赤く染まるカンパニュラ




「……オビ!お前遅いぞ!今までどこほっつき歩いてたんだ!」

「すみません。まあ怒るなら後にしてくださいよ主。―お嬢さんは?」

「あ?確か薬室の方に――」



 ―私の意識に遠くから複数の若い男性の声が届いた。

 あの高さから落ちてまさか生きているのかと疑問に思ったけれど、自らの意思に反して開かない目はそれを嘘だと教えてくれた。どうやら私は本当に死んでしまったようだ。

 たった一輪でもルシオラの花を採ってしまったから天国には行ける訳がない、そう考えたらやっぱりここは地獄だろうか。それならば地獄には思った以上に爽やかそうな人がいるんだなと心の何処かで思う。



「(……何処なんだろう。ここ)」



 一定の間隔でゆらゆらと揺れる身体と仄かに伝わる熱は、母さんに甘えていた幼少の頃を連想させて妙に切なくなる。結局、私は両親の墓前にルシオラを供えることをできなかった。

 二人のルシオラに対する思いを一番知っていたのは一人娘である私だけのはずなのに、私はそれを未来に繋げることすらもできないまま。自分たちと同じように私がルシオラに興味を持ったことを嬉しそうに笑んだ二人の姿が思い出されて、瞼の裏で涙が薄く滲むのが分かる。



「お嬢さん、仕事中に悪いね。このおねーさんなんだけど――」



 揺れが収まると、今のメランコリックな気分には何とも不似合いな慌てふためいたような女性の声が聞こえてきて、そのギャップが少しだけ可笑しい。そして衣類の擦れる音と背中に柔らかいものが触れる感覚から、何処かに降ろされたのだと悟った。



「オビ! その人のこと――」

「はいよ」



 意識の外で繰り広げられる会話を完全に聞き取ることはできなかった。

 母さんと父さんには死んだらまた会えると思っていたけれど、この調子だとどうにも叶いそうもない。

 ―私はこれから、どうなるのだろう。



 その時、私の唇にひんやりとした何かがあたって口の中に液体が流れ込んできた。その甘苦い独特な味に一瞬咳き込んだが、気づかぬうちに私の意識はさらに深く落ちていった。












「……あれ」



 ゆっくりと目を開く。気怠い身体を少し起こして左右を見渡すと、辺りの家具だけでなく掛けられた布団からも何処となく上品な雰囲気が感じられた。



「……夢?」



 状況を上手く読み込めないまま軽く息をすれば空気が喉を通る微かに冷たい感覚。こんな現実味のある世界があの世でなければ、どうやら私はしぶとく生きていたようだ。それを裏付けるかのように、私の耳はガチャリと扉を開く音を拾った。



「お、目が覚めたかい?」

「……ここは?」



 未だぼんやりした私の視界へと映ったのは短い黒の髪に釣りあがった猫目、そして額に傷のある男性。



「……おねーさんさ、崖から落ちたの覚えてる?」

「……!」



 彼の問いかけに不明瞭だった思考が急に鮮明になり、野山での光景が脳裏を一気に駆け抜ける。そうだった。あの時、私は突風に煽られて―



「―どうして私、生きてるんですか! ……っ!」



 驚きのあまり思わず飛び起きたが、その腕に走った鈍い痛みに思わず顔を顰める。ここで初めて我が身を見降ろせば、右腕は添え木と包帯で固定されており、ルシオラを仕舞った腰袋もなくなっている。



「ほら、動いちゃダメだよ。あんたいま腕の骨折ってんだから」

「あの、私の腰に…袋があったと思うんですけど……」

「ああ、あれかい?勝手にで悪いけど少し手荷物見させてもらったよ」



 彼が指差した窓辺には見慣れた荷物があり、中を確認するべく今度は腕に負担がかからないよう静かにベッドから降りる。動かないよう止められるかと思ったけれど男性はじっと私を目で追うだけで、近付いた窓からは雲ひとつなく清々しい青い空が伺えた。



「(やっぱりもう光ってない、か)」



 慣れない左手で袋からルシオラを取り出せば、それは夜までの淡い輝きを失い元気なく萎れかけていた。ルシオラが環境の変化に非常に弱いことは分かりきっていたけれど、その様子を目の当たりにしてしまえば私の肩もがくりと落ちる。



「―ご気分はいかがですか?」



 憂鬱さを取っ払うような凛とした女性の声が響き声のする方を振り向けば、艶のある、まるでユラシグレのような赤い髪に目を奪われた。



「あの……?」

「!……すみません。ユラシグレみたいに綺麗だからつい魅入ってしまいました」



 ユラシグレが何か伝わらないのでは、と後になって気付き口を噤む。花屋の私にとっては当たり前に認知している存在であるものの、ユラシグレの名を言われて実際に花を想像できる人は決して多くはないのだ。



「ありがとうございます。林檎と喩えられることが多いので、なんだか嬉しいです」

「よかった。伝わりました」



 どうやら心配は無用だったようで、彼女は顔を綻ばせ愛らしい笑みを浮かべた。すると、そこに側にいる男性がすかさず口を挟む。



「へーえ。あんたユラシグレ知ってるのか。俺なんて最初なんのことかサッパリだったけどねぇ」

「そうですね。一応花屋を営む身ですので……」

「お花屋さんですか!」

「ええ。小さな花屋ですけれど」



 “花屋”という単語を出した途端にその表情を輝かせた赤髪の彼女は、不意に私の手元に視線を移すと若草色の瞳を見開きはっとした様子で言葉を続けた。



「……もしかして、それってルシオラの花ですか?」

「ご存知なんですか?」

「はい!前に読んだ薬学書に載っていたのを覚えていて」

「薬学書……」

「薬剤師なんです。私」



 照れ臭そうでいて、その中で何処か誇りを持った口調で赤髪の彼女はそう言った。ユラシグレもルシオラもどちらの花も薬草の一種でもあるから、薬剤師ともなれば今までの事に合点が行く。



「それにしても、本物は初めて見ました。存在を知っている者としてやはり一度はルシオラが光るところ見てみたいですね!」

「!」



 初めて見るものだからか、若草色をらんらんとさせ少し落ち着かない様子で告げられた他意のない彼女の台詞を引き金に、見ないふりをしていた罪悪感は止め処なく湧き上がり拍動する私の心臓をじくじくと痛み付ける。

 私の手の中で萎れかけているルシオラは、その花弁を項垂らせもう二度と光り輝くことはできない。私は何のために人の手から離れたルシオラを採花したのか、このままだとルシオラの価値を理解せずにただ無駄にしただけになってしまう。それならば、薬剤師である彼女に―



「―これ、よかったら貴女にあげます」



 確かめるように真っ直ぐ彼女を見据え手に持っているルシオラを差し出せば、慌てたように勢いよく両手と赤髪を横に揺らした。



「えっ!私、そんなつもりで言った訳では……!」

「いいんです、気にせず受け取ってください。ルシオラは萎れてから薬効成分が生まれると云いますし、今の私がこのまま持っていてももう意味はないので……」



 ルシオラが光り輝いているところを両親の墓前に供えることができない以上、私はどうにかしてルシオラに手を伸ばしたことに意味を持たせたかった。

 戸惑ったままの彼女に「どうぞ」と再度促すと、そんな私の思いを知らない彼女は意を決したようにルシオラを受け取る。



「ありがとうございます!大切に使いますね!」



 その声に少しばかり救われた。真剣な色を瞳に宿す彼女なら、このルシオラを誰かのために正しく使ってくれる。私はそう確信していた。

 けれど、本当はそうしてくれないと私が罪悪感に潰されてしまいそうで、控えめながらも力強く薬剤師と名乗った彼女に託すことでWもう大丈夫だWと言う確信を得たかっただけなのかもしれない。



「―ご挨拶が遅れてしまってごめんなさい。私、ヒマリといいます。お二人とも助けてくれてありがとうございました」



 ―私たちの始まりはここだった。

 ルシオラによるこのひとつの出会いが私のこれからを大きく変えることになるなんて、その時はまだ気付いてはいなかった。

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