▼ ▼ ▼


ジェイド先輩には、それなりに良い印象を持っていた。といっても最初はあのリーチ兄弟の片割れだし、めちゃくちゃ脅してくるし、視界の片隅に入った程度でもかなりビビっていた。けれどそれは少し前の話である。ラウンジに赴いた時にウェイターをしているジェイド先輩と遭遇する機会が多く、その度に軽い挨拶程度の会話をしていたこともあって、先輩とはラウンジ以外の場所でばったりと会った時も短い会話を交わす程度の間柄になった。
それで分かったことがある。ジェイド先輩は意外と普通なのだ。会うたびにタックルをかましてきたり追いかけっこや隠れんぼやらを要求してくるフロイド先輩と比べると、彼はまず丁寧だ。静かで話も聞いてくれるし、たまに話してくれるきのこの話も面白いし、大分常識的である。だからジェイド先輩に対してはそれほど気を張らず、素直に会話を楽しめるようになっていたのだ。取引を持ちかけられてもそれを軽くあしらえるくらいには。まあ、何をしてくるか分からないフロイド先輩と会うと緊張するのは相変わらずだが。
それがきっといけなかったのか。多分そうだろう。イソギンチャク事件のこともあったし、それまでにあの兄弟がどういう人物なのか、身をもって知っていたはずだ。───なのに。




「こちらです」

オクタヴィネル寮内をジェイド先輩の案内に続いて、後をひょこひょこと付いていく。ラウンジは最低限の明かりが点いているのみで、いつも賑わっている店内は静まり返っていた。薄暗いと本当に海の中みたいだ。何だか物珍しくて店をきょろきょろと見回していると、迷子になりますよと先輩は笑う。そんなわけないだろ、完全に馬鹿にされている。と思いつつ、ちょっと恥ずかしくなったので視線を迷わせるのをやめて素直に付いて行った。そうして辿り着いたのはラウンジのキッチンだ。もちろん誰もいない。先輩はキッチンの明かりをつけて奥を進んでいく。

「ふむ、……これなら大丈夫そうですね」

キッチンの中程にある大きな冷蔵庫を開け、具合を確認して何やら呟いたジェイド先輩は、銀色のトレーを冷蔵庫から取り出す。それを横から覗き込み、俺はおお!と感嘆の声を上げた。

「美味しそう!きれいですね!」
「それは良かった、第一印象は上々ですね」

せっかくですからフロアの方で食べましょうかと言う先輩の提案に頷いて、ラウンジのカウンターの方へと戻っていく。先輩によってカウンターに置かれたその試作品を改めてまじまじ見つめる。トレーの上に並んだ複数の透明な容器に入っているのは海色のゼリーだ。手に持って薄明かりに透かそうとしていると、パッとカウンターのエリアが明るくなった。先輩が照明を点けたのだろう。明るくなった場所で見ると青色がより鮮やかに見える。光を受けてキラキラと光っていて、ゼリーの中には小さいカラフルな粒々が浮かんでいる。どんな味がするのだろう。青りんご味かな、それともソーダ味だろうか。目の前の美味しそうなスイーツを目にしてキラキラと顔を輝かせていたであろう俺の耳に、ふ、と笑みを含んだ声が届く。顔を先輩の方に向ければ彼は微笑んでいて、さあ、どうぞお召し上がりください、と俺を促した。そのお言葉に甘え、いただきます、と手を合わせてから先輩が用意してくれたスプーンを手に取る。そしてスプーンの上でぷるぷると震えるかけらを掬って、水面のように輝くゼリーを口に入れた。


「うん、……美味しい!」

口の中ですり潰し、じっくりと咀嚼する。青りんごではなく、爽やかなソーダ味のゼリーだ。ゼリーの中にある小さな粒を舌に転がせば、パチパチと弾ける食感が口内を包む。おお、楽しいぞ。

「ふふ、お口に合ったようで何よりです。どうやら味は合格のようですね。ラウンジのメニューとしては如何でしょう?」
「そうですね、今のメニューにこんな感じの品はないですし、単体でも、何かと合わせても良いと思います。個人的にはこれがパフェになってたりすると嬉しいかも」
「ほう、パフェですか」
「はい、ヨーグルトとかコーンフレークとかスポンジとか入れるんです。スプーンで掬うたびに色々な層が次々に出てくると楽しいし、ゼリーの中のパチパチの食感も際立つというか。ラウンジのメニューのバランスを考えても、パフェはいいんじゃないかなって」
「なるほど」
「パフェに入れて出してもいいし、ゼリー単体でちょっとした食後の一口にもいいと思います」

俺の意見をひとしきり聞いて、ジェイド先輩は顎に手をやって考える素振りを見せる。その間に俺はといえば2個目のカップに手を出した。うん、やっぱり美味いぞ。そうしてゼリーの味をゆっくりと堪能していると、ジェイド先輩は考えが決まったらしい、やがてふむ、と一言呟いた。

「確かに、それは良いかもしれませんね。アズールに相談してみましょう」
「え、本当ですか」
「ええ。どうして?意外ですか?」
「いや…、まさか、本当に採用されるとは思ってなくて…。意見、ちゃんと聞いてくれるんだなって」
「言ったでしょう、貴方の意見が聞きたいと。それにまだ採用ではありませんよ、あくまでも候補の段階です」

決めるのはアズールですから、と続けるジェイド先輩に、それは分かってますけど、と呟く。それでも、ジェイド先輩が俺の意見をちゃんと聞いて、考えてくれたことは嬉しいのだ。

「ん、でもこれ、ほんと美味しいですねえ」

これは採用されることを願うばかりだ。こんな美味しいものを作れるジェイド先輩、天才じゃなかろうか。2個目のゼリーもぱくぱくと口に入れる俺を見て、ジェイド先輩は薄く笑みを浮かべて。

「では、僕も試食してみましょうか」
「はい、ぜひ!…………、え、」


半分ほど空になったカップは先輩の手によって取り上げられる。言葉通り試食するのかと思いスプーンを差し出そうとしたが、彼はカップをカウンターの上に置いた。かと思えば、肩に先輩の手が置かれ、カウンターと先輩の間に挟まれる。ぬ、と俺の顔に影が差し、見上げる先はにこ、と微笑うジェイド先輩。試食って、先輩の作ったゼリーのことではないのか。あれ、何かがおかしいぞ。何か嫌な予感がする…、と思った時にはもう遅い。
何故か、ジェイド先輩が俺の口を塞いだのである。

「(なんでーーーーーー!?)」

あまりの衝撃に思考が一瞬止まった。
解せない、マジで解せない、何で?!えっていうか俺のセカンドキスーーーー!!!!
誰だジェイド先輩は意外と普通だって言ったの。俺だよ馬鹿!前言撤回、やっぱり全然普通じゃない!ちょっとでも気を緩めたのが間違いだった!

「……っ、」


展開の意味が分からなすぎて夢かと思ったが、唇からの感触でこれが夢ではないことが痛いほど分かる。輩の唇は柔らかくて、少し冷たい。頭の中は饒舌で、顔の先っちょの感覚を認識する余裕はあるくせに、体は驚きの余りピシリと岩のように固まって動けない。だってしょうがないよな、俺1回しかキスしたことないんだから。ああそう、あれは中3の夏、夏祭りの日に初めてできた彼女と……と現実逃避しかけたが今はそんな場合ではない。ああ、まさかの2回目のキスの相手が異世界の同性のウツボ人魚先輩とは、そんなこと誰が予想できるだろうか。できるわけないだろ!脳内が絶賛混乱中でテンパっている俺とは違い、ジェイド先輩はといえば随分余裕らしい、俺の腰を抱き寄せて下から上へするすると俺の体をなぞったかと思えば、スプーンをがちがちに握り締める俺の手をその長い指で解いていく。いやだ、妙に丁寧でなんかいやだ。

「…ッ!…ぅ、っ」

攣りそうなくらい固く閉ざしている俺の唇を、ジェイド先輩の舌がぺろりと舐めた。初めて他人の舌に舐められる感触に背中にぞわりとした感触が走り、思わずくぐもった声が漏れる。
ちょっと待ってくれ、俺はこの先の展開を知らない。抵抗しようとスプーンを握っていた手を動かそうとするが、見事に失敗して先輩の手に丸め込まれてしまう。そして驚きで僅かに開いた唇を見逃さず、ジェイド先輩の舌が強引に口を割り開き、ぬるりと口内に侵入してきた。うそだろ!ディープなやつだこれ!

「ん、………」
「………っ!(うそだろ、うそだろ……!)」

本格的に思考が混乱してきた。どうしてこんなことをされているのかなんて冷静に考えられる余裕は全くない。ただ口内を蠢く先輩の舌の感触にぞわぞわするばかりである。途中耳に入った先輩の漏れ出たような声に妙に色っぽさを感じてしまって、ぞわぞわだけじゃなくばくばくもしてきた。五感から次々と来る今までにない感覚にいっぱいいっぱいになって何も反応できない俺をいいことに、先輩の行為は止まることはない。もっと続けようと思ったのかなんなのか、一旦舌が引き抜かれ、今度は違う角度から口付けられる。そして再び口を開けさせられた拍子に、先輩のギザギザの歯が歯茎に刺さった。

「い"っ?!」

がり、そんな音がした気さえする。走った鋭い痛みに思わず声を上げ、身体が動いた拍子にお互いの歯がぶつかった。がちんと固い音がして、唇が離れていく。咄嗟に手で口を抑えた俺の顔を、ジェイド先輩が身を屈めて覗き込んだ。

「いたい…………」
「すみません、痛かったでしょう」
「だいじょうぶです………」

口を手で押さえながらじんわりとした歯茎の痛みに悶える俺の肩にジェイド先輩の手が触れる。その手つきは優しい。
………いや待てよ、何で俺は大丈夫なんて言ってるんだ?この場合、普通ふざけんなが正解ではないのか。おかしい、おかしいぞ。絆されるな、慣れるんじゃない。さあ文句のひとつでも言ってやろうと勢いよく顔を上げた。はいいものの、先輩の大きな手によって頬を包み込まれてしまった。

「……血は出ていないようですね。次は気を付けますから」
「え、ああ、はい………、……ん?」


口を抑えていた手を外され、はいあーんと口を開けさせられ、最終的には入念に口内の状況を確認させられてしまった。次は気を付けます、というジェイド先輩の言葉に思わず頷いてしまったものの、次というワードに眉を顰める。いや、おかしいだろ。次って何だ?それってつまり、もう一回するってこと?いやしないよ!なんて先輩にノリツッコミをかます暇もなく、また口を塞がれた。だからなんで?!

「ん、……ぅ、っう」

唇がほんのりと温かい。俺の熱が移ったのだろうか。何度も角度を変えて口付けられるそれに変な声が漏れる。触れるだけのそれを繰り返した後、先程と同じように舌で唇を舐められたが、今度は嫌だと固く口を閉じて拒絶の意を示した。が、ならばと先輩の鋭い歯が唇に柔く食い込む。これは脅しだと絶賛テンパリ中の俺でも分かる。つまり口を開けるか、唇を噛みちぎられるかどっちかだ。今もじんわりと残る、あの刺すような痛みをもう一度味わうのは嫌だ。だから観念して口をそっと開けた。
ああ、俺の大切な何かがなくなっていく気がする。しつこく、まるで探るように、何かを確かめるように。くまなく口の中を探られる感覚に、さっきから変に体がぴくりと反応しそうになってしまう。顔はまるで沸騰したように熱いし、首筋にはじわりと嫌な汗が滲む。ばくばくと体に振動が表れそうな程心臓が大きく音を立てている。もう限界だ。頼む、早く終わってくれ。自然と縋っていた先輩の服に深い皺ができていく。
それに気付いたのか、それともただ単に満足したのか。ジェイド先輩の唇がゆっくりと離れていった。ああ、やっと終わった。はあ、と大きく息を吐く。さっきまで文句のひとつでもなんて思っていたくせに、今は息を整え、ただこのいやに甘い、重い感覚を処理するので精一杯で、先輩に文句を言う余裕など全くなくなっていた。そんな俺を見て、ジェイド先輩はまるで猫のように、そのオッドアイの瞳を細める。

「おや、ナマエさん。顔が真っ赤だ」