曖昧な心
結局、あの後、私と親しくするしないの無駄に近い攻防をしばらく続けていた。が、ふとした瞬間にオビは仕事を理由に部屋を出て行った。あっさり出て行ったことに少し妙な気もしたが、程なくして義両親達に呼ばれた私はいつものように使用人として業務をこなし始めた。
「(冷たい……)」
今日もまた違う部屋を磨く。そろそろ春を迎えるころとはいえまだ水は十分に冷えていた。雑巾を水に浸ける手の体温がだんだんと奪われていくのをを感じる。
W俺にはあんたが本物のお嬢様だろうと養子だろうとどうだっていいんだけどね。W
動かす手をそこそこに、ふと頭の中に浮かぶオビの言葉。
「(どうだってよくないよ…)」
オビは知らないのだ。私がこの家でどんな扱いを受けているのか。早く事実を知れば良いと思う一方で、心のどこかで自分のことをそんな風に思ってくれたオビに知られたくないとも思ってしまった。
「痛っ……!」
飾り物のナイフを磨いた拍子に指を切ってしまった。そこからたらたらと血が流れ出す。―こんな惨めな私を見たら彼は軽蔑するだろうか。しないにしても、ライナー家の令嬢なのに使用人のごとく扱われるこの異様さにきっと関わりたくないと思うのが普通だろう。
「血を止めなきゃ……」
「あらっ、やっちゃいましたねーメイお嬢様」
「ひっ!!!!」
「うわ、見事に色気のない悲鳴」
「い、いつ入ったんですか!入る時はノックが常識ですよ!!」
「あれ、俺してませんっけ?」
オビだ。さっきまで頭の中にいた人が急に現れたら誰だって驚くのが普通だ。口をぱくぱくとさせきっと間抜け面であろう私の様子を気に留めることなく、オビは私の手を取った。
「これ早いとこ止血しないと。医務室行きましょう」
「べ、別に平気です。気にしないでください……」
「え、だって血ダラダラ出てますよ、これ」
ゆっくりと息を吐き落ち着きを取り戻す。冷静にならなければ。ズキズキと痛む指を睨みつける。私はこれっぽっちの傷で医務室なんか行けない。治療士を困らせるだけだもの。
「ほっとけば止まります。離してください」
毅然として言ったつもりだったし、オビが掴む手を振り払おうともした。しかし、それは叶わなかった。返事の代わりにぎゅっと強い力で握り返されオビは私の手を離そうとしなかった。少しだけ感じるむず痒さに、なんとなく居心地が悪くなりオビの顔を見ることはできなかった。
「オ、オビ……」
蚊の鳴くような声で彼の名前を呼べば、どこか目の覚めたような顔をしてパッと握っていた手を離した。
「…ほんと、あんたら面倒くさいですね」
「……はっ!?」
「ははっ、いいですね。その顔面白い」
軽口を叩くオビ。本当に彼はこの屋敷に仕える使用人なのか。それとも、私のことを令嬢でなく使用人として見ているからこの対応なのか。どちらにしてもオビはよくわからない。
「ちょっと待っててくださいね。治療道具持ってきます。動いたら怒りますよメイお嬢様」
「ちょ、ちょっと……!!」
私の返事をろくに聞かず、オビは部屋を出て行った。お嬢様とつけるのは形だけなのか本心からなのか。ここから医務室は遠いから時間はかかるだろうと思ったら、今度はちゃんとノックをして思いの外早くオビは戻ってきた。
「は、はや……」
「はいお嬢様持ってきましたよ。指、出してください」
「自分でできます…!」
「いいから、出して」
有無を言わせない彼の気迫におずおずと切れた指を出せば、オビは慣れた手付きで治療を始めた。
「…慣れてるんですね」
「まあそうですねぇ。使用人は色んなことできてナンボですから」
「使用人はどのくらいやっているんですか?」
「んー…まぁそこそこ長いような気がしないでもないです」
私の問いにオビは少し考えるような顔をして答えた。長いような気もしないとは一体どういうことだろう。何とも掴めない。
「よし、できましたよ」
「ありがとうございます」
指には驚くほど綺麗に包帯が巻かれていた。なるほど、これは私が自分でやるよりも任せて正解だった。
「それにしても、ご令嬢も大変ですねぇ。こんな部屋の掃除もするなんて」
「…そうですね」
オビの言葉で我にかえる。私はまだ掃除の途中だったのだ。休んでいるところを義両親達に見られでもしたら、それに、オビにまで迷惑がかかったら…そう思ったら早かった。
「…手当て、ありがとうございます。もう大丈夫ですので。オビは戻ってください。仕事中でしょう?」
「えっ?!ちょ、メイお嬢様!!」
矢継ぎ早に言葉を並べながらオビを出口の方へと追いやって勢いよく扉を閉めた。手当てしてもらったにも関わらず冷たく追い出すような真似をしてオビには悪いことにしてしまった。
「(でも、こうするしかないもの…)」
誰も傷付けさせないためには、私は味方を作ってはだめなのだ。再び冷たい雑巾を握ると、私は手を動かし始めた。しばらくすると包帯は水分を含んで緩みはじめ、巻き直そうとしたが上手くはいかずに、そのまま解けてしまった。
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