第254話「手を伸ばしても届かないもの」

「うわあああ!!」
ガタタン!
「夏目さん、また貴女なの!?」

授業中、突然彩乃が叫び声を上げて立ち上がった。
それにクラスメイトたちはまたかと言いたげな眼差しでこちらを見、担任の女性はうんざりだと言いたげに険しい表情で彩乃を睨み付ける。

「もういい加減にしなさい夏目さん!いつもいつも問題ばかり起こして!」
「で、でも先生……窓に女の人の首が……」
「いい加減にして!二階に人がいる訳ないでしょ!?そうやっていつも怖いこと言って授業を妨害するのはやめて!」
「……」

担任の鋭い眼差しに、彩乃はぐっと口をつぐんで黙り込む。
俯いて今にも泣きそうな顔を隠すと、彩乃は強く拳を握り締めた。
嘘ではない。
嘘なんてついてない。
確かに二階の窓から女の顔がこちらを覗いていたのだ。
それは彩乃と目が合うと、ニヤリと不気味に笑ってみせた。
幻覚でも、見間違いでもないのだ。
私は本当のことを言っているだけなのに……

「夏目の奴また嘘ついてるぜ〜」
「ほんといい加減にしろってんだよなぁ〜」
「おい三世子ー」
「ちょっとやめなさいよ男子!三世子は悪くないじゃん!」
「……っ」

彩乃が問題を起こしたせいで、同じ家に住んでいる三世子までもが男子に絡まれ始めてしまった。
三世子はただ黙って、ぐっと歯を食い縛った。
顔は怒りと恥ずかしさで赤く染まり、今にも泣きそうになるのを堪えている。
そんな風に顔を歪めてただ男子たちの言葉を受け止めていた。
そんな三世子を見て、彩乃の心が自棄に冷たく冷えていった。
――どこか……
どこか遠くへ行きたいな……
誰にも迷惑をかけず、ひとりで静かに……
誰もいないどこかに……



彩乃は辛いことや悲しいことがあった時、妙に独りになりたいと思う。
最近妖怪に追いかけられて偶々見つけた神社。
そこは彩乃の秘密の隠れ家だった。
彩乃は最近学校帰りに必ずそこに寄るようにしている。
――家には帰りたくなかった。
あの家には変な黒い妖怪が住んでいるし、叔母さんや三世子といるのも息が詰まるからだ。
神社なら妖怪も入ってこれないし、ここは人も来ないから、静かで気に入っている。
彩乃はごろりと床に寝転がると、疲れていたのかうとうととし始めた。

(――ちょっとだけ……ちょっとだけ寝よう。あの家ではあまりよく眠れないから、本当に少しだけ……)

そう思って、眠気に誘われるまま彩乃は目を閉じてしまった。
ポッ、ポポ
外では静かに雨が降りだしていたことに、彩乃は気付けなかったのだ。

ゴロゴロ……
ドンッ!!
「っ!?」

大きな音に彩乃はハッとして目を覚ました。
慌てて体を起こすと、ザアザアと強い雨の音がしていた。
雨が降っていると頭が理解した途端、彩乃は青ざめた顔で慌てて外を確認しようと戸を開けた。

(雨!?しまった、うたた寝しちゃったんだ。外が真っ暗……今何時なの!?)
ガラッ!
「は、早く帰らないと……」
(家の人に心配をかけてしまう。)
「早く……」
ピカッ!
どぉんっっ!! 
「!!」

彩乃がランドセルを背負って急いで神社を飛び出そうとしたまさにその時、彩乃の視界を覆うような強い光が夜の空を照らした。
その後に大きな音がして、彩乃は思わずびくりと体を縮こませる。
そのまま力が抜けたようにへたり込んでしまい、ガタガタと恐怖で体を震わせた。

「か……雷……近くに落ちた……?」

彩乃は雷が苦手だった。
誰もいない、ひとりぼっちの部屋で、いつも体を縮こませて震えていた。
耳に響く大きな音。不安になる光。
全てが怖かった。大きな音は自分を責める大人たちの怒鳴り声を思い出させる。
怖い……
こわいこわいこわい……

「でも、早く帰らないと……」
(帰らなきゃ。遅くなったら迷惑をかけてしまう。また……追い出されてしまう……)
「……大丈夫。雷なんて……大丈夫。早く、帰らなきゃ。大丈夫……早く、早く……」

体の震えが止まらない。
怖い。帰らなくちゃいけないのに、わかっているのに……体が動かない。
彩乃が自分に言い聞かせるようにブツブツと言葉を呟いていると、また強い光が空を覆った。
――それを見たら、もうダメだった。

………………
…………

「おーい、どこだー?」
「おーい!」
「あっ!いたぞー!」

時刻は夜の9時半になろうとしていた。
いつまで経っても帰ってこない彩乃を心配した三世子の両親が、近所の人たちも巻き込んで雨の中彩乃を皆で探し回った。
拝殿の中で体を縮こませ、震えて泣いていた彩乃を見つけた近所のおじさんたちに連れられて、家に帰ってきた頃には、もう10時を過ぎていた。

「すみません。すみません。お騒がせしました。」
「見つかって良かった……可哀想に。怯えていましたよ?」
「すみません。本当にありがとうございました。」
「いやいや、無事で良かったですよ。……もう少しあの子にも気を使ってあげて下さいね?」
「本当にすみません。」
「……」

叔父さんと叔母さんが何度も頭を下げて謝っている。
私のせいだ。
私が……帰らなかったから…… 
彩乃は真っ青な顔で大人たちを見つめながら、カタカタと震える体で言葉を発した。
その震えは、雷による恐怖からなのか、それとも迷惑をかけてしまったことへの申し訳ない気持ちからなのか、もうよく解らなかった。

「……んなさい……ごめんなさい……ごめ……」
パシンッ!

その時、彩乃の隣にいた三世子が、彩乃の頬を思いっきりはたいた。
頬にじんわりと痛みが走る。
彩乃が頬を引っ叩かれたのだと理解するよりも早く、三世子が拳を振り下ろした。

「ふざけんな!ふざけんな!何でお父さんとお母さんが謝んないといけないのよ!何でお父さんたちが怒られなきゃなんないの!?おかしいのはあんたじゃない!悪いのは全部あんたなのに!!」

何度も何度も、三世子は両腕を振り下ろして彩乃を殴った。
目からポロポロと涙を流しながら、彩乃のせいだと責める言葉を吐いた。

「三世子!?」
「出ていけ……お前なんか……出ていけぇぇ!!」
「っ!」

心からの三世子の叫びに、彩乃はふらりと足を後ろに一歩後ずさった。
そして、そのまま逃げるように走り出した。
頭に被っていたタオルが落ちても、構わず走り出す。
振り返らなかった。三世子の言葉がきっかけで、何かが切れてしまったのだ。

「!、彩乃ちゃん!?戻るんだ!」

背に叔父さんの声がしても、彩乃は足を止めなかった。
――違う。
――ここは違う。
ここは私の家じゃない。
帰りたい。帰りたい。本当の家に。
お父さんと過ごしたあの家に……
私の、本当の家。
今はもう、からっぽの家に……

「……さん。お父さん……」

気付けば、叫んでいた。

「お父さん……お父さん……」

本当は……何度も何度も呼んでいた。
そしてその度に、やっぱり答えてくれる者はいないのだと……
どんなに呼んでも、求めても、願いは届かない。
どんなに手を伸ばしても、手の届かないものがあるのだと、幼いながらに思い知らされた。
結局そのあとは迷子になって、叔父さんたちにまた迷惑を掛けてしまった。
その半年後……私はまた別の家へと引き取られることになる。
そして……私はあの日の夜。
呼んでも答えてくれないものを呼ぶのはやめると……決めたんだ。

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