アコンプリスが嗤う時


視界には義兄エリックの気味悪い笑みとその向こうに天井。私はこの状況において声を上げるべきなのか。上げたとして誰かが助けに来てくれるのか。オビはもう捕まってしまったのだろうか――…


「………っ」


声を上げようとして、やめた。声をあげたら絶対にオビは助けにくる。そうなるとオビをさらに巻き込むことになってしまう。それだけは避けたかった。


「…大人しいのは結構だが、僕は少しばかり抵抗されて泣き顔を見れた方がそそるのだけどね」


何も反応を示さない私にエリックが退屈そうに言葉を吐き捨てた。痛くなるほど掴まれている両腕の力を抜く代わりに、目を細めて強く睨みつける。


「―何だその目は」

「いいえ」

「チッ」


自分の瞳に薄い膜が覆うのがわかった。怖いけれど、意地でも涙を零してなんてやらない。思い通りになんてなってたまるものか。

それに興醒めして去ってくれれば良かったのだけど、上手くもいかず。彼の手は腕から離れると徐ろに胸元へ伸びていった。鎖骨に撫でるような指が触れて、静かに目を閉じる。諦めにも似たような感覚。


「(――誰か! オビ……っ!!)」


心の中で必死にオビを呼んだ。その時だった。エリックの少し荒くなった息遣いが聞こえる私の部屋にノックの乾いた音が響き渡った。


「―入るぞ」


その声と共に部屋に現れたのはオビでなく、義父マイクだった。思いがけない人物の登場にエリックは慌てたように私から飛び退いた。今のうちにと私も続けて寝台から降りる。


「お父様!? まだお時間では…」


驚きの表情を浮かべるエリック。それは彼だけでなく、私もまた同じだった。確かにまだ業務に呼ばれる時間には早いのだ。義父はエリックをちらりと一瞥すると、真っ直ぐ私を見据えた。


「メイ、お前には今日から世話役が付く」

「……世話役、ですか?」

「そうだ。―入れ」


散々良いように使われてきた私に、今さら世話役が付くとはどういうことだろうか。また義両親達が何か企んでいるのではと少し身構える。


「失礼致します」

「!」

「なっ! お父様、そやつは!」


部屋に入ってきたその人物に私は目を疑った。私はその琥珀の瞳をよく知っていたのだ。


「―オビが…私の世話役?」

「そうだ」

「まだまだ未熟ではありますが、よろしくお願い致します。メイお嬢様」


義父の横に立ち、恭しくお辞儀をするオビ。その仕草は私が見慣れたもので、彼が本当にそこにいることを確かに表していた。


「お父様!そやつは駄目です!メイと一緒にこの屋敷を抜け出したのですよ!」


ごく自然に振る舞うオビに気を取られた義兄は、我を取り戻し捲したてるように言葉を放った。しかし、義父の口から出たのは義兄が求めていたようなものではなかった。


「それが何だと言うのだ」

「は、はい…?」

「この者は私が信頼している者だ。メイの扱いに関しては今後この者に一任する」


話を聞き流しているつもりはなかった。だけど、まるで言葉が私の中を通り抜けていくようで。一体何が起きているのか私には理解ができなかった。


「お、お父様! 正気ですか!」

「―エリック。お前こそ正気か。義理とはいえ妹を襲うようなマネをして恥ずかしくないのか」


義父の厳しい視線と抑揚のない声にエリックは完全に萎縮していた。口を震わせて絞り出すようにして言葉をこぼす。


「…で、でも!お父様は好きにしろと仰ったではないですか!」

「確かに言ったな。しかし、まだ時期ではない。それだけのことだ」

「そ、そんなぁ…っ!」


酷く青ざめる義兄と険しい表情の義父。そして、あの夜会の帰りの馬車で私が目にした顔と同じそれをしているオビ。


「オビ……?」


気付かぬうちに私の口からオビの名前が洩れていた。その時の私は義父たちのやり取りをどこか他人事のように思っていて、脳内を占めていたのはオビのことだけだった。

けれど、オビはわたしの呼び掛けに眉を少し動かしたくらいで何の反応も示さなかった。いつもの彼なら絶対に聞こえているはずなのに。


「マイク様、そろそろリリー様と朝食のお時間です」

「ああ、分かった。―では、後のことはお前に任せたぞ」

「かしこまりました」


義父は未だ動揺するエリックを連れて部屋を出て行く。その時、義父が振り返り残していった台詞に私は困惑していた。


「あ、の…オビ…?どういう―…」


その真意を確かめようとオビに声をかける。オビはゆっくりとこちらを見遣るとそのまま近づいてきた。作りものの笑顔に心臓がドクリと嫌な音を立てる。思わず後退りして寝台の縁にカツンと踵が当たった。―まただ。先ほどまでの光景を思い出してぎゅっと目を瞑った。


「―びっくりしました?」


距離にして50センチもあっただろうか。見上げるように瞳に映したオビはいつもの彼に戻っていた。顔も声も、私がよく知っているものだ。


「び、びっくりしましたよ…。どうしてオビが…?それに、さっきお義父様が言ったことって……」


緊張の糸がぷつりと切れた。腰を抜かしそうになるのを我慢して必死に言葉を紡ぐ。訊きたいことはたくさんあるのに、頭の中は上手く処理が追いつかない。


「あー…なんか流れでそうなりました」

「詳しく聞きたいです」

「話せば長くなりますよ」

「大丈夫です」

「メイお嬢様にとって受け入れ難いお話かもしれません」

「それでも、知りたいです」


何が起きたのか知りたかった。義父の言葉の意味を。気付けば渇いていた目に強い意思を込めてオビの琥珀を見つめる。すると彼はいつものソファーに腰を落とし、降参するかのように両手をひらひらと振った。


「わかりました、お話しします」


私に隣に座るよう促すと、一呼吸おいてオビが話し始める。


「―まず、遅くなって申し訳ありません。メイお嬢様」


―怖かったでしょう?オビは優しくぽん、と私の頭に手を乗せて。その掌がいつかの温かさを思い出させてまた目の前が滲んだ。

Wお前には今後重要な役目を担ってもらう。そのつもりでいろ。W

オビの温かさの傍で、義父の言葉が頭にこびり付いて離れなかった。

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