第247話「いやだ」

居間に通された彩乃は、緊張した面持ちで座布団に正座して座ると、叔父さんがテーブルに鍵をそっと置いた。
おずおずとどこか遠慮がちに鍵を彩乃の前に差し出す叔父さんも、どこか気まずそうだった。 

「――鍵は預かっているけど、その……掃除とかは殆んどしていないんだ……ほら、あそこは古くて小さな家だろう?買い手がついても多分壊すだろうから……手入れしていないんだ。」
「――大丈夫です。……本当に、ただ……見ておきたいだけなんです。」
「……そうか……」

叔父さんは彩乃が家の手入れを怠っていたことに対して特に気にした様子がないことにホッとしたようだった。
やがてお茶を持って来たらしい叔母さんが、彩乃の目の前に静かに麦茶の入ったコップを置いた。
それに彩乃は軽くお礼の意を込めて頭を下げると、叔母さんはぎこちなく笑った。

(――まずいな……)

彩乃は冷や汗を掻きながらそう思った。
家に上がる前から、黒い影のような妖がずっとこちらを見ているのだ。
目を合わせないように、動揺を悟られないように平静を装ってはいるが、早く家を出たくてたまらなかった。

「――それにしても、大きくなったね。……藤原さん……だっけ?急に引き取られていったと聞いて心配していたんだ。」
「……え?」
「かなり遠縁だというのに突然押しかけてきて、連れていったらしいじゃないか。
子供のいないご夫婦らしいから扱い方もわからないんじゃないかって……」
「……あの……」
「よく見たら痩せているようだけど……大丈夫かい?その人達はちゃんと君に食事を与えているのか?」
「――っ」

ぎゅっと拳を握り締めて彩乃は叔父さんたちに気付かれないように小さく唇を噛んだ。
――悔しかった。
悔しかったんだ。自分のせいで優しい藤原さんたちが悪く言われてしまうことが。
そして……それは違うのだと言い返せない自分が許せなかった。
ず……ずず……ず…… 
黒い大きな妖がゆっくりと彩乃に近づいてくる。
大きな2つの目でじっと彩乃を見ているだけだった妖は、彩乃の側まで来ると、彩乃の体にまとわりつくようにその影のような体から触手のようなものを数本伸ばして彩乃を包み込もうとする。
それなのに、彩乃は逃げない。
悲鳴すら上げない。
ただ、虚ろな目でじっと座っているだけだった。

「クチ……カイテ」
ざわり 
「カイテクレタラタベテアゲル」
「クチガアレバ、タベテアゲル」
「オモイダシタ。キミヲシッテル。キミハワタシガミエル。」
「……ちょっ……彩乃ちゃん?どうしたの?」

虚ろな目で突然黙り込んでしまった彩乃を、叔母さんが心配そうに声をかける。
しかし、彩乃は答えることができなかった。
――心が乱される。
いつもは心の奥にしまい込んで、我慢している感情が湧き上がってきてひどく悲しい。
ドクン
ドクン
黒い妖は彩乃に優しく囁く。

「タベテアゲル。キライナヒトタチモ、ワルグチイウヒトタチモ、ワスレテシマイタイナラ、カナシイオモイデモ……アタタカナオモイデモ……タベテアゲルカラクチカイテ。」
「……あ……」

妖の言葉が心に波紋を起こす。
何も聞こえなくなる。
何も見えなくなる。
妖の言葉だけが自分の全てになっていく…… 
指先から血の気が引いていき、体が、心が、ひどく冷たくなっていく。
心が凍り付いていく。

「――」

震える唇を微かに動かし、無意識に助けを求めるのように呼んだ名は、いったい誰だったのか……

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