、有間邸に?」
「あるわよ。お父様の書斎のどこかに箱ごとね。まぁ、見つかったらお墓にでも埋めにいくわ。 一応、夫婦として埋葬してるもの。あ、でもお母様の両親と知合いに形見分けとして、タイピンとペンダントトップを上げてあると、黒澤のVaterから聞いた事があるわ。」
「そう、ですか… お母さんのダイヤを、持ち歩いたりはしないのですか?」
「しないわよ。 所詮裏切りものだもの。 お父様がお母様のアンクオン・メモリアルダイヤを作ったのは外の世界へのカモフラージュ。 お母様はお父様を―… 組織を裏切った時点で信用も愛情も無くしたの。でも、お父様は無くなった妻を愛し続けているフリをし続けた。 それは、お父様に言い寄る女性が星の数程いたからよ」
「―… 君は―… ミス巳恩は、母親は裏切り者だと、信じてるのか」
「分からないわ。 抱いて貰った記憶―… 写真はあるけど、キスを貰った記憶もないし。でも、逃げようとしたんだから裏切ったのは間違いないわ」
「母親の事を知りたいと思った事は?」
「ないわ。所詮裏切り者は処分されるのがルールよ。」

あっさりと云う巳恩


(ルナ姉。任務さえ忘れる事ができるなら、ルナ姉がどんなに優しい人だったのか、巳恩に教えてやりたい。 ルナ姉がどれだけ、この子の先を案じて救いを求めてあがいていたのか。 ルナ姉の離婚した両親がまだ健在で、一人は軍の要の幹部として、一人は一流ピアニストとして後進の指導をしている事を。 二人ともそれぞれ再婚して新たな家庭を築いているが、今でも良き友人として付き合っている事を。 そして、厳兄さんが亡くなって、葬儀に一度来た後は、後見人となった黒澤氏に遠慮して孫にあたる巳恩に会うのを遠慮している事を、俺は知っている。)


「おばあさまが、藤代の血縁者とはいえ、お祖母様とお祖父様は駈落ち同然だったというから、お父様が藤代のおじ様とお付き合いをするようになるなんて、普通は考えもしないでしょうね…」
「―…」
「血縁関係がある、なんて知らずに友人となったというから、人の縁なんて不思議よね。お父様ー…」

袱紗ごとそっと抱き締めると少しの間胸元に抱え込んで仏壇に戻す。

(巳恩から父親を奪ったのは、彼等のミスだ。 もっと計画を練って司法取引なりすべきだった。 彼等は、難病患者を救える技術を持った天才外科医を殺すという暴挙に出てしまった。 世界中を探しても、今だにDr有間の死を悼む医療関係者は多い。その一人娘、として巳恩は表の世界では医学の道を歩み出している。そのうち表の世界でも有名になっていくだろう。 だが、組織の医療部門としてどんな研究を命じられている事か)

「さて、と御挨拶もすんだし。部屋に戻って着替えてから離れに行きましょ」
「着替え?」
「おじ様が舞の宗家だと云ったでしょ? そのおじ様の舞を特等席で見れるのよ? ワンピに羽織だなんて恰好は失礼だわ。それに、舞もお三味線もお琴も笛もお茶も離れの和室でお稽古を為さるのよ。」

巳恩は勝手知ったるなんとやらで諸星を連れて3階に行く。

「お前の部屋は階段横の客間よ。 私は突き当りの南の部屋を好きに使っていいと、2間続きの1部屋を貰ってるの。黒澤さんは私の隣の部屋を貰っているわ。」
「はい。」
「着替えてくるから15分、待ってからノックをなさい」
「分かりました」

諸星の荷物も―…といっても小さなボストンバック位だったが、床に置いてエアコンのスイッチが入れてあり、廊下と違って温かくなっている。
ジーンズではなんだろうとスラックスに着替えながら部屋を見回せばシングルベッドに机と洋服箪笥。
TVに小さめのテーブルとリラクゼーションソファ。
灰皿があるのは諸星が吸うのを言ってあるのか置物なのか。
窓を開ければ庭を眺める事ができて、離れだろうと思われる家屋は木の雨戸が閉められているが灯が漏れてに電気がつけているのが分かる。

(よい、場所だな。昼間だとさぞ庭が綺麗だろう。)

ベランダで煙草を1本吸ってカッキリ15分後にノックをすると、こともあろうに何故か単衣に着替えて髮を夜会巻きのように纏めた巳恩が部屋からでてきた。

「驚いたな。 15分で着物が着れるのか?」
「慣れ、だわね。 帯も普通の蝶だし、恭介兄さんか綾乃姉さんがセットで出しておいてくれたから。」
「ほぉー…」
「最も胃が重いし躰のキレが悪いから動きが悪いわ。帯が苦しい」
「あれだけ食えば当然だ」
「Vaterがいたら串焼きにパフェと抹茶オレなんて無理だもの。パフェだけで止められるわ。串焼き食べた時点でデザートは抜きだわね」

動きが悪いというわりに身軽に離れに向かう巳恩


「お、やっぱり着て来たな」
「おじ様の事だから、舞を見せて下さった後はお稽古になると思ったの」
「なんや、解っておったんか」
「でなければ、お部屋に着物なんて置いておかないでしょ」
「まぁ、せやな。」

和室だがエアコンで暖まった都会では信じられない広い部屋。
舞をする方には屏風が置かれて季節外れの桜が描かれている
三味線とお琴と笛がおいてあり、袴姿の藤代と恭介、そして友禅を着ている綾乃。

「ね、おじ様の袴姿、素敵でしょ? お稽古の時は浴衣だけど。隣がお茶室でその隣はお道具部屋。 東の方にお弟子さんたちが着替えるお部屋が男女で別れてて、それぞれ私物の袱紗や扇がしまえる棚もおいてあるのよ。 敷地の一角にマンションがあるのだけど、そこは独身の内弟子さんとお店に務めてる店員さんで独身の人の寮として貸しているのよ」
「流石に旧家なだけあって、見事な造りの日本家屋だ。 あぁ。確かにな。家元、と称されるだけの事はある」
「おおきに。 夜も遅いが、約束は約束や。新しい舞を1曲舞ってやるからな」


巳恩は座布団をおいてある場所に移動すると正座をして丁寧に頭を下げる

「宗家の舞、拝見させて頂きます。諸星、足が痺れたら無様な恰好晒す前に崩すようにね」
「仰せの通りに、姫」


藤代が恭介の笛と綾乃の琴に合わせて勇壮な舞いを見せる。

舞う時の顔はプロとしての顔で、ご飯食べの時の柔和な雰囲気は何処へやら

諸星は途中で膝を崩させて貰ったが、巳恩は正座をして舞を見る。

「凄い凄い! おじ様にしては少しコミカルだけど考案なさったの? 相方… 女形の相手がいないようだけど」
「いや、歌舞伎の演目のアレンジを頼まれておってな…。そのアレンジをした男舞の方なんや」

藤代が舞納めると巳恩は目を輝かせて手を叩く

「アレンジ!」
「新しい歌舞伎舞を作りたい。けど、自分達ではどうしても先祖から受け着いだ舞になる。 歌舞伎になじみがない若い人に受け入れて貰えて、昔馴染みにも受け入れて貰えるコメディ風にならないだろうか、とな」
「歌舞伎を… コメディ? 元々笑いを誘う演目ではなくて?」
「内容はシリアスなんやが、新説版として考えてるとな。 恭介達以外にこの舞を見せたのは巳恩が初め ―… と、諸星はん、もやな。 今のは男舞の方や。女形の舞はもう粗方出来上がっててな」
「素敵ね。」
「そうか?」
「ええ! その舞を、歌舞伎役者さんが歌舞伎の仕掛け衣装で舞うのでしょ? 見てみたいけど、初日にはいけそうもないわね。―… 桜の屏風ですもの」
「せやなぁ… 4月の桜舞台に合わせてのものやからなぁ」

藤代も屏風の桜をみて苦笑する。

「また、DVDを送って下さる?」
「勿論や。 なんならサインも貰うてやろうか?」
「ほんと!? だったら桜の模様の扇子に墨黒鮮やかに書いて欲しいわ。女形の人には朱色で」
「墨、ときおったか」
「歌舞伎の世界の方は小さな時から御習字で字を習うもの。おじ様だってそうでしょう?」
「まぁ‥せなや。梨園の連中はお琴、三味線、笛。和歌、習字と小さな頃から一通り覚えさせられる。」
「ね、おじ様アンコールはないの? 同じ舞でもいいの。もう一度見たいわ」
「普通、歌舞伎のアンコールは挨拶だけなんやが、他ならぬ巳恩の頼みやからな。 恭介、相方を舞うんやで」
「げ! 女形、の方ですか」
「当たり前や。男舞だけみせて女舞がないのは片手落ちやろ」
「はぁ―‥‥ 僕は踊りは師範代止まりで袴姿ですよ。 いいんですね?」
「かまわん。 座興や」
「わかりました。 お説教は無しにして下さいよ」

夢中になって藤代氏と恭介の舞をみて、その後は、明日の為に、稽古を付けて貰う巳恩

「止め! そこはもう少し間を取るようにな。 ゆっくりとじらすような感じにせな情感がでぇへんで。 ひい、ふう、みい、よ… 位や もう一度」
「ひぃ、ふぅ、みぃ…? eins zwei drei?  」
「そうそう。 こら! 扇の表裏が逆や。 表裏似たような色やから帯に差す時から気をつけなあかんで」
「ぇ! あ、扇の入れ方逆!?」
「視線は斜めで見上げる―…。それじゃ斜め過ぎや。視線と指先、足先にまで神経をまわすんや。」
「ぅ… 実験の時と勝手が違いすぎて間合いが分からない」
「薬の実験よりも簡単やと思うがなぁ―…? 稽古のサボリすぎやで。 仕方ない。綾乃、三味で、間を取ってやり。 CDの音じゃ分かりにくい。」
「はい、どこから。」
「最初から!」

間髪を入れずにいう巳恩

「最初から? いいんですか?」
「まぁ、特別にええやろ。 しかしまぁ、随分と舞をさぼっておったようだな。躰が固すぎる」
「ぅ!! だって、論文の提出に追われてたんだもの。 博士号の取得が掛かっているのよ! とれなきゃ、お父様の名前が泣くわ」
「これが舞妓たちなら仕舞いにせぇと、説教かます所やが、まぁ、お前は舞妓でも芸妓でもないからな。大目にみたるが、明日の稽古場では容赦せぇへんで」
「そんな事ないよ。 良く、覚えている方だ。」
「ほんまやで。 お父はんが怒るのは舞えてる証拠や。 見捨てる場合は"お稽古は仕舞いや"というだけや。」
「でも、褒められてない。 ん、もぉ! 頭で理解できても躰が動かない」

あの巳恩に説教をして、反論されない。
藤代氏は、それほど信頼をされているのだと、諸星は多少なりとも嫉妬を覚える。


「諸星、退屈でしょ? お前はもう部屋に下がっていいわ。 今日の仕事はそれこそ"仕舞い"よ。開放してあげるわ」
「いえ、稽古が終わるまで控えてます。 流石に正座は無理ですが」
「そう。あと1時間はたっぷりかかるわよ?」
「構いません。ミス巳恩の護衛が自分の請け負った仕事です。」
「そう。 好きにしなさい。 飽きたら部屋に下がって休んでも構わないわよ」
「はい」

諸星は頷く。

「綾乃姉さん、音をお願いします。」
「へぇ。 なら最初から。 お家元、宜しゅうおすか」
「ええやろ。 最初からやな。」
「はい。 ―…と 扇子の向き…は大丈夫、と」

舞の世界に入る巳恩
そして優しい小父ではなく、踊りの師匠となった藤代氏の視線はとても厳しい

僅か数分の舞にも関わらず同じ事を繰り返す。

だが、1回ごとに注意が減り、躰が柔らかくなっていくのが素人の俺にもわかる。

「そこまで。」

三味線の音が終わり、舞が終わると藤代の言葉が入る。

はぁ、と息をついてへたり込む巳恩

「細々した所はあるが、大分躰が柔らかこうなったな。その感覚をわすれたらあかんで」
「はい。ありがとうございました。」
「最も、あれだけ食べた後や。最初の30分位は躰が重うて、自分で思うように動けんかったやろ」

ニッ と人の悪い笑いをする藤代。

「―… そんなに食べてないもん」
「ほー… 帰りの車の中で 食べ過ぎたと、ダウンしてたのは誰やったかな」
「南禅寺のフルコースから、八坂神社の近くの串焼きに、和風喫茶のスペシャルパフェと抹茶オ・レのLサイズ、やったな? 豆乃が写メを送ってきたで。恭兄はんにもみせたやろ?」
「ぁ―‥‥ そうだったね。 黒澤さんがいなくてよかったな。 八つ当たりは巳恩やなくて諸星さんにいく筈だ」
「自分に、ですか」
「ダウンさせる程食わせるお目付役があるか、とね。 黒澤さんは後見人、という事もあるけど、食べ過ぎだけは動きが鈍ると怒りますよ。 何しろ、フットワークの軽い人で仕事で世界を飛び回っている人ですから。」
「悪かったわね。 Vaterが居ないのが悪いのよ! 羽目を外してもいいでしょう」
「十分外し過ぎです、ミス巳恩」
「お前にはそんな事をいう権利はない、わよね?」
「―… 確かにありません、が 黒澤氏に何か聞かれて怒られるのは避けたい所です」
「車にぶつかっても平気な躰を持つ諸星がよく云うわね。鉄の心臓だと思ってるのに」
「だから、それは―… いや、堂々巡りの会話になるからやめておきます。」
「あら、残念」

「ほらほら、巳恩。噛みつくのはその位にするんや。 汗をかいたやろ、風呂でざっと汗を流してもうお休み。1時になるで」
「確かに子供はもう寝て良い時間だね」
「きゃ! もう1時? 綾乃姉さん、お三味線とお琴のお稽古、少しでもいいから付けて、駄目なら後かたずけはちゃんとするからこの部屋貸して」
「お琴を始めたらまた1時間はかかるで? お三味線だって30分は―…」
「徹夜なんて慣れてるわ。 3時に寝て5時に起きるなんてザラにあるもの」
「―…けどな」
「ね、いいでしょ? お願い、姉さん」

胸元からお琴の爪が入った小さな袋を取り出すと上目使いに手を合わせて強請る巳恩。

「―…なら、30分ずつやで?」
「うん!」

根負けしたようにうなずいた綾乃の言葉に壁に立てかけてある琴を取ると定位置らしき場所に置いて布を外す。

「おじ様も聴いて、私が奏でる事ができるのは数曲しかないけど、可笑しい所だらけだけど、教えて欲しいの」
「ええやろ。」

藤代はくすりと笑う。

「その前に少し休憩にしよう。 店で貰った柚子の菓子があったやろ?」
「うん! 恭介兄さんに預けたわ」
「恭介。抹茶でも点ててくれんか。お琴の練習はその後や。 今日はうちらも徹夜を覚悟せなあかんようだ」
「ははっ! そうですね。 綾乃。抹茶とお菓子を用意して。 簡略化して盆手前になるけどね」
「はい、兄はん。」
「じゃ、手伝う! お茶碗はどれ?」
「なんでも好きなのを道具部屋の棚から出しておいで。 僕らが選ぶと何時も固定されるからまかせるよ」
「やった! じゃ、私、柿右衛門がいい!」
「10代作のが右奥にあるよ。」

立ち上がった巳恩の背に恭介が声をかける

「素敵! 諸星はどのお茶碗がいい?」
「は? 俺は別にどれでも」
「馬鹿ねぇ! 藤代の家の抹茶茶碗はどれもこれも凄いものよ。あ、その右上の奥の取って」
「これ、ですか?」

巳恩の身長では届かない場所にある茶碗を取るが、その茶碗には刻印がない。

「ノー・ブランドのようですが」
「―…はぁ。 あのね! 柿右衛門本人作のお茶碗には刻印は入らないの! 入るのは窯の方だけよ 覚えておきなさい。因みにこっちの棚は初釜とか、御茶席懐石用の逸品もの。 お弟子さんのお稽古様は向こうの棚と決まってるの。」
「俺は向こうので充分です。 刻印が無いのとあるのを見たら有るのを選びそうだな」
「そうね。でも値段は天地の差があるわよ。それから―… 伊万里焼と白薩摩。赤楽、 天目、九谷焼、備前に京焼き―… 美濃焼。黒織部。 素敵でしょう? 代々伝わるお茶碗も多いの。南天とか桜、梅とか季節で使うものもあるわね。 夏なんかは薩摩切子や江戸切子も使うのよ」

巳恩は笑みをこぼす。

さらさらと云われる茶器の種類に諸星はどれがどれやら分からない、と思いつつ無難な黒織部を選んだ。


そして、注意をされつつ、お琴と三味線の稽古が終わったのは3時を回っていた。

「ふわ・・っ 流石にいつも使わない筋肉使うと疲れるわ〜」
「ミス巳恩があそこまで舞えて、琴や三味線を弾くとは思ってませんでした。 正直、勉強や研究ばかりだとばかり。」
「そう? 小さな時から金曜はピアノにハープに乗馬、合気道、スイスでは絵画と、週に1度は勉強をしない日を作ってたわよ。」
「―… 友達、とかは」
「同年代は居ない―…と、いうか同等にお喋りする仲間はいたけど、親しく付き合っているのは志保程度ね。 まぁ、藤代のおじ様や姉さんや兄さんたちは別格。」
「そう、ですか」

(同じ年頃の友人がいれば。)

「朝食は6時、だったから少し休みなさい。お風呂に入りたいなら階段上がって、右奥に折れた所に客用のがあるわ」
「客用? ミス巳恩がはいるなら、俺はその後で十分です」
「私は家族風呂の方を使わせて貰ってるの。温泉みたいに男湯、女湯と別れているのよ。気にしなくていいわ。」
「分かりました。風呂を使えるのは有りがたいので汗を流させて貰います。」
「おやすみ」
「おやすみなさい。」

巳恩は家族風呂がある、といった方に歩いて行く。

(まぁ、あれだけ稽古をすれば汗もかくだろうな。)
見ただけでも汗が流れてるのがわかる。

そして、恐らく、諸星の為だけに沸かされた浴室には前もって用意されたらしい客用パジャマ迄置かれている。

長身の諸星が十分足を延ばせる程の広さ。

(まだ、出会ったばかりだ。 急いたら厳兄さんの時のように失敗する。 俺の任務は組織の奥深く潜り込む事。ジンという男の接触し、あの方、と称される組織の黒幕を捕まえる事なのだから)
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