氷壁の姫 Act-10 交錯 後編
「付け加えておくと、志保の望みの一つに、お前を救ってくれというのがあった。」
「私?」
「スイスで初めて仲良くなったパートナー。医師として生きるのを止める事はできないが、普通の子としての楽しみを教えてやって欲しいと」
「無理ね。普通の子のように愚かな会話なんて下らない。」
「そうだな。 だが、俺は」
赤井はゆっくりと巳恩に近寄るとそっと頬を撫ぜると優しい瞳で見つめる
(シュウ。何ていう優しい瞳でこの子を見るの? 有間巳恩は解毒剤の精製に協力したとはいえ犯罪者。あのジンを後見人として育ち、英才教育を受けた子なのに。 しかも、大人を大人と思わない憎たらしい子)
「俺はー…… お前に普通の生活をさせてやりたい。 下らない話の中にある楽しみも学生としての楽しみも、学校帰りのファミレスでの食事とかー……「帰って」」
巳恩は赤井から視線を反らすとゆっくりと手を避ける。
「そのふたりを連れて帰って。 私が撃つのを耐えている間に。」
「分かった。」
赤井は思い出したように溜息を重ねる。
「帰るぞ。キャメルはジョデイに手錠でもしておけ。 近隣の住人に見られても構わん。 こいつのIDは銃と合わせて俺が預かる。」
「ぇ、でも」
「そうでもしないと権力行使で近隣の家に入ってこの家を見張りかねない。IDがなければ出来ないだろう。」
「いいんですか?」
「お前達がいるとー… 特にジョディがいると話が進まない。日を改めてまた来よう。 巳恩が冷静に話せるようになるまで俺が待てばいいだけだ」
「私と同等に話たいなら、その黒髪を銀色に染めて、タートルネックに黒のスーツにシルクハット、変声機をつけて来るといいわ。 」
「ジンに、なれと」
「ジンは愛しい愛しい宿敵(こいびと)さんでしょ? 恋人に変装出来るなんて幸せだと思わない? 私の隣にいていいのは死んだお父様とジンだけよ。100歩譲って藤代のおじ様と恭介兄さん。 でも、彼等は私の親戚というだけよ。」
「ー… それがお前の望みなら ジンになろう」
「シュウ!? 貴方、本気なの!?」
「ー……」
「言っておくわ。プライベートでは毛利一家にも工藤一家にも会うつもりはない。毛利蘭が、空手を武器に警察官になりたくても、面接以前に書類選考で落ちる。空手がオリンピック科目に決まったらしいけど、全日本空手協会は彼女をオリンピックの強化選手に推薦する事はない。」
「………」
「彼女が警察官になったら、無罪の人も有罪になるわ。自慢の空手で机とかどれだけ公共物を壊すかしら」
「毛利さんはそんな子じゃない! 」
「何とでも仰い。彼女への告訴を取り下げる積りは無いから、何か聞かれたら教えるといいわ。 取り下げたいなら、レディを還せと。」
「彼女が空手に復帰出来るようにするのはFBIにとっては簡単な事なのよ!? 犯罪者の告訴を取りあえず裁判官がいると思ってるの? そんな簡単な事も解らないなら牢屋にブチ込んで―…「いい加減にしろ!」」
赤井はジョデイの頬が腫れ上がる様に叩く。
「シュウ?」
呆然として頬を押さえて赤井を見るジョディ。
「毛利のお嬢さんは空手チャンピオンでも一般人だろう!? 東都タワーでFBIのお前が毛利さんを停めなかったのは何故だ!? その他の事件でも止めなかっただろう! 止めるチャンスはあった筈だ! ボウヤの勇足を停めなかったのはどうしてだ!」
「で、でも! あの時はシュウの妹さんだって! 子供達も人質に…」
「お前はFBIだろう! 何故、坊やと毛利のお嬢さんに任せっきりで動かなかった!?」
「む、無理よ! あんな銃の使い手に向かうなんて、防弾チョッキもつけてなかったのよ」
「毛利のお嬢さんは立ち向かったぞ!?」
「そ、それは」
「東都タワーで犯人が展望台から落ちて死んだら、相手が犯罪者であっても、毛利のお嬢さんは殺人罪に問われるんだ! それを寸での所で止めたのはキャメルだろうが!」
「―… わ、私は!」
「強いのが悪いとは言わない。 だが! 力の使い方が間違っていると何故教えなかった!? 武道の有段者は書類送検や障害罪ではなく、それより重い罪に問われる場合があると、何故教えない! 彼女にそれを教えて、事実を叩きつけたのは巳恩一人だろう! 日本警察は弁護士の母親に、未成年だからと、丸め込まれて誤魔化されたようだが、職権乱用だと問題になって弁護士の資格停止を言い渡されるかもしれないんだぞ! そんなだから無能と言われるんだ! 坊やの事もだ! 何故、いつもいつも坊やの推理と力に頼っていた! 答えて見ろ!!」
「一般人の協力は義務だと聞いたわ! 頼って何が悪いのよ!」
「お前は坊やに頼り過ぎてFBIとしての能力が無くなったようだな。」
「… ぇ」
「降格処分を進言したほうがいいかもしれないな。アカデミーの研修生からやり直せ!」
「ちょ、ちょっと!! どーゆーことよ!!」
「つまり、無能、という事よ。宮野明美と同じ。 赤井のバディとしても落第ね。 自分の推理が出来ないようじゃ給料泥棒って言われるわよ」
「―… 」
ジョディは黙り込む。
格闘技とゲームが大好きで試合のビデオを見てはなんだかんだとエキサイトしている為、蘭の見事な空手を停めようと思った事は一度もない。
コナンの持つ武器はFBIよりも役にたっていた。
いつもいつも、コナンの推理に頼り、蘭の武道を見てウキウキとして見惚れていた程だ。
「っつたく、黒澤陣が羨ましいな。 天塩にかけて育てた弟子は大きく華を開かせてようとしてるのにコイツは何時まで経っても蕾の儘だ」
「ご愁傷様ね。」
壁掛けに凭れて浅い呼吸の巳恩
「巳恩?」
慌てて巳恩に近寄って額に触る赤井。
「熱がある……… 済まない。長居し過ぎたようだ。」
「帰って。 」
「ー……… 巳恩、俺は」
(お前にそんな顔をさせたい訳じゃ無い)
「貴方たちが邸を出る迄休む事はできないわ。 盗聴器も盗撮もお手の物、と志保が言ってた。 3人いれば話の合間に10個は仕込めるわよね。 それともそこの大男に強姦させて無理矢理情報を聞き出すとか?」
「じょ、冗談を言わないで下さい!」
「ならその馬鹿な女に拷問でもさせる? 嬉々として銃を使いそうね」
「そんな事は俺がさせない。 そんな真似をしようものなら俺がこいつらの眉間をぶち抜いてやる」
「信じろという方がー… っ「巳恩!」」
ぐらり、となった巳恩を支える赤井。
「ー…… 少しの間、休戦協定を結ばないか巳恩」
「休戦?」
「体調を崩してるお前と争いたくない。 ―… こいつらはすぐに邸から追い出す。休戦中は俺のFBI捜査官としての権利も義務も全て捨てて、黒澤陣になってもいい。 だから、お前の体調が落ち着くまで、傍にいる許可が欲しい」
「シュウ! 本気なの!」
「俺はこの子を生涯かけて護る。」
「シュウ ー……」
「ルナ姉と約束したからじゃない。 俺自身がお前を護りたい、と思っている、この気持ちだけは信じて欲しい。 その為にFBI捜査官の地位を無くしても後悔はしない。」
「―… なら、法律的効果のある書類を、書ける?」
「100枚でも1000枚でも書いてやる。お前の信頼を得られる、ならな。」
「そう。それなら、まず、この2人を追い払って。」
「仰せの儘に、姫」
「それからー… この女の方は2度と私の前に来させないで。目に入る場所すべて360度1年どころか永久的措置として。 道端やレストランで合う可能性はあるからその程度なら黙認するわ。」
「そんな条件飲まないわよ! あんたは犯罪者でしょう! 監視されて当たり前なのよ!!」
「手始めにテーブルの器物破損で裁判よね。 どちらに非があるのかは一目瞭然。遡ってデューク―… 躾られている鷹―… まぁ、これはどう頑張っても殺人罪にはならないから小動物への傷害罪。 白の組織の弁護士も検事も凄腕で優秀よ。負けるのはジョディ・スターリングだわ。 ジョディ・スターリングの罪を捏造してもいいけれど、私達は無能な日本警察や権力主義のFBIや公安とは違うからそれはしない」
「なっー…」
「ジョディ・スターリングは、テーブルが縄文杉と知ってから傷を付けた。 裁判では不利になる。 証人は赤井秀一にしてもらうわ。 最もFBIが来てから無断で居間に入ろうとした事から録画録音してるから証拠提出も出来るわよ。」
「!!」
巳恩の言葉にジョディは唇を噛みしめる
「キャメル捜査官については裁判なんて起こさないから安心して? 自害する根性も覚悟もない捜査官でテーブルを傷つけたり私の鷹を傷付けた訳でもない。 さ、どうするの、赤井秀一。 お前が上司なのでしょう?」
「わかった。ジョデイの度重なる振る舞いはジェイムズに報告しておく。 録画録音のDVDの提出は少し待ってくれないか」
「消せと言わないのね?」
「俺とキャメルが見ているからな。必要無いだろう。」
「シュウ!?」
「悪いなジョディ。 俺はお前よりも巳恩の方が大事なんだ。 キャメル。 ジョディを連れ出せ。」
「え!?あ、はい。」
キャメルは目を白黒させたが赤井の命令には逆らえない。
「行きましょう。 ジョディさん。 今日のジョディさんはまるで自棄酒で酔った時のようです。」
「キャメル―… わ、わら、ひ、は、ー……っ」
腫れて呂律がおかしくなって、頬を押さえるジョデイ。
「見せなさい」
「ぇ?」
居間から出ようとして、唐突に声を掛けられて目を丸くするジョデイ。
「今の貴方は患者で私は医者。 医者として湿布位ならしてあげるわよ、さっさと診せなさい」
有無を言わさぬ言葉にジョデイは屈む
「2回殴ったわりに酷く無い。触診だけど骨にも歯にも異状はないようね。 随分加減して殴ったようだわ。 この程度なら2日もすれば痛みは消える。 明日は頬が腫れるでしょうけど、その腫れが引いたら言葉の呂律も直ぐ治るわ。 暫くは痣になるけど1周間位で薄くなるわ。殴るなら歯が折れる位、本気で殴ればいいのに」
「本気で殴れば歯だけじゃなくて顎が砕ける。 毛利のお嬢さんなら加減なんかしないだろうが、俺は加減が出来るんでな」
「つまらない男。私を護るというのなら腕1本へし折る位して見せなさい。 ジンなら容赦なく撃っているわよ」
何処においてあったのか救急箱から出した湿布をペタッと貼る巳恩。
「ホワイトカラーが開発している特殊な痛み止めと炎症抑制の湿布なの。 市販はされてないのでドラッグストアでは買えないから開封してしまったパッケージだけあげる。 その湿布は炎症を止めて痛み止めの成分も入ってるわ。鎮痛効果で麻酔と同じで少しジンジンしてくるから、今日の夜ご飯に気を付けないと口からだらだらと赤ちゃんみたいにこぼすわよ。厚塗りの化粧を落としたら湿布を取り替えて、それから明日の朝も取り替えなさい。市販のマスクで顔は隠れるわ。 」
「貴女ー…… わらしが嫌ひじゃ? って しひゃん(市販)されてないって、ほふいついひゃん(法律離反)じゃない!」
「勿論嫌いよ。でもその腫れた頬じゃねぇ。 後で絡まれるのは嫌なのよね。 医者としてのボランティアよ。 その薬はね、医師免許を持つ人の処方箋がなければ買えないというだけで一般のドラッグストアで扱ってない、というだけよ。 ただし、保険は効かないしアナタに処方箋を書く気もない。 それから痛み止めの錠剤も上げる。睡眠成分が強いから2錠しかあげれないの。 運転は禁止。体質によっては睡魔に襲われて大事故になる可能性があるわ。でも、ロキソニンと一緒で効果はあるわよ」
「 そ、う。 あひがろう。 せ、折角、だか、ら、貰っていくわ」
「どうぞお大事に」
テーブルに置かれたシップの袋に手を出すジョディの言葉に苦笑するキャメル。
(わかってる。 大人げないって事位。 でも、私は)
「さ、ジョディさん。これ以上、赤井さんの立場を悪くする事は出来ません。」
(シュウ。どうして―…!? どうしてよ!どうしてこの子にそんな優しい目を見せるのよ)
「書類と報告は後日、ジェイムズにでも「却下」」
「ジェイムズも対象か」
「問題があるかしら? 狸爺との面談なんて御免だわ」
「なら俺が届ける事になるが」
「ジンの姿でくるなら入れて上げるわ。 後々そんな書類は存在しないといわれないように、契約書はFBIの透かしロゴが入ったナンバリング付きの本契約書を」
「ー……… 解った。 契約書のナンバリング稟議に1週間ほどかかるから仮の書類を持ってこよう。」
「休戦協定は私が公休を貰った間だけ、よ。ジンの姿でジンの声で 煙草もお酒もジンと同じものを」
「分かった。 ジンは今日は帰れないが明日の昼か明後日には"戻る"だろう。 それまで、ちゃんと躰を休めてくれ。」
「ー… 本気、なの」
「いったろう? お前を護る為なら、―… お前の信頼を得られるのなら、赤井秀一なんて存在は消してやる。 沖矢昴の姿がいいなら沖矢の姿にでもなる、黒澤陣がいいなら黒澤陣になってやる。 組織の幹部としてのジンがいいならジンにもなろう。 タイミングが良いのか悪いのかわからんが、ジンのポルシェも化学班の捜査の後、お蔵入りでFBIが保管していた。 ポルシェは破棄処分案もでたが、よく手入れをされているクラシックカーだからな。 有間巳恩に引き渡してもいいという許可が出ている。―… GPSや集音器は付いてないのは俺が確認してある。―… 俺がジンになるのは構わないが―… 使ってもいいか」
「ポルシェはジンの車よ。ジャガーと単車は私の。問題ないわ。」
「分かった。 ジンに返しておこう」
「ジンに伝えて、 ジンが居なくなってから、珈琲豆は捨ててしまったの。だから珈琲を飲みたければ好きな豆を持ってくるようにと。それからジンが好きなスコッチも捨ててしまったから一緒に買ってらっしゃい、と。―… 赤井秀一はスコッチは飲めないらしいけど、ジンなら飲めるわ」
「分かった」
にこりと笑う巳恩に赤井は黙って頷いた。
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