第239話「触れたくない気持ち」

翌日、彩乃たちは北本の案内でラムネ水が湧くという場所へとやって来た。

「これがラムネ水の泉だ。」
「……うわっ、何だこれ。辺りの岩真っ赤じゃないか。」
「当たり前だろ。サビついてんだ。」
「……これじゃ飲めないね。」
「ニャー……(私は飲むぞ!)」
「あっ!駄目よ先生。お腹壊しちゃうわ。」
「ニャニャー!!(放せ多軌!私は何があっても飲むぞ!!)」
(――楽しいな。)

こうやって大勢の友達と何処かに遊びに行ったり、地元の人しか知らない秘密の場所に探検みたいに森を歩いて来るなんてこと、一年前まではありえなかった。

『――彩乃。』
『彩乃』

耳に響く蝉の鳴き声に遠い日の記憶が呼び起こされる。
私がまだとても小さい頃、まだ拙い言葉遣いでしか話せない私に、お父さんは縁側に座り、私を膝に乗せて話してくれた。

『彩乃、見てごらん。』
『うー?』
『ほら、今年も綺麗に咲いたよ。』
『お母さんはね、チューリップの花を植えていたんだ。』
『庭があるってはしゃいで、僕を喜ばそうとこっそり植えたんだよ。』
『キレー!』
『ああ、綺麗だね。彩乃がもう少し大きくなったら、また何かの種を植えよう。』

――楽しみだな、彩乃。

「――っ」

――ダメ。
ダメだ。
思い出してはいけない。
忘れなきゃ――

ぐいっ!
「!、わっ!!」
ザザザっ!!

その時、誰かか彩乃の足を掴んで引っ張った。
ぼんやりとしていた彩乃は抵抗する間もなく転ばされ、そのまま茂みの中へと引き摺り込まれる。

「……っ……あっ……」
ぎりっ
「ああ……美味そうな匂い。人の子だ……」
「ぐ……」

突然あり得ないくらいの強い力で引き摺り込まれた彩乃は、妖怪に組み敷かれるように上から押さえ込まれ、大きな手で掴まれた体を締め上げられていた。
ミシミシと嫌な音を立てる体に彩乃は苦痛と息苦しさから顔を歪める。

「ぐっ……はな……」
「美味そう……こんな所でこんなご馳走に出会うとは……」
ギリギリ
「うあっ!やめ……」
「やれやれ」
「あっ……」

異変に気付いたニャンコ先生が姿を見せると、彩乃は途端に安心した表情を浮かべた。

「去れっ!」
カッ!!
「ぎゃ……!!」

先生の退魔の光を浴びた妖怪は悲鳴を上げて逃げていく。
その様子を彩乃は茫然と見つめていた。

「先生……」
「阿呆!何やっとる。あの程度の奴いつものように拳で黙らせんか!!」
「……ごめん。」
「何をぼぉーっとしておったのだ!」
「それは……」

憤るニャンコ先生に彩乃は言葉を詰まらせる。

(何を……やってるんだろ……)

気を抜きすぎた。
折角忘れていたのに、今更こんなこと思い出して……
ここに来てからあまりにも幸せすぎて、恵まれすぎて、余計なことまで思い出してしまう。
それもこれも、あんな写真なんて見たから……
あの写真は私が生まれる少し前、両親が叔父に撮ってもらったものだったらしい。
初めて叔父さんからあの写真を見せられた時、その時のことを話す叔父の言葉を私は喜ぶことができなかった。
写真の中で優しく笑う両親……
この二人の間で自分も笑う日が来る筈だったのかと思うと、どうしても涙が出て止まらなかった。
痛くて痛くて
辛くて悲しくて
忘れてしまいたかったんだ……

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