第8話

画面に表示された、「2006年、✕月✕日」文字。何度見返しても、それは変わらなかった。
どういう事だ?この日は、"あの日"だ。
僕が、僕たちが星漿体である天内の護衛をしていた日。冷や汗がどっと噴き出す。
まさか、まさかまさかまさか!

「時間が……戻った?」

そんな漫画やラノベの主人公みたいなこと、本当に起こるのだろうか?
頭が理解しようとして、追いつかない。心がざわつく。ドクンドクンと、心臓の音がやけに大きく聞こえる。
咄嗟に首元に触れる。どんな時も肌身離さずに身につけていたしのぶのネックレスの感触がない。
僕は慌ててベッドから立ち上がると、急いで洗面台に向かった。
洗面台に備え付けられている大きな鏡の前に立って、絶句した。
鏡に映った自分の姿は記憶の中の自分よりも少し幼くなり、明らかに若返っていた。
そして窓の方へと目を向ける。窓から見える景色はまだ夜明け前で暗いが、見えすぎる僕には波打つ海がよく見えた。恐らく此処は沖縄だろう。

「ははっ、確定。……やってくれたねカナエ。」

乾いた笑みが口から漏れ出す。あの穏やかに微笑む彼女が、にっこりと少し悪戯っぽく笑う姿が脳裏に浮かんだ気がした。
それにしても、まさかしのぶの墓参りに行って、過去に戻ることになるとは……ん?待てよ。
はたと気付く。ここが本当に過去で、今が天内の護衛をしていた日なのだしたら……

(しのぶ……)

真っ先に脳裏をよぎったのは、親友の姿ではなく、愛しい婚約者の姿。
この頃なら、まだしのぶは生きている。そう思ったら、じっとなんてしていられなかった。
確認しなければ。しのぶに会いたい。
そんな気持ちから、衝動的に僕は部屋を飛び出した。


*****


真っ暗な空間にぽつんと立っている。ここには何もない。誰もいない。いるのは私一人だけ。
ここは何処なんだろう。天国?それとも地獄?
まあなんにせよ、私が死んだことは間違いないだろう。
死ぬ時はあれだけ痛かったのに、今は何も感じない。あれだけ流した血の跡も無く、折られた筈の肋も治っている。
寒さも暑さも感じない。本当に、何も感じないのだ。

「……死んだら姉さんに会えると思っていたけど、そうでもないのね。」

死後の世界がどんなものかなんて分からない。二度も転生しているくせに、死んだ後のことは何も覚えていないのだ。
ここが天国にしろ地獄にしろ、死んだら姉さんに会えると思っていた。
それなのに、ここはただ真っ暗で、寂しい場所だ。
私、なにをやっていたのかしら。
鬼滅の世界でも、呪の世界でも、私は何も残せなかった。
私があの世界の知識を取り戻したのは、いつも死ぬ直前になってからで、せめて、もっと早く記憶が戻っていれば何か変えられたかもしれない。誰かを救えたかもしれない。
私の人生って、何だったのかしら。鬼を恨んで、呪霊を恨んで、ただ奪われて奪われて、恨んで、理不尽な世界を呪っただけだ。
もう疲れた。もう何もかも忘れて眠りたい。

「だけどせめて、最後に姉さんに会いたかったな……」
「ちゃんとここに居るわよ。」

消えてしまう前に、せめて一目でも姉さんに会いたかった。そう心からの願いを口にした。
すると、とても懐かしい声と共に、ふわりと包み込みように背中から抱き締められた。
――穏やかで優しいこの声を、春の花のような匂いを、陽だまりのように温かなぬくもりを、私は知っている。
それが誰かなんて、振り返らなくても分かる。じわりと、涙が自然に溢れてきた。

「ねえ、さん……!」
「しのぶ。」

その声を聞いたら、もうダメだった。我慢なんてできなかった。
今まで取り繕っていた笑顔の仮面が、ボロボロと音を立てて崩れていく。心が、あの頃に返っていく。
だって、ずっと、ずーと会いたかったの。
姉さんを失ってから、ずっと泣かないように我慢してきた。強くあろうと頑張った。
呪の世界に転生した後も、片時も姉さんたちのことを忘れたことなんてなかった。
大正時代よりもずっとずっと豊かで平和な世界。だけど姉さんや妹たちはいなくて、私だけが残されて。
美味しいものを食べた時は姉さんにも食べさせてあげたい。綺麗なものを見つけた時には、姉さんにも見せてあげたい。いつだって、姉さんのことが頭をよぎった。
寂しくて寂しくて、すごく辛かったの。どんなに信頼できる仲間に恵まれても、大切に想ってくれる人が側にいても、私は寂しかったの。
コップいっぱいに溜まった水が零れ落ちるように、止めどなく涙が溢れ出す。
私は姉さんに抱き着いて、子供のように泣きじゃくっていた。
そんな私を、姉さんは優しく抱き締めて受け入れてくれた。幼い頃のように頭を撫でられて、私はまた泣いてしまった。

「姉さん!姉さん姉さん!」
「ええ、ここにいるわ、しのぶ。」
「カナエ……姉さん……っ!」

姉さんは私が落ち着くまで、ずっと頭を撫でてくれた。本当に久しぶりに姉さんの温もりに包まれて、私はずっと我慢していた感情を吐き出すように、姉さんの名を呼び続けていた。


******


「――落ち着いたかしら?」
「ええ、取り乱してごめんなさい。姉さん。」
「いいのよ。しのぶはかわいいかわいい妹なんだから。」
「もう、姉さんたら……」

にこにこと笑顔で私の頭をまた撫でる姉さんに、私は頬を赤く染めて目を細めた。
懐かしいやり取りに、またじわりと涙が目尻に浮かぶ。そんな私を姉さんは愛おしげに見つめた。
姉さんの細い指が私の目尻に触れて、涙をそっと拭ってくれた。

「しのぶは泣き虫になったわね。」
「姉さんの前でだけよ!」
「ふふ、それは嬉しいけど、本当に私だけなの?」
「……どういう意味?」
「しのぶは、好いた男の人はいないのかしら?」
「姉さんたら、なんの冗談?」

私が姉さんにしては珍しい話題を出してくるなと怪訝に思っていると、姉さんは「あの長身の白髪の人とかはどうなのかしら?」と尋ねてきた。
白髪の長身?私の身近で姉さんの知っている人……

「宇髄さんにはちゃんした奥さんがいるわよ。それも三人も。姉さんも知っているでしょう?」
「あらあら、違うわ。しのぶには五条さんという素敵な人がいるでしょう?お姉ちゃん知ってるのよ。」
「……悟くん?」

何故そこで悟くんの名前が出てくるのか分からなかった。
確かに私と悟くんは婚約者ではあったけれど、別に想い合っているわけでもないのに。
悟くんが私を好きだったのだと最近になって知ったけれど、それでも私たちは恋人ではない。
悟くんから直接好きだと言われたこともない。だから私は彼の気持ちに答えることもしていない。
キスされたり、抱き締められたり、過度なスキンシップはあったけれど、それでも、私は悟くんに対して恋慕の情はないのだ。
というか姉さん、何で悟くんのこと知ってるの?
えっ?ずっと見守ってた?だったら私の前に出てきてくれたっていいじゃない!
幽霊だから気付いてもらえなかった?そんな、私何で姉さんのこと見えなかったの?私の目って節穴なのかしら。
でも姉さんずっと傍に居てくれたのね。えっ、悟くんとはどうなのかって?どうしてそこまで悟くんの話を聞きたがるの姉さん。

「悟くんは違うわ。確かに、婚約者ではあったけれど……」
「でも彼はしのぶのことが好きよ。」
「それは……」
「しのぶは?貴女は彼のことが好きではないの?」
「私に恋愛する余裕なんて無かったわよ。姉さん。」
「そうね。でも、本当にそうなのかしら?」
「?」

姉さんが私に何を言わせたいのか、まったく分からない。
どうしてそんなに悟くんの話をしたがるのかしら。

「姉さん、私に何を言いたいの?私は悟くんに対して恋愛感情はないのよ。悟くんの私への感情だって、きっとずっと一緒にいた異性が私だけだったから、きっと刷り込みのようなもので、本当の恋ではないわ。」

そうだ。きっとそうに決まってる。
五条家の跡取り息子であり、生まれながらの六眼の持ち主で相伝の術式を継いだ彼は、その持って生まれた才能と環境のせいで敵が多かった。
幼い頃から命を狙われ、信頼できる味方が少なかった。そんな彼の傍にずっといた私は、彼が心を許せる数少ない味方の一人であったと思う。
私は彼の境遇に同情したし、味方でいようと彼と共にいた。そんな私のことを、悟くんは確かに大切にしてくれた。
高専に入って、夏油先輩や家入先輩のような仲間が出来るまでは、私がきっと一番悟くんの近くにいた。
だから彼は私を好きだと思ったのだと思う。家でも中々信頼できる者がいない中で、唯一心を許している私が女だったから、悟くんは私を異性として好きだと勘違いしただけだ。
私がそう言うと、姉さんは真剣な顔で首を横に振って否定した。

「それは違うわしのぶ。貴女が彼の気持ちを否定してはダメ。」
「姉さん?」

カナエ姉さんは少しだけ悲しげな顔をすると、コツンと私の額に自分の額をくっつけた。
すると頭の中に映像のようなものが流れてくる。これは……何?
私と灰原くんの遺体を前に、茫然と立ち尽く悟くん。
任務に行く前に悟くん宛に書いた私の遺書を読んで涙を流す悟くん。
任務で忙しいのに、ちょくちょく私の墓参りに来る悟くん。
私の残したネックレスを、愛おしげに見つめる悟くん。
これは……私がいなくなった後の、悟くんの記憶?

「やあしのぶ、今日は君が死んで1年目になるね。そっちでは元気にしてる?」

「聞いてよしのぶ、今日上のクソジジイ共がさ〜」

「しのぶ久しぶり、ちょっと遅くなってごめんね。今日は報告があってね、僕が高専の教師になったんだ。」

「しのぶ、君がいないとつまらないよ。」

「――今日、傑が死んだよ。僕が殺した。」

「しのぶ、君に逢いたいな。」

「しのぶ。」

「しのぶ。」

沢山の声が、想いが、私の中に流れてくる。
これは悟くんの10年間の記憶?……いいえ違う。これは、悟くんの私への想いだ。
10年もの間、私に向けてくれた、彼の私を想う心。

こんな、こんなの知らない。知らなかったの。

だって、言われ事なんてなかったの。好きだとか、愛してるとか。付き合おうとか、そんな愛の言葉を私たちは交わしたことは無い。
ずっとずっと、婚約者は形だけの肩書きだと思っていたから。
悟くんにこんなに思われていたなんて、ちっとも知らなかったの。
ううん、違う。私が……知ろうとしなかったの。
きっと悟くんは不器用ながらも伝えようとしてくれてた。それでも、私は姉さんばかり見ていて、気付こうともしなかった。
彼の気持ちを知った後も、ずっとその気持ちから逃げていた。
私には誰かを好きになるなんて無理だと思っていたから。応えることのできない気持ちから逃げるために、悟くんに迫られても、私はずっとその気持ちを無視していた。
きっとそのせいで悟くんを傷つけた。知らないうちに、いっぱり悟くんを傷つけてた。
ごめんなさい悟くん。ごめんね。
あなたがこんなに私を想ってくれてたなんて、全然知らなかったの。
ポタポタと、涙が溢れ出す。頬をつたって零れ落ちる雫を、私は拭うこともできずにいた。
くしゃりと顔を歪めて泣く私の体を、姉さんは落ち着かせるように抱き締める。

「姉さん、どうしよう。私……知らなかったの。」
「うん。」
「こんなに想われてたなんて、ちっとも思わなかったの。」
「うん。」
「きっと、彼の気まぐれなんだろうって勝手に彼の心を決めつけて、彼の心を傷つけた。」
「うん。」
「私、私、何もできないまま、死んじゃった。」
「……しのぶ。」

姉さんが、ぎゅうっと抱き締める腕の力を強くした。

「しのぶは……彼が好きだった?」
「分からないの。私、誰かをそういう風に好きになったこと……多分ない。」
「そう。じゃあもし、彼がしのぶ以外の人と幸せになっても、心から祝福できる?」
「それは……」
「よーく、考えてみて?」

姉さんに言われて、考えてみる。
悟くんが私以外の女の人と幸せになる。悟くんの隣に、私以外の女の人が立つ。
……少しだけ、もやっとした。だけどこれが恋心なのかと言われても、やっぱり分からない。
私が何も答えられずにいると、姉さんが困ったように苦笑した。

「私ね、しのぶが死んじゃった後も、彼のことを見守ってたの。五条さんね、しのぶがいなくなった後はすごく荒れてしまって、色んな女性とお付き合いしてたみたい。」
「え……っ」
「しのぶがいるのに、酷いわって、すごく頭にきたわ。」
「しのぶのことを想いながら、複数の女性と付き合ったりしてる彼は、正直お姉ちゃんとしては好きになれなかったの。」
「……複数の女性と……悟くんが。」

姉さんの言葉に、さっきまでの感動と罪悪感が一気に冷めていく気がした。
ああ、そっか。彼は別に私でなくてもいいのか。
女性なら、誰でも……なんだろうこれは。心の奥底から湧き上がるこの怒りは。悲しいのを通り越して、殺意が湧いてくる。
鬼相手にだって、こんな感情は湧いてこなかった。
恨みや憎しみとは違う感情。悟くんに対して、こんなに殴ってやりたいと思ったのは初めてだ。
私今は、どんな顔をしているのか分からない。それでも、姉さんは私を見て、微笑んだ。

「……嫉妬した?」
「……っ、姉さん!」
「それが答えじゃないかしら?」

姉さんがそう言いながら、私の頬に触れた。目元をすっと姉さんの細い指が撫でる。
そこで私はまた自分が泣いていることに気付いた。
さっきまで泣いていたせいだと思ったけれど、私の頬は今も涙が流れている。
ああもうこれは、認めるしかないのかな。
嫉妬した。どうしようもなく。悟くんはとてもモテる。その端麗な容姿は男女関係なく引き寄せる。
彼が女性に声かけられることは何度もあったし、何度も見てきた。
それでも悟くんはいつもそれを鬱陶しそうに追い払っていた。そしていつも、私と居ようとしてくれていた。
だから気付けなかった。それが当たり前のように思ってしまっていたから。悟くんはずっとずっと昔から、私を選んでくれていたのに。
私が死んだ今、きっといつかは別の女性が隣に立つ日が来るのだろう。
最初は、素直に彼の幸せを祝福していた。なのに、どういう訳か、姉さんに彼が私亡き後、女遊びが酷くなったと聞いて、激しい怒りが湧き上がってきた。
これは嫉妬だ。悟くんが私以外の女性を選んだという事実に、嫉妬した。
それと同時に、私でなくてもいいのかと酷く寂しいと感じてしまった。
こんなの、こんなのもう、完全に好きになってるじゃないか。
この感情が恋ではないのなら、私はきっと一生恋なんて知らない。

「あらあら、しのぶ、顔真っ赤よ。」
「……言わないで。」

自覚した瞬間に、顔に熱が集まっていくのを感じた。
色んな感情が渦巻いて、自分の顔が耳まで赤くなっていたことに姉さんに指摘されるまで分からなかった。
赤くなった顔を隠すように、私は両手で顔を覆う。
どうして、今更自覚しちゃうのかな。
どうして、私はいつも死んでから後悔ばかりするんだろう。
せめて、せめてもっと早くこの気持ちを自覚していたら、伝えるくらいはできたのかな。私の気持ちを。
私も、悟くんが好きだったってこと。
どうして遺書に書かなかったんだろう。あの時は自覚してなったけれど、嘘でも好きだったくらい書いておけば良かった。
そしたら、せめて私の気持ちは伝えられたのに……
馬鹿なぁ、本当に。
もっとちゃんと、彼と向き合ってあげれば良かったなぁ……

死ぬ直前に、最期の瞬間に悟くんの顔が浮かんだのが、きっと答えだったのだ。
私はちゃんと、悟くんが好きだったのね。

ポタリと、また頬を一雫の涙がつたう。
優しい声で姉さんが「しのぶ」と私の名前を呼んだ。ふと顔を上げると、姉さんの体が透け始めて、私は焦ったように叫んだ。

「姉さん!?体が!」
「あらあら、もう時間なのね。そろそろいかないと。」
「待って姉さん!私も、私も一緒に……」

「連れていって」そう口にしようとした私の言葉を遮るように、カナエ姉さんは私の唇に人差し指をそっと当てた。

「ダメよ。しのぶはまだこっちに来ちゃダメ。」
「どうして?私も姉さんと同じ所にいきたい!私頑張ったわ!何も残せなかったけど、それでも……精一杯生きたの!」
「ええ、分かってる。しのぶはもう十分がんばったわ。」
「だったら、お願い姉さん!」
「しのぶは……本当にそれでいいの?」
「え?」
「後悔しない?」

姉さんが何を言いたいのか分からなくて、言葉に詰まる。
どうしてそんなことを言うの?私、もう独りは嫌なの。
折角姉さんに会えたのに、またお別れなんて絶対に嫌。
姉さんと同じ所に行けるのに、後悔なんてする筈ない。どうして、そんな事を訊くの?
私が目に涙をためてイヤイヤと子供のように首を横に振ると、姉さんは悲しげに目を細めた。

「ねぇしのぶ。もしもまた、五条さんに会えるとしたら、どうする?」
「そんなこと……」
「できるわ。しのぶが望みさえすれば。」
「……本当に?」
「ええ、だからよく考えて。私と一緒にいくか。五条さんの元へ帰るか。……しのぶの望みは何?」
「私の……」

姉さんの言っていることは理解できる。でも、本当にそんなこと可能なんだろうか。
私はもう死んでしまっているのに、また悟くんに会えるの?
死んでいるのなら、このまま姉さんと一緒に、同じ所へ行って眠りたい。
ても、もしも本当に叶うなら、一つだけ心残りがある。
姉さんはそんな私の心を見透かしたように、ふわりも柔らかく微笑んだ。

「伝えたいこと、あるんでしょう?」
「……うん。」
「だったら、伝えに行かないとね。」
「うん。」
「いってらっしゃいしのぶ。もう一度だけ、がんばって。」
「姉さん、でも私、まだ姉さんと……」

離れたくない。やっと会えたのに。まだまだ、話したいこともあるのに。
私の言いたいことが分かったのか、姉さんはまた微笑んだ。その慈愛に満ちた笑顔に、また涙が込み上げてくる。

「ねえしのぶ。私にはね、どうしても叶えたい願いがあるの。覚えてる?しのぶが好きな人と添い遂げて、赤ちゃんを産んで、シワシワのおばあちゃんになって、幸せな最期を迎えるの。そんなしのぶの姿が見たい。」
「もちろん覚えてるわ、姉さん。」
「それでね、ちゃんと一生を生きたしのぶとまた再会したい。そしたら……また生まれ変わって姉妹になりましょう。」
「……うん」
「約束よ、しのぶ。」
「やく、そく……するわ。姉さん。」

どこまでも優しい人。姉さんはいつだって、私の幸せを願ってくれる。
姉さんがそう望むなら、私は今度こそ幸せにならなければ。
願いを託してくれた姉さんたちの分も。
なれるかな。ちゃんと、今更私が、普通の幸せを望めるかな。
不安はある。絶対なんてない。それでも、もしも「彼」も私と同じ気持ちでいてくれるなら……
コツンと、姉さんがまた私の額に自分の額をくっつけた。
姉さんの綺麗な瞳に、私の不安そうな顔が映る。

「大丈夫よ、しのぶ。五条さんはちゃんとしのぶが好きだから。だから、今度こそ、幸せになってね。」
「うん、姉さん。」

姉さんが私の背に手を回してぎゅうっと抱き締めてくれる。
どんどん薄くなっていく姉さんの温もりが消えていく。
私は、姉さんの温もりを、匂いを、声を、自分に刻みつけるように姉さんを抱き締めた。
意識が遠のいていく。それでも、私たちは最後の瞬間まで、互いに抱き合っていた。

「がんばってね、しのぶ。あなたならきっと大丈夫よ。」

そんな優しい声が、遠のく意識の中でしっかりと聞こえた。
大丈夫よ姉さん。私、ちゃんとがんばるから。約束守るから。
だから安心して見守っていてね。


*****


「…………」

目を覚ました時、最初に視界に入ったのは見知らぬ場所の天井だった。
無事に目を覚ましたということは、私は帰ってこれたのだろう。
まさか今までのことが全部夢だとは思いたくない。
顔に違和感を感じて頬に触れると、涙で濡れていた。
私、ずっと泣いていたのか。
だるさの残る体をゆっくりと起こして、私は茫然と記憶をたぐる。

「……姉さん……」

あの優しい笑顔を思い出して、また涙が溢れた。
ダメだ。やっぱり寂しい。
姉さんがいないと、心細くて辛い。あんなにがんばるって約束したのに……
だって、やっと会えたのだ。ずっとずっと、会いたかったんだ。

「姉さん……姉さん姉さん。ねえ、さん……」

何度呼んでも、もう応えてくれる人はいない。
嗚呼、本当にもう会えないんだ。そう思ったら、また涙が止めどなく溢れてくる。
寂しくて寂しくて、どうしようもないこの損失感を埋めるように、自身の体を抱き締める。
それでも、涙は止まらずに溢れてきた。
その時、部屋の外でドタドタと慌ただしい足音が聞こえた。
それは私の部屋の扉の前で止まると、鍵がかかっているのにも関わらず乱暴に開かれた。
ドンッ!ドガッ!っと激しい打撃音を立てて、扉を蹴破って入ってきたのは、悟くんだった。
鍵を破壊して入ってきたとか、普段だったら説教どころじゃない話なのだが、そんな余裕は今の私には無く、扉を蹴破って中に入ってきた悟くんを茫然と見つめることしか出来なかった。
あまりのことに、驚きすぎて涙も引っ込んだ。ポロリと、一粒の涙が零れ落ちる。
それを見て、悟くんはくしゃりと顔を歪めると泣きそうな顔をした。
どうしてそんな顔をするの?何かあったの?そう声をかけようと思っても、声が出なかった。
そうしている間に悟くんは鍵が壊れた扉を無理やり閉めて、ズカズカと部屋の中に入ってきた。

「さと……」
「しのぶ!」

私が名前を呼ぶ前に、私の側へのやって来た悟くんは、ベッドに座り込んだままの私の体をその大きな体ですっぽりと包み込むように抱き締めてきた。
彼の胸板に顔が埋まるような形で抱き締められる。いつものような自分勝手な乱暴な抱擁ではなく、労るような優しいもの。
悟くんは私を抱き締めたまま、「しのぶ」と私の名前を噛み締めるようにゆっくりと口にした。

「しのぶ……しのぶしのぶ!」
「あっ、あの、悟くん?」

何度も何度も私の名前を呼び続ける悟くんに、困惑してしまう。
私を抱き締める肩が、指先が、震えていることに漸く気付いた。
いつもと様子の違う悟くんに、戸惑う。
震えながら何度も私の存在を確かめるように名前を呼び続ける悟くんは、まるで母親に置き去りにされた子供のように頼りなさげで、大きな体がなんだがひどく小さく見えた。
一体どうしたんだろう。何でこんなに辛そうなの?
こんな悟くんは今まで見たことがない。雇っていた使用人に毒を盛られた時や、親に冷たくされた時でさえこんな風に取り乱したりなんてしなかったのに。
私の耳元で、悟くんが嗚咽を漏らす声が聞こえた。肩を震わせ、鼻をすすり、声を必死に押し殺して泣く彼にどうしたらいいのか分からなくて、私は少しでも彼が落ち着くようにその背に手を回して優しく背中を摩った。
すると突然弾かれたようにがばりと私の体を引き剥がした。
悟くんに両肩を掴まれた状態で向き合うように座っていた私は、悟くんの泣き顔を思いっきり見てしまった。
海のような、空のような、世界中の碧色を閉じ込めたようなその美しい瞳が涙に濡れて、宝石のようにキラキラと暗闇の中でも浮き上がって輝いていた。
吸い込まれるようにその瞳を綺麗だなと見入っていた私は、ぼうっとするあまり、悟くんの顔が近づいていることに気付くのが遅れてしまった。
私の唇に、悟くんの唇が触れる。柔らかな感触に、一瞬ぶるりと身体を震わせた。
初めてされた強引で乱暴な深いキスではなく、労わるように触れるだけの軽い口付け。
驚いて目を見開く私の目に、悟くんの整った美しい顔が間近に映る。
女性が羨みそうな長いまつ毛を震わせて、私の唇に触れてくる。
悟くんの腕に力はそんなに入っておらず、少し抵抗したらすぐに逃げ出せそうだった。
だけど、その時の私は何故か悟くんを拒もうという気持ちにはなれなかった。
だからそっと目を閉じて、彼の口付けを受け入れた。
彼の頬に手を添えて、自分から唇をより強く押し当てた。
悟くんが一瞬だけぴくりと肩を震わせたのを感じたが、そのまま悟くんの手は私の肩から頭に、腰に移動し、角度を変えてキスをした。
何度も、何度も、お互いの存在を確かめ合うように深くなる口付けを、私はただ黙って受け入れた。



******



◆胡蝶しのぶ
16→15
姉のカナエと再会を果たす。
ずっとずっと会いたかったカナエと会うことができ、色々と吹っ切れた模様。
漸く五条への気持ちを素直に認めて自覚した。

◆五条悟
28→16
過去にループしたことでしのぶと再会を果たす。
血の通った生きているしのぶを前にして、心に限界が来た。
両想いになれて嬉しいし、十年ぶりに会えたしのぶと離れたくなくて、かつてないほどの甘えん坊になる。

◆胡蝶カナエ
今回のMVPは間違いなくこの人。
この人がいなければそもそも奇跡なんか起きなかったし、五条先生は原作通りに封印されていた。
誰よりもしのぶの幸せを願っている。



******



抱き合ったまま口付けは深くなる。空気を求めて薄く開いた唇に悟くんの長い舌が入り込んで、舌と舌が絡み合う。
2人だけの静かな部屋に水音だけが響く。私は悟くんの首に自分から腕を回し、舌を絡めた。

「んぅ、ふぅ……っぅ……」
「……はっ…しのぶ……」

鼻から空気が抜けるような浅い息遣いを繰り返して、どんどん深いキスをしていく。
だけど流石にそろそろ苦しくなって、私は悟くんの背中を軽く叩いた。
すると私の意思が伝わったのか、悟くんは一度私の舌を唾液ごと吸い上げるように深く絡めると、やっと唇を離した。
互いの唾液が糸のように伸びて、プツンと切れる。
お互いに見つめ合いながら、荒い呼吸を繰り返した。
私は口に垂れた唾液を拭おうと、指でなぞるように唇に触れた。
つい先程までしていたキスの余韻がまだ残っている。触れた唇の感触を思い出して、私の顔に熱が集まる。きっと私の顔は今、とても赤くなっている気がする。
ちらりと悟くんの方を見ると、悟くんと目が合った。
ぼうっとした顔で私を見つめている悟くんにどう声を掛けようかと思っていたら、悟くんの唇が微かに震えた。

「好きだ。」
「え」

悟くんの口から零れ落ちた言葉に、私は息を飲んだ。
悟くんも自分の意思で言った訳ではなく、無意識に発してしまった言葉のようで、口にした後ハッとしたように自分の口を押さえた。
動揺しているのか、悟くんの青い瞳がゆらゆらと揺れる。けれど意を決したのか、すぐにその揺れは収まり、真剣な目が私を真っ直ぐに射抜いた。
悟くんの大きな手が私の手すっぽりと包み込むように重ねられる。

「しのぶ、好きだよ。」
「わっ、私、は……」
「ちゃんと伝えたことなかったけど、ずっと昔から好きだった。」

悟くんの告白に、驚きよりも先に湧き上がってきたのは喜びだった。
目にじわりと涙が浮かぶ。
蕩けるような甘い笑顔で見つめられ、今まで聞いたどの声よりも優しい声色で名前を呼ばれた。
嬉しい。嬉しい。こんな気持ちは初めてだった。寂しくてぼっかりと空いた心が満たされるような、そんな感覚だろうか。
姉さんや家族たちといた時には感じたことの無い幸福感。胸がドキドキと高鳴って、そわそわと落ち着きがなくて、忙しない。
これが恋というものなのだろうか。悟くんには初めてばかり貰っている気がする。
いつか、少しずつ彼から貰ったものを私も返していけたらいいと思う。
でもその前に、今は私も彼の気持ちに応えなければ。
私は体を前に倒して、ぐっと首を上に伸ばすと、触れるだけのキスを彼に贈った。

「私も悟くんが好きですよ。」

ようやく自覚したばかりの恋だけど、きっとそれはずっとずっと前から、少しずつ積み重なって大きくなってきた感情。
だからその想いを込めて、私は悟くんにちゃんと伝えよう。これからは何度でも。


*****


しのぶに告白して、彼女からも好きだと返された。両想いなのだと理解して、僕は飛び上がりたいくらい嬉しくなった。
そしてふと、本当に不意に意識を失う直前にカナエが僕に告げた言葉を思い出した。

『五条悟さん。あの子はきっと貴方が好きよ。だから今度こそ、しのぶを幸せにしてね。』

――ああ、君の言う通りだったよ。

カナエには感謝している。こうやって生きているしのぶに再び会えたのも、こうしてまた彼女に触れることが出来るのも、また一緒にいることが出来るのも、想いを伝えることが出来たのも、全部全部彼女がくれた奇跡のお陰だ。

だから約束する。今度こそ失わない。
今度こそ守り抜いてみせる。
そう心に誓って、僕は真っ赤な顔で僕を見つめるしのぶに、また触れるだけのキスを落とした。

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