第238話「父の思い出」

田沼たちが帰ってから、彩乃はぼんやりと夕焼け空を部屋の窓から眺めていた。

「ラムネ水が湧く場所か……楽しみだね、先生。」
「当日はちゃんと水筒を持って行くぞ彩乃!」
「……先生の方が楽しみにしてない?」
「――しかしいいのか?その実家とやらは」

ニャンコ先生の言葉に彩乃は目を細めると、静かに答えた。

「――いいんだよ。私にとっては今、一番大事な場所はここだし……持っていれば管理費とか色々負担がかかる。それに、あの家で過ごした記憶なんて殆ど忘れてしまったし。」
「なんだ、少しは憶えているのか。」
「お母さんは私が生まれてすぐに他界したから憶えてないけど、その後数年だけだったけど男手ひとつで育ててくれたお父さんのことはぼんやりとだけど憶えてる。」

彩乃はそう言いながら机に置いてあった植物図鑑に手を伸ばした。
そして本を開き、中に挟んでおいた両親の写真を取り出した。

「――頭を撫でてくれたり、私を……膝にのせてよく縁側で二人で日向ぼっこを……そういうのを思い出すとなんだか辛くなるから、小さい頃は必死に忘れよう忘れようって……いつの間にか両親のことを思い出さなくなってた。――でもね、もう平気だよ。見ると胸が痛んで辛くて悲しくて見られなかったこの写真だって、今はもう見たって平気だし。……だからもういいの。」 

そう話しながら微笑む彩乃にニャンコ先生はスッと目を細めた。
本人は気付いているのだろうか?
そう言って話す彩乃の目はどこか寂しげで、幼い迷子のような目をしていることに……
――手が届かないものがある。
ならば……忘れてしまえばいいんだ。
忘れてしまえば辛くはならない。
思い出して悲しくなることも、寂しくなることもない。
だから、忘れよう。
忘れてしまえばもう苦しくない。辛くない……
そうでしょう?先生……

- 257 -
TOP