ライラックに沈むもの
「―オビさんっ!!」
手に持っていた箒を放り出して駆け寄れば、彼は二、三度目を瞬かせた後ふわりと笑ってみせた。その瞳から先程までの色は消えていて。一月ぶり位だろうか、最後に見たときは何処か気を張っているようだったから。久しぶりに見たオビさんの優しい笑顔だった。
「ごめん。心配かけたね」
「ほ、本物……?」
「本物です」
徐ろに手を伸ばし、確かめるようにぺちぺちとオビさんの四肢を軽く叩く。ここにいるのはオビさんに違いないと思うのに、どうにも信じられなかった。触れようとする手は頬にまで伸びかけて、動き出した口に気付き宙を掠める。
「…おねーさん。普段は少しでも触れたら真っ赤になるくせに、こういう時は平気なんだね」
「なっ!!」
私は今、何をしていたのだろう。オビさんの軽口を受けて、自分のしていたことをひとつひとつと省みる。
「(身体触った挙句に、頬っぺた、触ろうとしてた……)」
呆然と両手を見つめる。すると、布越しに触れたしなやかな筋肉の付いた腕の感覚が思い出されて。恐る恐る顔を上げれば、三白眼を緩やかに細めてこれでもかと口端が上がっているオビさんがいた。
「あっという間に真っ赤だね、おねーさん?」
「〜〜〜っ!!」
頭の中には言い返すための台詞が山ほど並べてあるのに、口は小刻みに震えるだけでそこから何も出てこない。耐えかねて隠すように掌で顔を覆えば、触れた頬からはひどく熱が感じられた。
「(ああ、もう……)」
今の私が重きを置いている問題はそこではないのだ。深く息を吸い込んで掌に力を込める。そのまま顔を一、二度叩くと乾いた破裂音がして、オビさんはぎょっとしたような声を洩らす。
「げっ、何してんの?!」
「―そんなことより! 白雪さんはどうしたんですか?」
「!」
頬のひりひりとした確かな痛みは、いつも通りの私を容易く呼び寄せた。白雪さんについて問えば、オビさんの双眸には途端に複雑な色が戻り私の心に靄をかけて。
「あー…ちょっとね。お嬢さんからおねーさん宛てに言付け預かってるよ」
「言付け?」
「そう。W約束の日に伺えなくてごめんなさい。自分の口からきちんと説明しますWだってさ」
「…そうですか」
オビさんの言葉を素直に飲み込む。彼は決して嘘を吐かないことを私は知っていた。だから、今の台詞は私が知らないところで起きた何かを誤魔化すためではない。白雪さんが本当にそう言ったのなら、私は彼女の友人として直接聞けるのを待つしかなかった。
「(とりあえず、無事みたいで良かった……)」
ガラス片に紛れていたユラシグレは艶々とした新しい花瓶に挿し替えられて、間接照明の柔らかい光を浴び上を向いている。それは彼女が無事であることを象徴するようで、私はそっと胸を撫で下ろした。
「―それなら、白雪さんのことは白雪さん本人から聞くとして」
「聞くとして?」
「オビさん」
「はい?」
「オビさんは、どうしたんですか?」
花屋に本日何回目かの鳩時計の鳴き声が響く。窓から射し込んでいたオレンジの光は、すっかりと空の遠いところからやって来た濃紺に支配されていた。その横で、明るい光を放つ照明に晒されているアラマンダは何故だか一段と暗く見えて。
「…俺? 俺はなんともないよ」
「なんだか変です」
「いやいや。いつもこんなだけど」
「いいえ。変です」
深層に閉じ込められた真意を引き出すように、真っ直ぐとアラマンダの瞳を見据えた。しばらくすれば、それはゆっくりと瞼の奥に隠されて。そうして再び現れた時には、何もそこに映していないような意図の掴めない眼差しを向けられて、少しだけたじろいでしまう。
「…仮に俺に何かあったとしても、おねーさんには関係ないよ」
「か、関係あります!」
「ないね」
「……っ!」
ああ、これ以上は踏み込んでくるなと線引きされたんだ。咄嗟にそう感じ取る。取って付けた仮面のような作り物の笑顔とバッサリと突き放す言い方が腹立たしいのに、妙に悲しくて。
―だけど、私は。
「(オビさんに何があったのか、ちゃんと聞きたい……!)」
このまま彼のペースに乗せられて躱されるのは嫌だった。深い呼吸を何度も繰り返して店全体を包む花の香りを味方に付ける。赤みの残っているだろう自らの頬に触れれば、そこは微かに腫れていた。
「…オビさんが私をどう思っているかは知りませんが、私は貴方という人を、白雪さんの護衛として見ているつもりはありません」
「えっ?」
「私にとって、白雪さんは確かに大事な友人だけど、それと同じようにオビさんも大事な友人なんです!」
「…………」
「だから、関係ないなんて言わないでください」
奮い立たせた私の言葉は、彼の心の奥に届いただろうか。揺れた瞳には部屋の灯りがハイライトのようにきらりと射し込む。その真ん中には怯むまいと力強い視線を送る私自身の姿。静まり返る空間に、どくんどくんと自分の心拍を刻む音だけが大きく感じられて。
例え疎まれようと、オビさんの心に踏み入りたかった。友人として、何種類もの絵の具をぐちゃぐちゃに混ぜたような、そんな複雑な色を彼の瞳から取り除きたい、力になりたいと思ったのだ。
「―ぶはっ」
長い沈黙を破ったのはオビさんで。突然吹き出したかと思うと、可笑しそうに聞き慣れた笑い声をあげた。その様子を前に、私は何も出来ずにただぽかんとして。代わりにどうにかしようとする腕だけが宙を左右に彷徨っていた。
「…あーあ、本当可笑しいね」
「あの……?」
「―おねーさん。あんた酒は飲めるくちかい?」
一頻り肩を上下に揺らしていたオビさんは、気持ちが収まったのか、薄く涙を張りきらきらと輝くアラマンダをこちら向けてそう尋ねてきた。
「お酒? まあ普通の人よりは強いと思いますが……」
「おっ、いいね。ならちょっと付き合ってくんない?」
「それなら10分程待っててもらえますか?まだ後少し片付けが―…」
そこで見計らったように、ぐう、と間の抜けた音を発したのは私の腹の虫で。二人を心配するあまり、ここ最近は食べ物を多く口に出来なかったことを思い出す。
「……かっ、片付けは後だね」
「……はい」
震えるテノールにはクックッと堪えきれなかった笑声も混じっていて。私は再び熱くなった顔を掌で覆い、げんなりと項垂れたのだった。
- 13 -
<<|>>
ALICE+