第7話

艶やかな長い黒髪を靡かせて、にこにこと穏やかに微笑む。
その柔らかな笑顔はどことなくしのぶに似ているように思えて、けれどあいつみたいに貼り付けたような作られた笑顔ではなく、本当に自然な笑み。
それはしのぶとは似ているようで似ていなくて、そしてその女の髪には、いつだったか僕がしのぶにプレゼントした蝶の髪飾りによく似た髪飾りが両サイドにつけられていた。
明らかにしのぶと関係がありそうなその女は、確かに言った「しのぶ」と。その名を。

「君……何?」
(なんだこいつ、呪霊?いや、気配が違う。何だ?)

初めて見る得体の知れない存在に、警戒を強める。
呪霊かと思ったが、そんな感じはしないし、何よりもこの女からは何の気配も感じないのだ。
六眼で見ても何も分からない。それは呪力を持ってないということで……
僕が女に声をかけると、その女は不思議そうにキョロキョロと周囲を見回した。
まるで自分が声をかけられたのだと思っていないように。
そのわざとらしい仕草にイラッとしながらも、女を指差して言う。

「君だよ君!」
「……私?」
「そう!」

まさか自分に声をかけてくるとは思わなかったのか、女は自分を指差して不思議そうに首を傾げた。
それに力強く答えれば、女はきょとんと目を丸くした後、何故か目を大きく見開いてキラキラと輝かせた。心做しか、とても嬉しそうに。

「あらあら〜、もしかして私が見えるの?」
「見えるよ。ばっちりと。」
「まあ、どうしてかしら?今まで見えたことなんてなかったのに。何度も声をかけたけど、しのぶだって気付かなかったのに。」

「不思議だわ〜」となんだか力が抜けてしまいそうになる程、のほほんとした空気を纏ってその女は笑う。敵意は全く感じない。
けれどまた「しのぶ」と口にしたことから、僕の聞き間違いではないと確信した。
この女は、しのぶを知っている。自然と女を見る目が鋭くなる。

「ねぇ、君何でしのぶを知ってるの?あいつとどういう関係?」
「あらあら、ごめんなさいね。自己紹介が遅れました。私は胡蝶カナエ。しのぶの姉です。」
「……はっ?」

予想外の言葉に、一瞬目が点になる。けれどそれはすぐに嘘だと思った。
しのぶの境遇や家族構成は知ってる。あいつに姉はいない。
確かにこの女はどことなくしのぶに似ているけれど、そんなすぐバレる嘘を言うこの女に、殺気を向けた。空気がピリッと張り詰める。

「嘘だね。あいつに姉はいないよ。」
「そうね。"この世界"のしのぶに姉はいないわね。だから正確には元姉になるのでしょうけど……それでも、やっぱり私はしのぶのお姉ちゃんなのよ。」

どこか誇らしげに、その女は微笑んでそう言った。
この世界とか、元姉とか、よく分からないことを宣う。まるでしのぶがこの世界とは別の世界で生きていたかのような言い回しに苛立ちが募る。
その表情からは嘘を言っているようには思えなかった。けれどしのぶに姉がいないのは事実。
この得体の知れない女の言葉を、信じる気には到底ならない。

「訳の分からないこと言わないでくれるかなぁ。君は呪霊?それとも別の何か?」
「ごめんなさいね。うまく説明できないの。私はそうね……もう死んでいるから、幽霊みたいなものなのかしら?」
「幽霊、ねぇ」

今まで生きてきた中で、僕は幽霊なんてものは見たことがない。呪霊なら分かる。
まあ確かになんか透けてるし、気配はしないけど、そんなもの簡単に信用出来ない。
僕が殺気を向け続けていると、女は困ったように微笑んだ。

「そんなに警戒しないで欲しいわ。私はただ、貴方に伝えたいことがあるだけなのよ。」
「伝えたいこと?」

僕が訝しげに尋ねると、カナエと名乗った女はこくりと頷く。その顔があまりにも真剣で、僕は少しだけ興味を持った。
「それは何?」と尋ねれば、カナエは僕が話を聞く気になったことが嬉しいのか、にっこりと満足そうに笑った。

「言葉にするよりも、見て欲しいの。」
「あっ?」

見る?何を?そう尋ねる前に、急激に眠気が襲ってきた。
これはやばいと感じた時にはもう遅く、僕は意識を手放した。


*****


『――ん!――さん!』

誰かが何かを叫んでいる。その声は、ひどく懐かしい。
ふわふわとした夢見心地のような中で、少しずつ意識が浮上していくのが分かった。
それに応じて、声も段々とはっきりと聞き取れるようになってくる。

『――さん、――姉さん!』
「――っ!」

その声に、僕は弾かれるようにして目を開けた。
飛び起きるようにして体を起こすと、目の前には幼い女の子が僕の顔を覗いていた。
そして、その小さな女の子の顔には見覚えがあった。

「……しのぶ!?」

艶やかな黒髪を後ろに結い、蝶の髪飾りをつけているその幼い女の子は、幼い頃のしのぶと瓜二つだった。
ただ一つだけ違和感があるとすれば、その子の目は勝ち気そうに釣り上がり、中々気が強そうな雰囲気があった。
僕がよく知るしのぶは、いつも穏やかで柔らかな笑顔の絶えない子だったから、すぐにこの子は違うと分かった。
でも何でだろう。この子はしのぶだってどうしても思ってしまう。いや違う。確信してるんだ。
だって僕の六眼がそう告げてる。この子からは何故か呪力を全く感じないのに、僕の勘が、心が、絶対にしのぶだと確信していた。
どういうことだ?何でしのぶが幼く……そもそも何で生きてるんだ?
頭が混乱する。訳が分からない事態に焦っていると、僕の横から声が聞こえてきた。

『あらあら、なぁにしのぶ?』

横から声がして驚いてそちらを見れば、そこにはあのカナエとかいう女がいた。
さっき会った時よりもだいぶ幼い少女の姿をしているけれど、その面影から間違いなくあの女だと分かった。
カナエがしのぶに柔らかく微笑みかけると、しのぶは「もう!」っと少し怒ったように頬を膨らませた。
その表情は、やっぱり僕の知るしのぶとは掛け離れている。

『姉さんたら!明日は父さんと母さんと一緒に街に買い物に行くって話をしていたのよ。なのにぼーとしちゃって!』
『あらあらそうなの?ごめんなさいね。』
『姉さんはそのおっとりしている所をもっとしっかりしないとダメよ!』
『うふふふ、しのぶったらおこりんぼさんね。』
『姉さん!』

カナエのおっとりした言動に怒って頬を膨らませるしのぶは、年相応の子供らしい表情を浮かべていて、やはり同一人物には思えなかった。
僕が知っているしのぶは、出会った五歳の頃から大人びていて、よく笑う奴だったけれど、その笑顔はいつも作られたみたいで嫌だった。
全然子供らしくなくて、歳下のはずなのに、時折姉のように感じることがあった。
しのぶはこんな風に笑わない。……筈なんだ。なのにどうしてか僕には、この笑顔こそが本当のしのぶの自然な笑顔のように思えてならない。
泣いたところなんて、一度も見たことない。しのぶが僕の前で本当に笑ったことなんてあったんだろうか。
しのぶとカナエの傍には両親と思われる大人の男女がいて、二人の姉妹のやり取りを微笑ましそうに眺めている。彼等は僕の存在が見えていないかのように四人だけで会話している。
なんだこれは。本当によく分からない。

「これはね、しのぶの過去の記憶なの。」
「っ!?お前…!」

ふっと突然僕の隣にカナエが現れた。今度は子供じゃない。大人の姿だ。
驚く僕に目もくれず、カナエはただじっと目の前で繰り広げられる家族の会話に目を向けている。
その表情はどこか哀しげで、少し苦しそうに見えた。
何でそんなに顔するんだ?どっからどう見ても普通の幸せそうな家族の日常じゃないか。

「これは幻覚かな?」
「違うわ。これは本当に過去に起こった事よ。」
「は?」

意味わかんねー、こいつの目的はなんなんだ?僕に何をさせたい?
よく分からない空間に連れて来られて、意味の分からないものを見せられて、正直かなりムカついていた。
こいつ消してやろうか?そんな事を思っていた。けれどそんな思考を遮るように悲鳴が響き渡った。

『きゃぁぁぁぁァァ!あがっ!!』
『なっ、なんなんだ!?ばっ、ばけも…っ!!』
『とっ、父さん!かぁさ…!いやぁぁぁぁ!!』
『しのぶ!』

悲鳴と共に、血飛沫が部屋中に飛び散る。
どこにでもあるような幸せな家族の時間を壊すように、「それ」はその家族を襲った。
明らかに人とは違う姿をした異形の化け物が、姉妹の目の前で両親を鋭い爪で引き裂く。
その化け物は、男女の肉片を踏みつけると、残された姉妹に目を向ける。ニタリと嫌らしい笑みを浮かべて。
カナエは幼いしのぶを守るように、その小さな体で抱き締める。その光景を、僕は唖然と見ていた。

「何だアレ……呪霊?じゃ、ないな。」
「あれは"鬼"よ。」
「鬼?」

カナエの口から語られたものは、まるで御伽噺のような内容だった。
平安時代に、鬼舞辻無惨という、一人の病弱な人間がいた。とある医師の治療によって、男は人を喰らう化け物になった。
人の血肉を求める喉の乾きと引き換えに、心臓が抉り取られようが、頭を潰されようが、死ぬ事の無い不老不死の体を男は手に入れた。
しかしその不死も完璧ではなく、陽の光だけは受け入れられなかった。
やがて「鬼」と呼ばれる存在になったその男は、陽の光を克服する方法を探すべく、自分の血を人に与えることで「鬼」を増やすことにした。
鬼は陽の光を受けるか、陽の力を吸収する特別な鉄で打った刀で鬼の頸を刎ねる二つの方法でしか死なないらしい。
鬼舞辻は弱点のない、完璧な不死を求めて陽の光を克服する鬼を作るべく鬼を増やし続けた。
そうして増え続けた鬼は、人を襲うようになる。暗闇の中でだけ活動できる鬼は、夜に人を襲う。
今まさに、しのぶたちの家族はその鬼によって殺されたのだと。カナエは語った。

「鬼なんて存在、聞いたことないけど?」
「それはそうだわ。だって、貴方たちの世界に鬼はいないもの。貴方たちの世界に呪霊という存在がいるように、私たちの世界には鬼がいたのよ。」
「あのさぁ、カナエが言っている話が本当なら、しのぶは違う世界から来たってことになるんだけど?」
「そう話してるつもりだったのだけれど、分かりづらかったかしら?」
「あっ?」

どうやら話はそんな単純なものではないらしい。想像以上にぶっとんだ展開に、流石に僕もついていけそうにない。
そしていつの間にかしのぶたちを襲っていた鬼は、突如として現れたガタイのいい男によって倒されていた。
カナエ曰く、鬼を倒すための組織がいるらしい。鬼殺隊というのは、呪術師のようなものなのだろう。
しのぶとカナエはその鬼殺隊の男によって助けられたようだった。

『――幸せの道はずっとずっと続くって思い込んでいた。破壊されて始めて、その幸福が薄い硝子の上に乗っていたものだと気付いた。そして自分たちが救われたように、まだ破壊されてない誰かの幸福を、強くなって守りたいと思った。』

声が……降ってくる。
しのぶの声だ。僕のよく知る、落ち着いた穏やかな声。
ああ、そっか。ここはしのぶの記憶であり、心の中なんだ。
何故か僕はそう思った。今自分は、彼女の心の奥底に触れようとしている。
しのぶが最期まで僕に話してくれなかった、隠していたものが、今見えようとしてるんだ。
ならば、最後まで付き合おうじゃないか。今更かもしれないけれど、僕はしのぶのことを殆ど何も知らなかったんだ。
もう彼女はいないけれど、せめて君のことを覚えていたいから、しのぶが最期まで言えなかった君の本音を、見つけたい。

『姉さん、私たちも鬼殺隊に入りましょう。』
『ええ、しのぶ。私も同じことを思ったわ。』
『私は父さんと母さんを殺した鬼が許せない。鬼が人々を襲い、私たちのような人が他にもいるのなら、私は戦うわ。』
『そうねしのぶ。まだ守れる人々の幸せを守らないとね。』
『鬼を倒しましょう。一体でも多く。二人で。私たちのような思いを、他の人にはさせない。』

まだ十歳前後の幼い子供とは思えない、重く、切ない決意だった。
涙を流しながら生き残った姉妹が指切りを交わすその瞬間は、とても儚く、哀しい。
カナエは言った。この世界には呪術という人智を超えた力は存在しないと。
鬼が血鬼術という、呪術のような特殊な力を持っているのに対して、人間はただひたすらに刀を振るうことでしか対抗するすべがないのだと。
長い歴史の中で、人が鬼に対抗するために呼吸という特殊な技術が生まれたが、それでもほぼ不死身の鬼に対して、人はあまりにも無力だった。
その事を聞いて、流石に僕も何も言えなくなった。呪術師と呪霊。その力の差は大きいけれど、それでも呪術師には呪霊に対抗するための力が備わっている。
それに対して、この世界はあまりにも無慈悲で残酷な力の差があった。
だってそうでしょ。術式を持つ呪霊相手に、非術士が戦うようなもんだ。
呼吸という特殊な戦闘技術があるにしたって、それは極限まで己の体を鍛え上げてやっと習得できるものらしいし、結局は血鬼術に対抗するにしてはあまりにもその力の差が大き過ぎる。

――場面が変わる。
しのぶたちを助けた男は、柱という鬼殺隊で最強と言われる存在らしい。呪術師でいう特級みたいなものなんだろうな。
その男にしのぶたち姉妹は鬼殺隊に志願する方法を尋ねに頻繁に男の元を訪ねていた。
けれど男はそれを断り続けた。どうやらしのぶたちを助けた男は心根が優しいらしい。
幼い子供を、それも女の子が死ぬと分かっていて危険な組織に入れられないと、断り続けていた。
それでも諦めないしのぶをなんとか悟らせようとしていた。

『今はまだ難しいだろうが、いつかは忘れられる。普通の娘として幸せに生きろ。好いた男と結婚し、子を産み、しわくちゃになるまで生き……』
『忘れられるわけないじゃない!!』

男の言葉を最後まで言わせず、弾けるようにしのぶが叫んだ。

『目の前で父さんと母さんを殺されたのよ!?それで、何もなかったかのように生きられると思う?できるわけない……できるわけないじゃない!!普通に生きることが幸せなの!?自分を騙して、忘れたふりして暮らすのが幸せなの!?そんな幸せなら私はいらない!!そんなの、死んでるのと同じじゃない!!』

綺麗な顔をくしゃくしゃに歪めながら、涙を流して叫ぶその姿はあまりにも痛々しく、今にも消えてしまいそうな儚さがあった。
戦って死ぬか、平穏に生きて心が死ぬか。それならば戦って死ぬ方がましだと、そんな言葉を幼い女の子が泣きながら叫ぶほどの憎しみ。
それはとても危ういもので、けれど今のしのぶにとっては、生きる理由そのもののように思えた。

『あの子は仮に隊士になったとしても、おそらく鬼の頸は斬れないだろう。』
『…………』
『鬼の頸が斬れぬ隊士に、何が待っていると思う。』
『私も誰かの大切な人を守りたい。そうすることで、悲しみの連鎖を止めたいんです。』
『その結果、自分や妹が死ぬことになってもか?』

しのぶのいない所で、カナエと男、悲鳴嶼はそんな会話をしていた。
そしてその事を、きっとしのぶ自身が一番よく理解していたのだろう。

――また場面は変わる。
姉と離れ、それぞれ別の育手の元で修業することになったしのぶは、全集中の呼吸はできるようになったものの、肝心の鬼の頸を斬ることができなかった。
それは修業する前から言われていたし、分かっていた。けれど、心のどこかで修業さえすれば或いはと、どこかで希望を抱いていたのだ。
その僅かな希望は、すぐに打ち砕かれたけれど……

『しのぶ、お前さんに鬼狩りは無理だ。悪いことは言わない。諦めなさい。』
『そんな!師範!』

自分を育ててくれた育手にまで、無理だと匙を投げられた。
それでも、それでもどうしても諦められなかった。

『どうにかして、鬼の頸を斬る以外に、鬼を殺す方法はないのかな。』
『私にも、姉さんのような上背があれば……』
『いいな、姉さんは。どうして、私はこんなにも小さいのかな。』
『許せない許せない!鬼なんて大っ嫌いだ!みんな死んじまえ!』

雪のように降ってくるしのぶの心の声。それはどれも苦悩と切実な願い。姉への嫉妬。
そして、鬼への激しい憎しみと復讐心。

『そうだ!鬼は藤の花が苦手だって師範が言っていた。それなら……!』

そしてしのぶは見つける。自分の。自分だけの戦い方を。

『できた!藤の花の毒!これなら!』
『姉さん!私も隊士になれたわ!鬼の頸が斬れなくたって、私だって戦えるのよ!』

鬼が苦手とする藤の花。それから作り出す特殊な毒の生成によって、しのぶは鬼の頸が斬れなくとも、戦う術を見つけることが出来た。
その方法を見つけてからは、しのぶは薬学や医学を学ぶようになった。
より強く、効果的な毒を作り出すために。
確実に、しのぶは己だけの方法で鬼殺隊としての居場所を作っていった。けれど彼女をよく思わない者は少なからずいたのである。
それはカナエが花柱として柱に就任してからも変わらずで、寧ろ柱の妹ということで余計に噂になっていった。

『聞いたか?鬼殺隊のくせに、鬼の頸が斬れない隊士がいるんだと。』
『ああ、知ってるよ。花柱様の妹だろ?』
『鬼の頸が斬れないのに、継子なんだって?』
『なんでも、鬼を殺す特殊な毒を使うんだと。』
『何だそれ、剣士ですらないじゃん。』

そんな陰口を叩かれるのには慣れていた。それでも構わなかった。
誰がなんと言おうと、私は鬼殺隊の隊士であり、姉さんの継子である誇りがあったから。
カナヲやアオイ。私には守らなければならない妹たちがいたから。
大切な存在が、いてくれたから。私は私の守りたいものの為に戦えた。
あの日、姉さんが死ぬまでは……

『姉さん!姉さん!』
『……しのぶ…』
『姉さん、しっかりして!』

ある任務でのことだった。私は姉さんの継子として着いて行った。
そこで現れたのだ。上弦の鬼が。
私が他の鬼と戦っている間、姉さんは一人で戦い続けた。
私が姉さんの元に駆けつけた時には、もう既に何もかも終わっていた。
朝日が昇りかけていたから、きっと鬼は逃げたのだろう。姉さんは血まみれで倒れていた。
側には折れた刀。それを見て分かった。ああ、姉さんは負けたのだと。
息も絶え絶えの、今にも事切れそうな姉さんの身体を支えて、私は必死に姉さんに呼びかけていた。
姉さんは震える手で私の頬に触れて、微笑んだ。

『しのぶ、鬼殺隊を辞めなさい。貴女は頑張っているけれど、本当に頑張っているけれど。多分しのぶは…………』
『普通の女の子の幸せを手に入れて。お婆ちゃんになるまで生きて欲しいのよ。もう……十分だから……』
『嫌だ!!絶対に辞めない!!姉さんの仇は必ずとる!!言って!!どんな鬼なの!?どいつにやられたの……!!』
『…………』
『カナエ姉さん言ってよ!!お願い!!こんなことされて、私普通になんて生きていけない!!姉さん!!』
『……っ』

姉の手に触れながら、必死に姉さんに懇願していた。
姉さんは、最後まで言葉にするのを躊躇っていたようだった。
鬼の情報を与えることで、私が姉さんのために復讐に走るのは分かっていたから。
それを教えることで、私が鬼殺隊を続けることが分かっていたから。そしてきっと、そのせいで私がいづれ死ぬ事になるかもしれないことも。
けれど情報を与えようが、与えまいが、私が復讐を、鬼殺隊を辞めないことを、姉さんは分かったのだろう。最期には折れて私に上弦の鬼の情報を教えてくれた。
そして姉さんの墓の前で、姉妹たちと泣いた日に私は誓った。
もう泣かないと。姉さんの仇は必ずとってみせると。例え自分の命と引き換えにしてでも……
その日、私は私を殺した。翌日から私は紅を塗るようになった。
今までは女の子らしくすることは隊士としてやることではないと、嫌悪して化粧なんてしなかった。
誰かが言っていた。化粧は女の戦装束なのだと。泣くと化粧が崩れてしまうから、化粧をしている間は女は決して泣いてはいけないからと。
口調も変えた。少しでも優しく、穏やかに振る舞えるように、誰に対しても敬語で話すようになった。
何があっても、笑顔を絶やさないように心がけた。
姉さんは、春の日差しのように穏やかで、どこまでも優しい、笑顔の絶えない人だったから。
私は姉さんを忘れたくはなかった。あの優しい笑顔を、優しい声を、温もりを。
だから私は姉さんのように振る舞うことにした。そうすることで、姉さんをずっと覚えていられると思ったから。
姉さんのように倒すべき鬼にすら情けを掛けた。姉さんはいつも鬼は哀しい生き物だと言って、哀れんでいた。
優しすぎる姉さん。いくら鬼が元は人とは言え、人を喰らう化け物に同情なんて必要ないのに。
それでも、姉さんがそうしていたのなら、私は憎い鬼にさえ手を差し伸べよう。
カナエ姉さんの死をきっかけに、私は変わった。姉さんのように振る舞う度に妹たちは悲しそうな顔をしていたけれど、私はそれに気付かないふりをし続けた。
悲鳴嶼さんやお館様、以前の私を知る人たちからは哀れんだ目を向けられた。
それでも、やめなかった。私はカナエ姉さんのようになりたかった。
そうしなければ、そう振舞わないと、生きていけなかった。それほどまでに辛かった。それほどまでに、苦しかった。
私は毒の研究を続けた。より強く、より強力な毒を作るために。上弦の鬼や鬼舞辻にはまだまだ届かない。
何度も何度も、実践で鬼に試す。口では鬼と仲良くしましょうなんてほざきながら。

『――やった。できたわ!この毒なら百人喰った鬼でさえ殺せる!もしかしたら、下弦の鬼にも効くかもしれない!やっと!やっとよ!』

姉さんを失ってから、二年が経った。
十四歳だった私は十六歳になった。その頃には沢山の鬼を倒し、下弦の鬼でさえも倒せるまでに私は強くなっていた。
そしてその年、私は柱に就任した。私が独自に編み出した蟲の呼吸から、蟲柱と呼ばれるようになった。
その頃から、私は自身に毒を取り込む実験を始めた。
己の体を何よりも強力な毒にするために。毎日毎日、藤の花の毒を体に接収した。
最初の頃は本当に大変で、嘔吐や目眩、吐血など、様々な異常が身体に現れた。
妹たちに悟られないように隠し続けながら、それでも決してやめようとは思わなかった。
日に日に青白くなる頬を隠すために、白粉を塗るようになったし、何度も倒れそうになって妹たちを心配させてしまった。
それでも一年以上経つと、身体に馴染んでくる。
私の身体は、確実に毒に蝕まれている。それが今後どんな風に影響するかは分からない。

『今はまだ難しいだろうか、いつかは忘れられる。普通の娘として幸せに生きろ。好いた男と結婚し、子を産み、しわくちゃになるまで生きるんだ。』

ごめんなさい悲鳴嶼さん。

『普通の女の子の幸せを手に入れて。お婆ちゃんになるまで生きて欲しいのよ。』

ごめんなさい姉さん。

嘗て二人に言われた言葉が脳裏に過ぎる。
ごめんなさい。きっと私は二人の望んだような幸せは得られない。そんな幸せは望まない。
私はもう、きっと子供を望めない。仮に産めるとしても、こんな毒に蝕まれた身体では絶対に健康な子供は産んであげられない。
だから、普通の女としての幸せは捨てるね。
ごめんね姉さん。私は、姉さんの復讐が遂げられるなら、自分の命だって惜しくはないの。
でも大丈夫。大丈夫よ。私はちゃんと幸せだから。本当に、幸せよ?


*****


――更に二年が経過した。
私は十八になり、いつの間にか姉さんの歳を超えていた。

『人も鬼もみんな仲良くすればいいのに。冨岡さんもそう思いません?』
『無理な話だ。鬼が人を喰らう限りは。』

ええ、本当にそう思いますよ。
私は嘘つきだ。本当はそんなことちっとも思ってない。

『待って!待ってお願い!私は無理矢理従わされてるの!助けて!逆らったら体に巻き付いている糸でバラバラに刻まれる!』

鬼も嘘つきだ。目の前の鬼は八十人以上は食べている。それなのにそんな嘘をつく。
明らかに自分の保身のための嘘だ。それが分かっていても、鬼が助けてと言うのなら手を差し伸べる。

『人を殺した分だけ、私がお嬢さんを拷問します。その痛み、苦しみを耐え抜いた時、貴女の罪は許される。』

人の命を奪っておいて、なんの罪もなく許されていい筈がない。
だから一度だけ機会をあげましょう。
まあ、拷問するなんて言われて、応じた鬼なんて今まで一人もいませんでしたけどね。
私はそれが分かっていて、命乞いをしてきた鬼にそう提案する。そして結局は殺してしまうんだ。
私は姉さんと違って性格が悪いのでしょうね。どうしても鬼を許せない。
姉さんのように振舞おうとしても、それだけはどうしても変えられなかった。
ごめんなさい姉さん。私はやっぱり姉さんみたいにはなれないみたい。

「いいの。そんなことはいいのよしのぶ。」

カナエが苦しそうに呟く。
その言葉がしのぶに届くことはないと分かっていても、言わずにはいられないのだろう。
カナエを通して見たしのぶの過去は、想像以上に過酷で、悲痛なものだった。
辛いなんて言葉じゃ簡単に言い表せない。
もしもこれがカナエの見せたただの幻覚で、嘘の記憶なのだとしたら、タチが悪すぎる。
けれどもしもこれが本当にしのぶの過去なのだとしたら、色々と納得ができた。
しのぶは呪力量が少ない代わりに、身体能力がとても優れていた。
天与呪縛でもないのにその人間離れした身体能力は、僕よりも優れているものがあった。
誰よりも速く、誰よりも身軽に動けるしのぶは、その身体能力の高さと毒という特殊な術式のお陰で、あっという間に準一級にまで上り詰めた。
ずっとずっとその強さが疑問だったけれど、しのぶは呼吸を使っていたんだな。
しのぶが幼い頃から妙に大人びていたのも、一度成人に近い歳まで生きた記憶があったからなんだろう。
泣いたところを見たことがないのも、いつも笑顔だったのも、全部この世界でしのぶが生きてきた上で経験してきたことが影響していたんだ。
蝶の髪飾りを見て、あんなに泣きそうな顔をしていたのは、姉を、カナエを思い出して辛かったからなのか?それとも、この世界を懐かしんでいたのだろうか。……その答えをもう知ることは出来ない。
しのぶ、本当のお前はあんな風に笑うんだな。本当はもっと怒りっぽくて、結構負けず嫌いだったんだな。
僕が知っているしのぶは、ほんの一部でしかないんだ。
僕は悔しかった。思い出の中のしのぶは、いつも貼り付けたような笑顔を浮かべていた。
それは僕に本心を見せていなかったってことだ。心を許していなかったってことだ。
少しは信頼してくれてたかもしれない。だけど結局、僕はしのぶにとって支えにはならなかったんだ。この世界の家族の方がきっと、しのぶにとっては大切だったんだ。
そう思うと、悔しくて、悲しくて、ムカついた。
僕と同じ世界でしのぶは、何を思って生きていたんだろう。きっと幸せじゃなかった。
それだけは確かだと思う。僕だけじゃ、しのぶの生きる理由にはならなかった。
もっとあいつを困らせればよかった。そうすれば、嫌でも僕のことを気にかけてくれる。
いっそしのぶを傷つけて、泣かせてやればよかった。
たとえ嫌われることになっても、一度くらいあいつを本気で泣かせてやりたかった。
そうすればきっと、あいつの中で僕は忘れられない存在になれた。
もっと一緒にいればよかった。もっと一緒にいたかった。
こんな過去を抱えているって知っていたら、もっとしてやれることがあったかもしれない。
しのぶは前世からずっと、苦しんできただけなのか。幸せになれなったのか。
そう思うと、悔しくて悔しくて、苛立ってしょうがなかった。

『――それでも。私にも救いがあったの。』

まるで僕の問いに答えるように、しのぶの声が聞こえた。
ハッとして顔を上げると、また場面は変わっていく。

『俺は……俺と禰豆子は鬼舞辻無惨を倒します!!俺と禰豆子が必ず!!悲しみの連鎖を断ち切る刃を振るう!!』

炭治郎くん、私は君のその決意を不可能だと思っていました。柱でもない君には、鬼舞辻はおろか上弦の鬼だって倒せはしないと。
家族を鬼舞辻に殺され、唯一生き残った妹は鬼にされた。
柱の多くが禰豆子さんの処分を望んでいました。私もその一人だった。
それでも君は最後まで禰豆子さんを人間に戻すと諦めなかった。
全集中“常中”の訓練も泣き言一つ言わずにがんばって、一番最初に習得した。
炭治郎くんと話しをするのはとても楽しかった。優しい彼は、どこか姉さんに似ていて、まるで姉さんと話しているように安心したし、穏やかな気持ちになれた。
感情に乏しかったカナヲも、炭治郎くんのお陰で少しずつ自分を出せるようになってきた。
君は不思議な人ですね。気付けばみんながあなたと禰豆子さんを認めていて、あなたたち兄妹の幸せを願うようになっていた。
あの夜、君に願いを託せてよかった。限界だった私の心に、少しだけ安らぎをくれたのは、間違いなく君の存在でした。
初めて会った時、新米隊士でしかなかった炭治郎くんが、下弦の壱を倒し、ついには上弦の鬼すらも倒せるようになった。
君は本当にすごい人です。そんな君の妹だから、禰豆子さんも鬼になっても人を襲わないでいられたのかもしれませんね。
禰豆子さんが唯一の陽の光を克服した鬼になって、決戦が近づいているとお館様に告げられたのは間もなくのことで、私は毒の完成を急がなくてはならずに焦っていた。
お館様が最初に、鬼の珠世さんとの共同での薬の研究を助言してきた時、私は正直とても嫌だった。
珠世という鬼が鬼舞辻を倒すことに協力的な鬼だったとしても、鬼と協力するなんて……
以前の私なら、迷わずに断っていたかもしれない。けれど、脳裏に禰豆子さんがちらついた。禰豆子さんは鬼になっても、とても優しい子だった。
鬼になった副作用で幼い思考になっていたけれど、それでも素直で可愛らしい子だった。
鬼だからといって、一括りに判断してはいけないと教えてくれたのは、間違いなく炭治郎と禰豆子さんでした。
だから私は珠世さんとの共同研究を受け入れた。実際に彼女に会って、どんな人なのか知りたくなった。
彼女の薬学の知識は私なんて及ばないくらい凄かった。正直、珠世さんがいなければ毒は完成しなかった。


*****


それからまた怒涛のような記憶が流れていく。
お館様と呼ばれる男の屋敷が鬼の始祖に襲撃され、柱と他の隊士たちが総勢で最後の決戦へと挑んでいく。その中に、当然しのぶもいた。

『やあやあ、初めまして。俺の名前は童磨。いい夜だねぇ』

カナエを殺した上弦の弐との戦い。
それはしのぶがずっとずっと待ち望んでいたことだった。
何度も何度も、毒の刃を鬼に打ち込んでいく。
それでも鬼はすぐに毒を分解して、溶けた体をすぐに再生させてしまう。
それに対して、しのぶはどんどん息が上がっていく。
上弦の弐の血鬼術は冷気だった。だから呼吸をするだけで肺を壊死させてしまう。
長時間の戦いはしのぶにとって圧倒的に不利だった。

(連撃で大量の毒を打ち込む……蟲の呼吸、蜻蛉の舞、複眼六角!)
『いやぁ君、本当に速いね!今まで会った柱の中で一番かも!』

そう言って驚いた表情を浮かべる童磨。けれど次の瞬間、しのぶの体から大量の血飛沫が上がる。

(斬ら……れた…!!)

ふらりとしのぶの体がよろめき、膝をついた。
それを童磨は哀れみの目で見つめる。

『毒じゃなく頸を斬れたら良かったのにねぇ』

うるさい

『それだけ速かったら勝てたかも。あーー無理かぁ!君、小さいからァ!』

ボタボタと大量の血が、斬られたところから滴り落ちる。
うるさい。うるさいうるさい!
お前の声なんて耳障りだ!笑うな!喋るな!
嗚呼、なんで私の手はこんなに小さいのかなぁ。
なんでもっと身長が伸びなかったのかなぁ。
あとほんの少しでも体が大きかったら、鬼の頸を斬って倒せたのかなぁ。

『しのぶ、鬼殺隊を辞めなさい。貴女は頑張っているけれど、本当に頑張っているけれど。多分しのぶは…………』

姉さんがあの時、言おうとした言葉を、私は知っている。
『多分、しのぶはあの鬼に負ける』そう言おうとして、やめてくれたんだよね。

「しっかりしなさい。泣くことは許しません。」
「おい!」

目の前で血を流し、傷だらけになっていく妹を前に、カナエは無慈悲な言葉を吐く。
カナエにとってしのぶは大切な妹の筈だ。そしてしのぶの記憶を通して知ったカナエは妹に優しかった筈だ。
それなのに、カナエは淡々と口にする。

「立ちなさい、しのぶ。」
「……くそっ!」

これは過去の記憶だ。だからこれは既に起こったこと。それでも、ボロボロになっていくしのぶを見ていられなかった。
あの童磨とかいう鬼に、激しい殺意が湧く。
僕がこの場にいたのなら、こんな奴一瞬で殺してやれたのに、それが出来ないのがこんなにももどかしい。

『――姉さん……』

その時、しのぶが顔を上げてこちらを見たような気がした。
僕を……いや、カナエを見ていた。
まるでカナエの声が聞こえたように、しのぶの心の声が響く。

『立てない、出血で。左の肺もざっくり斬られて、息もできないの。』
「関係ありません。立ちなさい。蟲柱、胡蝶しのぶ。」

それはまるで、会話をしているようだった。
これは飽くまでも記憶の中の出来事のはずなのに、今この瞬間、カナエの言葉は確かにしのぶに届いていた。

「倒すと決めたなら倒しなさい。勝つと決めたのなら勝ちなさい。どんな犠牲を払っても勝つ。私とも、カナヲとも約束したでしょう。」
『カナヲ……』

それでも立てないしのぶに、カナエはそっと跪いて彼女の肩に触れる。
目に涙を浮かべて、願うようにその言葉を紡ぐ。

「しのぶならちゃんとやれる。頑張って。」
『……っ』

その言葉に、しのぶの目に再び光が宿った。
よろよろとふらつきながら、しのぶは立ち上がる。
それに童磨はきょとりと目を丸くした。

『えっ、立つの?立っちゃうの?えーー……』

肺が傷ついて、呼吸するのも苦しい。痛みで気絶しそうになるのをぐっと耐える。冷や汗がどっと溢れ出た。
それでも、しっかりと立って振り返る。
肺も鎖骨も、肋も斬られた。血もいっぱい出た。
きっともう助からない。私はもうすぐ死ぬ。だけど、まだ戦える。
狙うなら、やっぱり急所の頸。頸に直接毒を叩き込めば、勝機はある。

『蟲の呼吸、蜈蚣の舞い、百足蛇腹!』

足に力を入れて、一気に踏み出す。
四方八方にうねるように動き、相手を惑わしつつ一気に間合いを詰める。
素早く童磨の懐に入り込むと、相手も扇を振り下ろしてきた。
それを身を低くしゃがむことでかわす。そのまま勢いよく、奴の頸目掛けて強烈な突きを繰り出した。
突きの勢いで童磨の体が宙に浮き、そのまま天井に突き刺さる。
私の刀が奴の頸を突いた瞬間、大量の毒が打ち込まれた。それなのに……

――力が弱くても、鬼の頸が斬れなくても、鬼を一体倒せば、何十人。
倒すのが上弦だったら、何百人もの人を助けられる。
できるできないじゃない。やらなきゃならないことがある。

『――怒っていますか?』

いつだったか、炭治郎くんに言われた言葉。
そう。私、怒ってるんですよ。炭治郎くん。
ずっと、ずーーっと、怒ってますよ。
親を殺された。
姉を殺された。
カナヲ以外の継子も殺された。
アオイたちだって、本当なら今も、鬼に身内を殺されてなければ今も。家族と幸せに暮らしていた。
ほんと、頭にくる。ふざけんな馬鹿。
なんで毒効かないのよ、コイツ。馬鹿野郎。

上弦の弐は、笑っていた。私の命懸けの一撃を受けて。
腹立たしいくらいに強い。私じゃ、どう足掻いても勝てないと思い知る。
奴が私の身体をぎゅうっと抱き締める。触んなクソが。

『偉い!!頑張ったね!!俺は感動したよ!!こんなか弱い女の子がここまでやれるなんて!!姉さんより才もないのに、よく鬼狩りをやってこれたよ!!全部全部無駄だというのに、やり抜く愚かさ!!これが人間の儚さ!!人間の素晴らしさなんだよ!!君は俺が喰うに相応しい人だ!!永遠を共に生きよう!!言い残すことはあるかい?聞いてあげる!!』

涙を流しながらそう叫ぶこの鬼に、心底腹が立った。
コイツは、どこまで人を馬鹿にするのか。
ギリっと歯をくいしばる。口の中で血の味がした。

『地獄に堕ちろ』

最期の最期まで、私は何も出来なかった。ごめんなさい姉さん、勝てなかった。
けれど大丈夫。私の意志は託せたから。

『師範!!』

背後でカナヲの声がした。間に合った。来てくれた。
私の実力ではどうあってもコイツには勝てない。だけど、私にはもう一つだけできることがある。
指文字でカナヲに指示を送る。その瞬間、私は尋常ではない力で抱き締められ、全身の骨を砕かれた。
意識が飛ぶ。奴の身体に私の体がどんどん吸収されていく。
気持ち悪い。だけどこれでいい。
私自身が毒になる。お願いカナヲ。必ず鬼を弱らせるから、どうかコイツの頸を斬ってとどめを刺してね。
最後の最後まで心配かけてごめんなさい。だけどどうか、私の意志を受け継いで。

「――しのぶの記憶はここまでよ。この後、しのぶはあなたの世界に転生した。」
「…………」

言葉にならなかった。あまりにもその人生は儚く、脆く、短すぎた。
転生した後のしのぶの人生を僕は知っている。ずっと一緒にいたから。ずっと見てきたから。
前世でもこんな悲惨な最期を遂げたのに、生まれ変わった先で、親に売られ、また呪術師という命懸けのクソみたいな世界にいなければならなかったしのぶ。
転生した先でもまた戦って戦って、最期は呪霊に殺された。
前世では鬼に殺されて、生まれ変わっても呪霊に殺される。
こんなの、あんまりだ。悲惨すぎる。
人の死には嫌という程慣れていた僕でさえ、こんなのは耐えられそうにない。
それでも、しのぶはずっと笑顔だった。馬鹿ばっかりやってた僕をいつも叱ってくれたのも、傍にいてくれたのもしのぶだった。
何も知らなかった。なんで言ってくれなかったんだよ。
違う。言えなかったんだ。
そりゃあ、言えないよな。前世の記憶がありますなんて、普通は頭おかしーんじゃないかって思う。
なんでもっとあいつを知ろうとしなかったんだろ。今更後悔しても、もう遅い。
しのぶは死んだ。もうどこにもいない。それが現実だった。

「……なんで僕にこんなものを見せた?」

どうしようもない、モヤモヤとした不快な感情が胸をくすぶる。
もうどうにもならないのなら、こんな過去知りたくなかった。
今更こんな過去を見せられても、しのぶはもういないんだから。
僕が半場八つ当たりでカナエを睨みつけると、彼女はすっと目を細めた。

「知っていて欲しかったの。あの子の……しのぶの苦しみを。」
「どうして僕なわけ?」
「あなたがこの世界で一番、しのぶの近くにいたから……かしらね。」
「あっ?」
「しのぶのことをずっと大切に想ってくれていた。忘れないように必死になってくれた。そんなあなたに私の姿が見えたのは、何かの運命かと思ったの。」
「だからってこんなの見せられたって、僕にはどうにも出来ないよ。」
「そうね。しのぶはもういない。」
「……」
「あの子はね、何処にも行くことができないの。私と同じところにも、また生まれ変わることも出来ずにいる。」
「それ、どういう意味?」
「もう、時間ね。」
「はっ?ちょっと待っ…!」

ふっと、意識が急激にまた遠くなっていく気がした。
冗談じゃない。そんな意味深げな言葉を残されてこのまま気を失うなんてごめんだ。
だけど僕の意識はどんどん深く、眠りへと誘われていった。

「五条悟さん。あの子は――――よ。だから――――ね。」

最後にカナエが何かを言っていた気がするけれど、深い眠りに入った僕には聞き取れなかった。
だけどその笑顔は、しのぶに似てとても穏やかで、優しいものだった。


*****


「――っ!」

意識が浮上して、僕は飛び上がるように起き上がった。
見知らぬ天井に、ここが知らない場所だと理解する。

「……あったまいてぇ……何処だここ?」

あんな経験したからか、起きたら鈍い頭痛がした。
思わず頭を押さえて顔をしかめる。
こつりと、空いている手でベッドを撫でると、何かに触れた感触がした。

「……あっ?ガラケー?」

それは見覚えのある物だった。十年前に僕が使ってた機種と同じ物だ。
何でこんな物が?なんとなく興味を引かれて、それを手に取る。
ガラケーなんてだいぶ懐かしい。二つに折られたそれを片手で開くと、ディスプレイを見て僕は固まった。

「……はっ?」

思わず息を飲んだ。
ディスプレイには、「2006年、✕月✕日、1:56」と表示されていた。

- 8 -
TOP