人影の少なくなった廊下。校庭で部活動に励む部員たちの声。いつもの光景を窓から眺めつつのんびり歩き、目当ての教室の引き戸を開ける。ガラガラと扉が立てる音にも彼はこちらを見向きもしない。それだけ集中しているのだろう。

「三ツ谷ぁ〜、帰ろ」

時刻は午後5時数分前。いつもの約束の時間より少しだけ早いのは、俺が待ちきれなかったせいだ。
教室に一人残っている三ツ谷は、声を掛けてからようやく俺の存在に気付いたようだった。俺を一瞥し、「悪い、ちょっと待って」と告げてから目線がまたミシンへと戻る。どうやらキリが悪いらしい。それに気の抜けた了承を返して、教室に入ってから一番近い手頃なイスに座り、ぼんやりと彼の作業を見つめる。
その目は真剣だ。俺はそういう三ツ谷の顔が好きだったりする。
俺は帰宅部、三ツ谷は手芸部の部長だ。だから一緒に帰る時は三ツ谷の部活に合わせて図書室などで時間を潰していることが多い。一緒に帰りたいからと学校に居残っていた最初の頃に「先帰ってろよ、待たせんの悪いし」と三ツ谷が気を遣ってくれたこともあったのだが、「好きなやつとは少しだけでも一緒に過ごしたい」と言ったらそれ以降は何も言わなくなったので、きっと彼も同じ気持ちなのだろう。だから、三ツ谷と帰れる時はこうして彼を待つことにしている。
好きな相手を待つ時間というのは意外に楽しい。待ち時間に嫌いな勉強や読書をしていても、その後のことがご褒美だと思えばなんのそのである。これは三ツ谷と付き合い始めてから得た経験のうちのひとつだ。
そう、三ツ谷と付き合い出してから、毎日が新しい発見ばかりだ。人生ってこんなに色づいていたっけ? なんて思うほど。分かっている、自分でも惚気ている自覚はある。それでもやめられないのだから仕方ないなあ、なんてぼんやり思いながら頬杖をついた。
陽が傾いて夕陽が差す教室にミシンの小気味良い音が響いている。最初はうるさいなあなんて思っていたけれど、聞き慣れるとなんとも小気味良いものだ。茜色に染まる三ツ谷の横顔、真っ直ぐな目つき、けぶるまつ毛。ああこいつ、やっぱりイケメンだなあと何回見てもそう思う。いつもならこうしてじっくり顔を見ていると「見過ぎ」なんて嗜められるものだが、今回は集中しているのか、視線はこちらに飛んでこない。

「よし」

その横顔を堪能してしばらく経った頃。やがて一つ短くそう言ってミシンを止めた三ツ谷が立ち上がって伸びをした。どうやらひと段落ついたらしい。

「いいとこまでいった?」
「まあぼちぼち。そろそろ帰んないと飯作んのに間に合わねえし、お前ずっと見てくるし」

「視線がうるさくて集中できねえよ」なんて三ツ谷ははにかみながらミシンを片付ける。やっぱりバレていたか。それに髪をかきながら「ごめん」と謝れば「いつものことだろ」と返された。ううん、間違いないなと思いつつも、帰り支度を始めた三ツ谷に雑談を持ちかける。

「そういや今日ルナちゃんとマナちゃんの面倒見なくて平気だったのか? 今日はいつもより遅くまで残ってるじゃん」
「ああ、今日は平気、八戒に子守頼んどいたから」
「あそうなの? じゃあ平気か」
「おう、サンキュな、気にしてくれて」

に、とかっこいい笑みを浮かべる三ツ谷に俺も笑みを返す。だが、さっきの三ツ谷の言葉にひっかかりを感じてしまって、ふと床に視線を落とした。

「……三ツ谷さあ、八戒くんに会わしてくんないよね」
「は?」

ぼそりと呟かれた俺の言葉に、三ツ谷が手を止めて目を瞬かせる。
言っていいものか、いや、でも。
逡巡したけれど、ここでタイミングを逃したら、そう思ったら口に出てしまっていた。言ってしまったと後悔するにはもう遅い。なんだか気まずくなって視線を逸らしてしまったが、ずっと思っていたことを一度吐き出してしまうと止まらなかった。

「俺、八戒くんのことすごい気になってんだけど」
「なんでだよ」

三ツ谷のことが大好きな俺でも、多少の不満はある。
三ツ谷が彼の友達である八戒くんに会わせてくれない。こんなの他人が聞いたらなんてちっぽけな不満だろうと思うだろうし、実際俺もそう思う。だがこの小さな不満から発生したモヤモヤは、ここ数週間ずっと胸に巣食ったたままだった。

「なんでってところどころで八戒くんの話出てくるからすっごい気になってんのに、何回言っても三ツ谷会わせてくんないじゃん」
「そりゃあ……お前が気にするような奴じゃねえからだよ」

そっけなくそんなことを言って、三ツ谷は黙ってしまった。
三ツ谷と八戒くんは仲が良い。三ツ谷が所属している不良チームが一緒で、その中の隊も一緒だ。だから一緒にいる時間が俺よりも長いし、ことあるごとに三ツ谷の口から出てくるその名前が、ずっと気になっていた。
俺は喧嘩が強いどころかからっきしだし、人を殴ったりなんて度胸は全くないから、正直八戒くんが羨ましい。だって、俺の知らない三ツ谷を八戒くんはたくさん知っている。三ツ谷は不良チームの隊長だ、だからきっと強いんだろう。そんな三ツ谷を八戒くんはたくさん見ているのだろう。
「気にするような奴じゃない」、三ツ谷はそう言うが、俺は気になるんだし、会わせてくれたっていいじゃないかと思う。でも一方で、「お前には関係ない」と言われたらそれまでだとも思う。そう言われたら、悲しいけれど。

「……三ツ谷、そんなに八戒くんのこと大事にしてんだ、俺に会わせたくないくらい」
「はあ?」

我ながら面倒くさいな、と思った。それでも気が付いたら口走っていた。
案の定、三ツ谷の眉間には皺が寄る。何言ってんの、と言いたげに俺を見た。

「んなわけねーだろ、なんでオレがアイツを大事にしないといけないんだよ。ちげーよ馬鹿」
「じゃあ会わせてくれたっていいだろ、三ツ谷んとこの副隊長。減るもんじゃないし、一回くらい話してみたいし」

というかそもそもの話、三ツ谷は八戒くんどころか東卍のメンバーにすら会わせてくれない。俺が会ったことあるのは同じ学校の林くんだけだ。それも偶然かちあったというだけで、正式に(?)紹介されたことはない。過去に「マイキーくんとかドラケンくんにも会ってみたい」と言ってみた時なんて即却下だ。「絶対駄目だ」、この一点張りである。まあ、マイキーくんとドラケンくんはチームの偉い人っぽいので「駄目だ」と言われるのは分かるのだが、八戒くんは三ツ谷の部下だし別にいいんじゃない? とやっぱり俺は思うのである。
三ツ谷は眉を寄せ、難しい顔をして何も言わない。一方で俺も腕を組み、不満げな顔をしてじ、と三ツ谷を見つめる。

「……会わせたくない」
「…は?」

俺と三ツ谷の間に、微妙に険悪な空気が流れ始めて数秒。やがて視線を俺から外したまま、三ツ谷が一言だけぽつりと漏らした。

「…お前、絶対八戒に懐かれるだろうから、会わせたくない」
「は…………、」

「会わせたくない」、それに続く言葉は俺の予想外のものだった。目をぱちくりと瞬かせ、頭の中でその意味を咀嚼する。
つまり、これは、あれだ。

「…………俺が八戒くんに会う前からヤキモチ妬いてんの?」
「うるせーな、悪ィかよ」

「懐かれるだろうから」なんて、俺が八戒くんに取られるとでも思っているのだろうか。
さっきまで胸に渦巻いていたモヤモヤが、三ツ谷の一言により一気にすっ飛んだ。

「……はは、そうならそうって言ってくれたら良いのに」
「…言ったら納得してたのかよ」
「うん、なんだかんだ三ツ谷は俺のこと好きなんだな、じゃあしょうがないかって納得してた」

きっと今の俺は顔が緩みきってにまにまとだらしない顔をしているのだろう。そんな俺を見て、「そうかよ」なんてぼそりと呟いた三ツ谷は気恥ずかしそうにぽりぽりと頭をかく。ここ数週間スッキリしない気持ちを抱えていたのが嘘のようだ。まあ、

「それはそれとして八戒くんには会ってみたいけどな」
「はあ? まだ諦めねえのかよ」
「だから言ったじゃん、納得はしたけど、どんな奴なのかは気になるよ」
「そこまで会いてえのかよ……」
「うん」

だって俺の知らない三ツ谷の話をたくさん聞いたいのだ。とは、恥ずかしくて言わなかったが。

「………しょうがねえな、分かったよ」
「マジ? やったあ!」

三ツ谷は苦々しい顔で渋々了承してくれた。「サンキュー!」とお礼を言えば「礼が軽いんだよ」なんて不貞腐れた調子で返された。そのまま三ツ谷は帰り支度を再開させながら「つーかなんで八戒のことは名前で呼んでオレのことは名字なんだよ」とぶつぶつ文句を漏らす。

「………、」

確かに三ツ谷の言葉にも頷ける。付き合ってるなら名前で呼んでもいいはずだし、俺が逆の立場であればちょっと納得いかない。

「た、……隆」

と、そう思って呼んでみた。はいいものの。
三ツ谷のことを何気に今まで名前で呼んだことがなかったため、面と向かって名前を呼ぶとなんだか照れ臭い。それは三ツ谷も同じなのか、名前を呼んだ瞬間面食らったような顔をしたかと思えば、みるみる頬が赤く染まっていく。
俺と三ツ谷の間に、なんとも言えない沈黙が流れる。

「……もっかい言って」
「も、もっかい」
「うん」

「隆」。もう一度、舌で少し転がしてからその名を呼んだ。すると三ツ谷が真面目な顔をして、きゅ、と小さく口を結ぶ。
「なまえ」。名前を呼んだことに対して返事をするように俺を呼んで、三ツ谷が一歩俺に近づく。
ラベンダー色の瞳から目が離せない。その瞳はただ真っ直ぐに、俺のことを見つめている。
三ツ谷の指が頬に触れる。それに体がぴくりと動きそうになる。そのまま手を添えられて、三ツ谷の唇が俺に触れた。

「──……、」

それは一瞬だった。初キスはいちごの味らしいとか、どんな温かさでどんな感触だったとか、そんなことを確かめる間もなく、三ツ谷の唇は離れていった。
でも確かに、俺と三ツ谷の唇がくっついた。

「……うっへへ」
「おい、変な笑い方すんなよ、台無し」
「ごめん、嬉しくて」

だって初めてのキスだ。そう実感した途端、胸の奥からどうしようもない喜びが込み上げて、抑えられずに緩みきった口から我ながら気持ち悪い声を漏らしてしまった。でも笑みを漏らしたのは嬉しすぎたから、だけが理由じゃない。

「それに三ツ谷、真っ赤なのにすっごい真剣な顔してたから」

それが何とも可愛くて、胸がぎゅうと締め付けられたのだ。この感情をきっと愛おしいというのだろうか、きっとそうだ。本当に、三ツ谷といると新しい発見ばかりである。

「それだけお前に真剣ってことだよ、馬鹿」
「……………」

三ツ谷は俺の言葉に何だか不満げだったけれど、ぽそり、顔を赤らめて目を逸らしながらそうこぼした。
そんな顔をして、そんな仕草でそんなことを言う三ツ谷がもうなんか愛おしすぎて感情のキャパシティを超えたのか、ごっそり言葉が口の中から抜け落ちてしまう。なんだこいつ、俺をキュン死にさせる気だろうか。もう何を言ったらいいのか分からない。一方で三ツ谷は俺から反応が返ってこないことに痺れを切らしたのか、ちらりと目線を遣りながらその口を尖らせる。

「…おい、そこで黙るなよ、恥ずいだろ」
「………好きだ三ツ谷…………」

好きだ、ああ、マジで好きだ。その反応も、その言い方も、もう全部。胸に収まらない思いが声に漏れ出て、そのまま彼に抱き着いた。それに三ツ谷は一瞬身を固くしたけれど、やがて「オレも」、と耳元に届いた言葉とともに背中に回された腕にまた俺の頬がゆるゆるになる。
抱き着いたら分かる彼の体格の良さも、カーディガンに染みつく三ツ谷の匂いが堪らない。思い切り吸い込んだら「吸うな」って怒られたけど、「だって好きなんだもん」と返したら返事の代わりにため息が降りてきた。

「ほら、帰んぞなまえ」
「はーい」

手を引かれて夕陽に染まる家庭科室を後にする。あまりに浮かれてスキップしたら三ツ谷に呆れながら笑われたけれど気にしない。
三ツ谷とキスをした。
こんなに幸せすぎていいのだろうか。15歳にして、俺は今人生の絶頂にいるのかもしれない。