ホワイトカラーはまほろばで
そこにふわりと広がるのは生花の生命力溢れるみずみずしい香り。しばらくの間、殺伐として乾いていた店内には、多くの花々が並び優しい彩りを取り戻していた。
「―これでどうですか?」
「うん。やっぱりヒマリちゃんが作るブーケは素敵ね!頂いていくわ」
「ありがとうございます!」
あれから間も無くして腕が完治した私は、花屋を早々に再開させていた。身体を目一杯動かすこと。花たちに囲まれること。どれも私を生き生きとさせて。水を得た魚のようとは正にこのことだった。
ようやく、私の幸せであり、当たり前の日常が帰ってきたのだ。
「ヒマリちゃんが元気になってよかったよ」
「いい歳なのにお騒がせしてすみません」
「いいのよ! まだヒマリちゃん20過ぎたばかりじゃない」
「またまた。もうすぐ21になりますよ」
もうそんな時期だったかしら、と惚けるのは常連のアドさん。私はそれを横目に置きながら、鈍く輝くシルバーのジョウロに水を溜めていた。
「ところで、この間のお兄さんは本当にヒマリちゃんの恋人じゃないのかい?」
「ははは、またですか……」
これで何度目だろうか。花屋の再開後、訪れた人たちから受けた質問は、怪我の理由でなく全てがオビさんとの関係を問うもので。ここまでくると弁解よりも苦笑いしか出てこなかった。
水が溜まったのを確認して、締めた蛇口からは水滴がぽたり、ぽたりと音を立てて零れている。小さく溜息を吐き再びキュッときつく締めた。
「本当に違います。皆さんの誤解も解いておいてください…」
「あらまぁ…恋人だったら私も安心できるのに。―それじゃあ、また来るわね」
「はい、またお願いします」
よいしょ、という声とともに腰を上げ、花束の入ったバスケットを片手に店を出るアドさんの後ろ姿を見送る。ジョウロを持ち上げれば、少しだけよろける自分がいた。水の入ったこの重さが久しぶりで、休みすぎたなとぼんやり思う。ジョウロを片手で楽に持てる頃には、ほとんどの花が自らに水滴を滑らせて潤いを帯びていた。
「ふー…そろそろかな」
そんな当たり前を繰り返す私に、実は新たな楽しみができたのだ。ジョウロを片付ける私の耳は、揺れるドアが鳴らす鐘の音を拾った。同時に店の入口から届くのは聞き慣れた二人の声。
「ヒマリさん、こんにちは!」
「やあ、おねーさん」
「白雪さん、オビさん、こんにちは! 奥でちょっとだけ待っててくださいね」
二人を自宅に通し、表に出てW休憩中Wの看板を掲げた。見上げた空には、真っ白な帯のような雲と目を瞑りそうなほどの眩い太陽。身体中に巡らせるように深く空気を吸い込んで、屋内へと戻る。
「お二人ともすみません。いつも来ていただいて」
「いやいや。城に篭りっぱなしだと肩が凝るからね、ちょうどいいよ。ね、お嬢さん」
「ははっ。確かにオビはそうかもね」
あれからの私は、白雪さんと本の貸し借りをする仲になっていた。彼女の護衛であるオビさんを交えて、そのままご飯を食べに行くことも何度かある。王宮に入ることのできない私に、こうして二人は定期的に会いに来てくれるのだ。いつからかそれが日常の一部になり、私の楽しみでもあった。
「早速ですが、ヒマリさんありがとうございました。専門は違くてもやっぱり勉強になります」
「こちらこそ!この薬学書も面白かったです。一人暮らしに役立つ知識ばかりで―…」
お決まりの赤のハーブティーでもてなして、白雪さんと本の感想を述べ合う。そして、毎度毎度の状況に楽しげな私たちの傍で、オビさんは退屈そうに「あんた方飽きずによくやるよ」とぼやくのが定番となっていた。
「白雪さん、次はどれを持って行きますか?」
逸る心を抑えて、本棚から適当な本をいくつか見繕い白雪さんへと差し出す。しかし、彼女はそれを受け取ろうとはせずに珍しく疲れを吐き出すような深い溜息を零した。
「…そのことなんですけど、お借りしてもしばらくの間返せなくなりそうでして」
「えっ? 何かあったんですか?」
実は、と続けた彼女の言葉は私の目を瞬かせるもので。あまりの内容に、ハーブティーが醸し出す雰囲気がその場には不相応に思えた。
「―つまり、謎の美少年に狙われているのに加えて…タンバルンから夜会の招待を受けていると?」
「そうなんです。もう自分でも何が何やら…」
不安を隠すように苦い笑みを浮かべて頬を掻く白雪さんの横では、オビさんがそれをじっと見つめていた。その瞳にはいつもの陽気さはなくて、私に向けられたものではないのにドキリとしてしまう。
「…えっと、今日は来て大丈夫だったんですか?」
「はい。オビも付いててくれてるし、しばらくヒマリさんに会えなくなるのでご挨拶にと思って」
「そうでしたか。すみません、わざわざ……」
「いえ、こうやって花の香りに包まれてヒマリさんに会うとほっとします」
白雪さんはティーカップに口付けると眉を下げて笑い、伏せた睫毛を僅かに揺らした。
「(…白雪さん、大丈夫かな)」
私は白雪さんと親交を深めるうちに、彼女がタンバルン出身でありクラリネスに来た理由を知ることとなった。それ故、今回の標的とした話やタンバルンからの招致は、白雪さんにとって心休まらない問題であるのを自ずと理解できた。けれど、一介の町娘である私には彼女を守る力なんてものはないから。
「―それじゃあ、このブローチを持って行ってください」
引き出しから取り出したのは控えめな赤い花のブローチ。それは本物の花から造られていて、顔に近いところに着ければ途端に花の香りに包まれる。
「いいんですか?」
「ええ。たいして高価な物ではないですし、少しでも花の香りに癒されて気が休まれば」
白雪さんは私の言葉にふわりと柔らかく笑んだ。
「ありがとうございます。お借りしますね」
彼女は目を閉じて、もう一度確かめるように花の香りを堪能すると「ヒマリさん」と私の名前を呼んだ。
「―私、向こうで何かを変えられる予感がしています」
ただでは帰りませんと言ったその声は凛としていて。思わずオビさんを見遣れば、彼もそれには驚いたようで目を丸くしていた。
「―白雪さんらしいですね」
「だね。お嬢さんらしいや」
彼女は気丈な女性だった。強さを宿した春色の鮮やかな瞳を信じきっていた。だから、まさかあんなことになるなんて私は予想だにしていなかった。
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