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突然意識を失ったエマを、ナミは支えきることはできなかったが、その体が地面に倒れるスピードを緩めることはできた。エマが倒れるのに合わせ、その体を支えながらナミも腰を下ろす。
自分を庇って怪我を負ったその小さな体からは、皮肉なほどに綺麗な血が流れ出ては、その体を離れると真っ赤な宝石と化した。


「チョッパー! 手当てお願い!!」
「あ、ああ!! サンジ!」
「分かってる!」


ナミの必死な声にチョッパーは頷き、エマを船に連れて来てほしいという意を込めてサンジの名を呼ぶと、サンジもそうしようと思っていたらしく、食い気味に返事をした。
未だ何が起こったのか理解できていない様子のウィルが、震えるその手から拳銃を落とすのを見たサンジは、チッ、と一つ舌打ちを零し、それが再び彼の手に渡らぬように思い切り遠くへ蹴り飛ばす。ウィルを一瞥して、サンジはすぐさまエマを支えながら座り込むナミの元へと駆け寄る。


「ナミさん無事か!?」
「ええ、私は平気……それよりこの子を早く!!」
「あァ……!」


ナミの無事を確認すると、サンジはエマの体をあまり揺さぶらないように、まるで割れ物を扱うかのように丁寧に、優しく横抱きにして立ち上がる。同時にナミも立ち上がると、二人は急いで船へと戻って行く。
その様子をそれまで呆然と見ていたウィルが、慌てたように怒鳴り声を上げた。


「お……おい待て!! エマをどこへ連れて行く気だ!! その子は私が、連れて帰る!!」


背後から投げかけられるその言葉を無視し、二人は船へと乗り込み、チョッパーに案内され船内に入っていく。二人がエマをチョッパーの元へ連れて行けたのを確認すると、それと入れ替わるようにしてルフィが船を降りた。麦わら帽子を目深に被り、ルフィはウィルのいるところへと真っ直ぐに歩いて行く。ゾロとウソップとロビンは、その様子を船の甲板からじっと見ていた。


「海賊共が……!! あの子を、エマを返せェ!!」

そう声を荒げながらルフィに殴り掛かるウィル。ルフィはその拳を避けず、受け入れた。当然、ルフィに拳の攻撃は効かない。それでも、ウィルはルフィに何度も振り上げる手を止めることはなかった。


「返せ、返せ、返せ、返せェ!!!」


まるで気でも狂ったかのように、“返せ”と繰り返すウィル。ルフィはまだ何も言わずに、殴られ続ける。すべての拳を全身全霊で振り上げるウィルは、少しずつ息を切らす。年齢とともに減ってきた体力を恨めしく思いながらも、彼は力の限りルフィを殴り続けた。その言動の内実は全て、“海賊”という存在に対する私怨からきている。ルフィ達は関係がないのだと、心のどこかでは理解していた。それでも、彼は、これまでの――彼に至っては9年以上前から続く――この遣る瀬無い思いを、理不尽と分かりながら、“海賊”を名乗る目の前の男にぶつけることを止めることができないのだ。


「ハァ、ハァ……! お前達海賊は、いつも…… 己の欲の為に……いとも、容易く……ッハァ…………!」
「……」


エマを傷付けてしまったのは自分であるのに、しかしその状況を作らせたのは彼等だと、無理にでも自分を正当化しようとしている。ウィルは、それすらも、理解はしているはずだった。
けれど彼にはもう止められない。止まらない。誰かに止めてもらわなければ、憎しみが収まらない。

サングラス越しの彼の目に込み上げる涙が、ルフィに見えたかどうかは分からない。
彼の頬に涙が伝ったことで、やっと気付いたのかもしれない。


「――ッこれ以上……私の家族を奪われてたまるか!!!」


しぼられた血涙がぼろぼろと零れていく。強い、強い思いをその拳に込め、もう一度大きく振り下ろした。
しかし、その大きな一発がルフィに当たることはなかった。振り下ろされた手を、ルフィは片手で簡単に止めてしまったのだ。ここで初めて、ルフィが口を開く。


「あいつはチョッパーが絶対助けるからよ。心配すんな」
「!?」
「それよりおっさん、一発殴るぞ。歯ァ食いしばれよ」


ルフィの発言に驚き、理解に追いつく間もなく、ウィルはルフィに顔を殴られそのまま気絶してしまった。


「おっさんに個人的な恨みはねェけど……体張って仲間を守ってくれたあいつが受けた、痛みの分だ」





―――――






今まで何度か、こんな夢を、見ました。

わたしは、どこかの小さなお家の中に立っていました。知らないお家でした。夢の中は、冬だったのでしょう。暖炉のパチパチという音がよく耳に残りました。
暖炉の近くのソファには、顔に黒い靄のかかった、女の人がいました。髪も長くて、細い腕をしてて、何より胸があったので、女の人だと思いました。
わたしはその人のことを知りません。でも、女の人は自分の座るソファの空いているスペースをぽんぽんと叩いて、わたしを呼ぶのです。不思議と、怖くありませんでした。わたしは呼ばれるがままに、女の人の隣に腰掛けました。温かくて、心地のいい場所でした。

わたしはどうしてか、女の人にあなたは誰ですかと聞けませんでした。どうしてでしょう、分かりません。知らない人なのに、本当は知っている気がしました。

女の人は、声を出して喋ることはありませんでした。
代わりに、近くの机にあったスケッチブックとペンを持って、何かを書き始めました。わたしはその間、窓の外に見える満月を見ていました。淡く光を放つ、優しい月でした。綺麗だな、と見惚れていたら、肩を軽く叩かれました。
振り返ると、女の人がスケッチブックに書いた文字を、わたしに見せていました。


『あの人が帰ってくる前に、聞いてほしいお話があります』
「聞いてほしいお話?」


女の人は頷きました。たぶん。
そしてまたスケッチブックに文字を書き始めます。サラサラと、素早く、丁寧な文字で書かれています。しばらく、女の人との文字での会話が続きました。


『パパは昔、とても偉い人だったんですよ。とても偉くて、とても怖い人達の家族でした』
「……パパが?」
『そう。そしてママは、その怖い人達の中に放り込まれて、すごく怖い思いをしていました。そこで、パパに出会ったのです』


女の人は、わたしも知らない両親のことを知っていました。お父さんではなくてパパで、お母さんではなくてママでした。確かに、その方がしっくり来たような気がします。


『ママは最初、パパのことも怖くて仕方ありませんでした。パパに会ったのは初めてだけれど、パパの家族やそのお友達の方達がすごく怖い人だったからです。きっとこの人も怖い人なんだ、と思っていたのです』


女の人が何を言いたいのか、わたしにはまだ分かりません。なので、またしばらく、黙って話を目で聞きました。


『でも違ったのです。パパだけは、お会いしたその時からずっと優しかったのです。そしてパパは、いつかママをその怖い場所から逃がしてくださるという約束をして、大きくなった頃、その約束を果たしてくださった。だからこそ、こうしてあなたと過ごせている』


なんだかよく分かりませんが、とにかくパパがすごい人だということだけは分かりました。でもこの人、どうして急にわたしにそんな話をするのだろう。わたしはそう思いました。
すると、まるでわたしの考えを読み取ったかのように、女の人は既にペンを走らせていて、見せられた文字の始まりは『何が言いたいのかと言うとね』でした。


『その人に流れる血だけで、その人のことを決めつけないでほしいということなのです』


女の人の言葉は、とても印象に残りました。優しく、心に染み渡るような不思議な感覚と共に、その言葉はスッとわたしの中に残りました。
女の人は続けます。


『私達の住む世界なんてちっぽけなものです。外はもっともっと広くて、色んな人や生き物がいます。時には悪い人や怖い人も、もしかしたら沢山いるかもしれません。でもね、だからと言って、その一部の人達のことだけで、人を嫌いにならないで。そんな人達の為に、あなたが、あなたの世界を狭める必要なんて、あるはずがないのだから』


最後のその一文字まで、わたしはじっくりと読み尽くしました。何度も、何度も、読み返しました。忘れちゃいけないと思いました。わたしはそのスケッチブックをそっと受け取って、見入るようにその言葉を心の中で反芻しました。
そんなわたしの頭に、女の人の手が優しく乗せられました。女の人の方を見てみたけれど、その顔はやっぱり黒い靄がかかっていて見えません。でも、きっと微笑んでいる。そう思いました。


暖かな部屋で、柔らかなソファで、優しさに触れて。
夢の中で、また夢に誘われるように。
気付けばわたしは、また眠りに落ちていました。




喪う数だけ生まれる涙
(それでも枯れないその感情を、どうか憎まないで)


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