行き摩りノースポール
酒場特有の鼻を刺す香辛料の匂いと衆の賑わいには慣れたものだった。白雪さんも含めて何度か訪れてはいたけど、オビさんと二人だけではこれが二回目。前回も私が盛大にお腹を鳴らしたからだっけと思い出す。
「ぷはーっ。この酒うまいね」
なみなみと酒が注がれていたグラスは氷だけとなりカラリと音を立てる。まるで水を飲むようにあっさりと飲み干した彼の姿を、今晩だけで既に幾度となく目にしていた。
「オビさん、相当強いですね……」
「まあね。でも、おねーさんもそこそこじゃないの」
「オビさんには敵いそうもないですけど」
テーブルに運ばれてきた料理は鮮やかな赤で彩られ舌を刺激するものばかり。病みつきになる辛さと旨味の絶妙なバランスが、手元のグラスを空けるスピードを速めていた。
「……それにしても、あんたはすごいね」
「何がです?」
グラスに口付けるばかりで、ゆったりと進んでいた会話はようやく本題に差し掛かろうとした。その始まりの口説に私は林檎酒を喉に滑らそうとした手を止める。彼はグラスを少し離れたところに置くと、頬杖を付き覗き込むような形で私をその瞳に映した。
「何かあった?って訊いてくるもんだから驚いたよ。上手く隠してたつもりなんだけどね」
「ああ……」
彼が肘をついたまま反対の手でボトルを手に取れば、その中身は一滴残らずグラスへと流れて簡単に重さを失う。無造作にテーブルの脇に置かれた空き瓶は二本目となり、アイスペールに残った氷は角が溶けて丸みを帯び始めた。
「…オビさんは、分かりやすいようで分かりにくくて、分かりやすいんです」
「ははっ。どっちなのそれ」
「うーん……どっちだろう」
曖昧な言葉を並べる。自分でも分からなかったのだ。私は花屋という職業柄、人の気持ちの変化には敏感だった。花はただ綺麗なだけじゃなくて人の気持ちを伝えることができるもの。だから、その人の気持ちや心情に合わせて花を選んできた私は、自ずと人の気持ちを汲むことが得意となっていた。
けれど、オビさんの場合は一概にそうとは言えなくて。彼は普段何を考えているのかはっきりと分からないのだ。いつも飄々とし掴もうとしたらするりと抜けて、彼の笑顔だけが残りなかなか本心に触れられない。
「(本当、よく分からない)」
―それでも、今日のオビさんは、いつもの笑顔にはない色を瞳に宿していることが明らかだった。笑顔に隠しきれなかった余程のことがあったのだと。
「…でも、私もまさかオビさんがこうして話そうとしてくれるなんて思いもしませんでしたよ」
「そりゃレディから熱い眼差しを向けられたら、さすがの俺も誤魔化しようがないよ」
「あはは、そうですか……白雪さんたちには話したんですか?」
歯の浮くようなオビさんの台詞を乾いた笑みで流す。続けざまに尋ねれば明確な返事はなく、彼の瞳と同じ深い黄金色の酒を喉が流し込む音が聞こえて、それが否定の意だとすぐに分かった。
「―なぁ、おねーさん」
「はい?」
「あんたにとって、どういうところが自分らしいと思う?」
彼の瞳にどきりとしたのはこれで何度目だろうか。私が酒に当てられてそう見えているのか、見慣れたはずのアラマンダは妙に憂いを帯びていて。
「自分らしい…ですか?」
「そう。よく分からなくてね」
W自分らしいWという言葉を頭の中で噛みしめるように繰り返した。私から視線を逸らし、宙を見つめる彼が何を意図して問いたのかは分からない。だけど、恐らくオビさんにとっては何か大事なことであるのは確かだから。
「―…どこが自分らしいかなんて、私には答えられません」
「へえ。なんで?」
「自分らしさなんて、変わっていくものだと思うからです」
「変わっていく?」
しばらくの間、私たちのテーブルを支配していた沈黙は、辺りの喧騒に呑まれることなくそこだけが時の流れから外れたようだった。ようやく整理できた思いを連ねれば、彼は少しだけ目を瞬かせる。
「人は普段から奥底にいくつもの自分を持っていて、いろんな人と関わるうちにそこからどんどん新しい自分が出てくるんですよ。そうして知った新しい自分も、それまでの自分も、全部が自分らしい自分なんだと思います」
「…………」
「だから、昔の知人からはW貴方らしくないWと映る部分も、最近出会った人からしたらW貴方らしいW部分になるんじゃないかなーって」
「……へぇ」
上手く伝わっただろうか。顔色を変えずにお酒を呷っているオビさんの向かいで、私はふわふわとした高揚感に包まれ始めていた。彼の表情を伺い知ることはおろか、自分が話していることさえも他の誰かが代わりに口を動かしているような感覚に襲われる。
「た、例えばですよ!花屋一筋で生きてきた年頃の娘が、年頃の男の人と少し触れ合うくらいで顔を真っ赤に染めるのも、私が最近知った自分らしいところです」
「おお、なるほど。面白いし分かりやすい」
「何処かの胡散臭い猫目のお兄さんのお陰で気づきました」
「はははっ。そりゃ何よりだよ」
それは頭と口が切り離されたように流れ出た。けたけたと耳に入る笑い声がいつもの彼を思い出させて。高いアルコールで無防備となった心は日頃から抱く自分の思いを顧みることなくぽろぽろと零し始めた。
「だいたいね、オビさんは酷いんですよ!」
「えっ、なんで」
腹立たしかったこと、悲しかったこと、話していくうちにオビさんへのぐちゃぐちゃな気持ちが酒の熱と相まって喚くように捲し立てる。
「なんですか!関係ないって!約束の日を過ぎても音沙汰なくて、すごく心配してたんですよ!それなのにあんまりじゃあないですか!!」
「…………」
私は何をこんなに怒っているのだろう。声を張ったことで周りの空気が瞬間的にピタリと止む。特に怒り上戸と言うわけでもないのに、どうしてこんな責めるような言い方をしているのだろう。
「―…オビさんは、一人なんかじゃないんですよ」
「…………」
「今回、貴方たちに何があったのかは分かりませんが、オビさんの周りには白雪さんたちがいるのに……それなのに、オビさんが一人で何かを抱え込むのは間違ってます」
強く張ったはずの声も気付けば喧騒に埋もれそうなほど震えるものとなっていた。ふわふわとした思考だけでなく次第に視界までもがじわりと滲んで来る。僅かに俯けば、揺れる前髪はそれを隠した。
「格好ばかり付けてないで、もっと周りを見てください。…私だって、白雪さんたちと同じようにオビさんを思う一人なんですよ……」
「…………」
言葉にして、本人に伝えて、ようやく気付いた。私は、自分で思ってた以上にオビさんに突き放されたことが悲しかったんだ。私がオビさんを親しく思っていても、彼にとっては私は大事無い存在だと分かって寂しかったんだ。
泣き入りそうな響きが残り香のように後を引く。そこにある沈黙が痛くて、オビさんがどう思っているのかが怖くて、本人を視界に映せない。
「―…あんたは優しいね。俺のこと好きなのって疑うくらい」
「なっ!またそんなふざけて―…」
どれくらい経っただろう。いつもの軽口に勢いよく顔を上げれば、そこにいつもの彼はいなくて、そのまま目を見張る。
「おねーさん、ごめんね。どうもありがとう」
何処か泣きそうな顔をして、嬉しそうに笑うから。それは胸をきゅうときつく締め付けて、彼の様子に私はただ押し黙るしかできなかった。
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