第198話「夏目と犬神」

「……とりあえず、縄は解くから。」
「……お、おう……」

そう言って縄を解こうと無言でもくもくと作業に集中する彩乃。
そんな彼女にビクビクと小さく体を震わせる犬神。

「……あ、あれ?解けない……?」
「……不器用だな彩乃。」
「だっ、だって……これ思ったよりも固いんだもの!」
「やれやれ……む?ああ……これはお前では解けないな。」
「……先生?」

私では解けないとはどういう意味だろう?
ニャンコ先生の言葉に彩乃は不思議そうに首を傾げた。

「縄に『畏れ』が纏わりついている。恐らくはこれが首無の能力だろうが……これでは簡単には解けんな。」
「……どうにかできない?」
「まっ、私ならこの程度の畏れなど、簡単に断ち切れる。」
「じゃあやってよ先生。」
「……本当にいいのか?縄を解いた途端にこいつはお前を殺すかもしれんぞ?」
「……今の犬神はそんなことしないと思う。する理由もないし……それに……万が一犬神が襲ってきても、先生が守ってくれるでしょ?」
「……ふん。逃げ出すかもしれんぞ?」
「先生が簡単に逃がす訳ないでしょ?それに……部屋の前に牛鬼や鴆もいるし。」
「……気付いてたのか?」
「ううん。あの牛鬼なら元とは言え、敵だった犬神が屋敷内にいるのに警戒しない筈ないし……」
「元、ねぇ……」
「……っ」
「コラ、先生も一々犬神を脅さないで!さっさとやって!」
「……まったく。」
どろんッ!!

急かす彩乃にニャンコ先生はやれやれと首を横に振ると、本来の姿に戻った。

「……っ!」
「大丈夫だよ犬神。」
「……じっとしていろ犬っころ。"黒爪"!!」
ザンッ!!

妖気を纏って黒く染まった爪で首無の畏れを纏った縄を切り裂くと、それはあっさりと切れ、パラパラと床に落ちた。
自由の身になった犬神は、拘束されて硬くなった筋肉を解すように軽く手首や腕を回すと、戸惑ったように彩乃を見た。

「……マジで解きやがった……」
「そんなに警戒しなくても、私はあなたをどうこうする気はないし、危害を加えるつもりもないよ。」
「……」
「本当だよ。約束する。」
「……」

信じられないと言いたげな目を向けられて、彩乃は苦笑する。

「ただ……お話がしたいだけだよ……」
「……話ぃ?」
「うん。あなたがこれからどうしたいのかとか、どう……生きていきたいのか、とか……」
「お前は……」
「ん?」
「お前は……何で俺を助けたんだ?」
「それは……」

じっとこちらを探るように見つめてくる犬神に、彩乃はどう答えようかと少しだけ迷った。
ゆらゆらと不安げに揺れる瞳の奥に、警戒と、そして何かを期待するような感情が見えた気がして、彩乃は正直に気持ちを伝えようと思った。

「……言っておくけど、情報を聞き出したかったとかじゃないからね。同情の気持ちは……ない訳じゃないけど……」
「……っ、やっぱりな……俺なん「でも……」
「私が犬神を助けた一番の理由は……生きていてほしかったからだよ。」
「っ!?」

犬神の言葉を遮って告げた彩乃の言葉に、犬神は大きく目を見開いた。

「それと……私は犬神に謝らなきゃいけないことがある。」
「はあ?お前が俺に謝ることなんて何もないねぇだろ。寧ろ逆で……」
「犬神が私を襲ってきた日……私の中に犬神の記憶が流れ込んできた。」
「……はっ?」
「私は何故か妖と同調しやすいみたいで、時々強い意志を持つ妖と触れ合うと、自分の意志に関係なくその妖の心を覗いてしまうことがあるの……」
「……っ!本当、なのか?」
「……うん。だから、私はあなたのことを知っている。どうして妖怪になったのかも。どうして……そんなに玉章に執着しているのかも……」
「――っ!ふざけんなっ!!」
ガッ!!
「いっ!」

記憶を勝手に見られていたと知って、犬神は激しく怒りを露にし、彩乃のTシャツの胸元に掴み掛かってきた。
怪我をしているとは思えない強い力で引っ張られ、彩乃は一瞬だけ苦痛に顔を歪めた。

「お前……お前……っ!!」
「犬神……」
「ふざけんなっ!!俺は……情けや同情なんかで助けられたくなんかなかった!!敵に憐れみをかけられるくらいなら、あの時玉章の手にかけられて死んだ方がマシだ!!」
「……犬神の記憶を見て、同情したのは確かだし、あなたを助けたいと思ったのもそれがきっかけだった。記憶を勝手に見てしまったことはごめんなさい。でも……あの時……玉章があなたを消そうとした時、あなたを死なせたくないと思ったの。……だから、助けたことは謝らない。」
「……っ!」
「私はただ……犬神に生きていてほしかっただけ……死んでほしくないって思ったから……助けたの……どうか、死んだ方がマシだったなんて、悲しいこと言わないで。」

犬神に少しでも気持ちが伝わるように、彩乃は真剣な眼差しでまっすぐに犬神の目を見つめた。
強い意志を持った彩乃の瞳に、犬神は思わず動揺する。

「……な、んで……俺はお前を殺そうとしたのに……」
「そうだね。」
「今だって……俺は玉章がお前を殺せば戻ってきていいって言ってくれるなら、多分……いや、きっと殺せる。」
「死ぬのは嫌だな。でも私は……もう犬神のこと嫌いになれないよ。」
「……何で……」
「犬神と私が似てるって思っちゃったから……かな?」
「……はっ、俺とお前が?」
「私も……自分は誰にも必要とされないんだって……思ってたよ。」
「!?」
「誰かに必要とされたくて、嫌われるのが怖くて、少しでも愛されたくて……いつも誰かの顔色を窺ってた。独りは寂しいし、怖い。孤独が嫌いなのは……犬神も同じだよね?」
「それは……だけど、俺とお前はやっぱり違うだろ。信頼できる仲間がいて、人間や妖怪のダチがいて、優しい家族がいるお前と俺は全然違う。」
「私だって……最初から恵まれてた訳じゃないよ。優しい人たちが、私に優しくしてくれて、沢山の大切なものをくれた……」
「――俺には……玉章しかいない。……いなかった。でも……もう、何もない。」
「犬神……」

悲しげに、寂しそうにゆらゆらと不安げに瞳を揺らす犬神は、迷子になった子供のようで……それが彩乃にはやっぱり自分と重なって見えた。
だから彩乃は犬神の手が自分から離れた時、彼の両手を包み込むようにそっと握り締めた。
突然の彩乃の行動に驚いてびくりと腕を引こうとした犬神の手を離さんとばかりに強く握り締めると、彩乃はまっすぐに犬神の目を見た。

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