隣の席の乾くんは筋金入りの不良だ。
中学の時に少年院から戻ってきた早々喧嘩をやらかして怪我をしたとか、真っ白な特攻服を着て毎日暴力沙汰を起こしているとか、高校入学早々、乾くんの周りではそんな物騒な噂ばかりが飛び交っていた。同じクラスの男子は物騒な噂がつきまとう乾くんのことを敬遠して積極的に話しかけたりはしなかったが、彼のいないところではひそひそと噂話ばかりをしていた。一方で、一部の女子は彼を話題にしてはちょいワルなところがカッコいいとか、ちょっとアンニュイな感じがイイとかできゃいきゃい騒いでいたりしていて(確かに顔は中性的で整っている)、乾くんはある意味人気者だった。当の本人はといえば、周りの雑音を気にする素振りも見せずただ毅然としていて、乾くんはいつの間にかクラスの一匹狼的な存在になっていった。
そんな乾くんと俺の接点というのはほとんどない。隣の席だからグループワークとかで一言二言話したりすることはあれど、それ以外の会話というのはほとんどしたことがなかった。俺も他の男子の例に漏れずビビって自分から話しかけられなかったのもあるが、乾くんも普段静かなタイプなので、必要なこと以外で俺と彼の間で生まれる会話というのは無いに等しかった。

「みょうじ、何してんの?」

が、そんな乾くんが数日前、話しかけてきた。放課後、友人のことを教室で一人待っていた時に乾くんがやってきたのだ。

「友達のこと待ってる、…乾くんは?」
「……オレもそんな感じ」

話しかけられるとは思わなかったので、若干言葉に詰まりながらも返事をする。乾くんもどうやら人を待っているようで、何も言わずに俺の隣までやってきて、そのまま席に腰を下ろした。一瞬その距離の近さに戸惑ったが、乾くんの席は俺の隣である。自分の席に座るのは当たり前だった。

「……………今日の小テスト、どうだった?」

その場に流れる沈黙に耐えきれなくなって、会話を始めたのは俺からだった。
幸い、乾くんも会話をしてくれる気はあるようだった。少しぎこちなかったが、ぽつりぽつりと話が続いていく。授業のこと、得意科目のこと、先生のこと、話が少しずつ広がっていく。
そうして乾くんと話していると、俺が抱いていた彼の印象も少しずつ変わっていった。なるほど、乾くんは普通に話せるやつだ。たしかに見た目は金髪だし髪型だって不良っぽい。時折見せる視線の鋭さに怯むこともある。けれど、話している分には彼は他のみんなと変わらない、俺と同年代のやつだった。なんだ、こんなに普通なら、乾くんのことをちょっと怖がっていた俺が馬鹿みたいだとも思った。
やがて会話の内容が学校から離れて、最近観ているテレビの話になった。ちょうど芸能雑誌を読んでいたから、話題としてはぴったりだ。お笑い番組からドラマの話になって、いつのまにか俺のページを捲る手はすっかり止まっていた。

「そうそう、それで今度始まるやつ、結構楽しみにしてるんだ。主演の女優が結構好きで、さ……」

そうしてしばらく話していたのだが、ふと乾くんが真顔で黙っているのに気が付いた。それに言葉尻がしぼんでいって、連動して声も小さくなっていく。いつからだろう、もしかしてずっと俺一人が盛り上がっていたのだろうか。もしそうならどうしようもなく恥ずかしくて、続きが何も言えなくなってしまった。お互いの間に再び気まずい沈黙が降りてくる。
乾くんは何も話さない。なんならちょっと眉間に皺も寄せている。もしかして怒らせただろうか? うるさすぎただろうか、楽しくて喋りすぎた自覚はある。怒られる前に謝ろうかと思い始めたところだった。

「……好きだ」

乾くんがぽつりと一言、そう漏らしたのだ。

「……うん、俺も好き。かわいいよね」

なんと。衝撃である。乾くんと好きな女優の趣味が合うとは。もしかしてあまりにも好きすぎて黙っていたとか? ちょっと意外だが、なんだか嬉しくて自然と頬が緩む。ならばと話の続きを持ちかけようとした瞬間だった。がたり、勢いよく乾くんが立ち上がった。

「え、っどうした?」
「オレ、帰る」
「え、あ、おう、…あれ、でも友達は?」
「先に下駄箱にいるって連絡が来た」
「あ、そうなんだ…?」

携帯見てないけど分かるのか? テレパシーなのだろうか。あまりに急な行動に気圧されつつも、教室から出て行く乾くんに「じゃあ、また」と挨拶をする。

「……みょうじ」
「なに?」
「明日から、よろしく」
「あ、こちらこそ……」

出入り口で立ち止まった乾くんは、それだけ言って教室から出て行った。

「………よろしく?」

明日から? 一体何に? 彼の言葉を疑問に思ったけれど、それよりも気を取られたのは彼の表情だった。俺の返事に、乾くんが僅かに口角を緩ませて柔らかく微笑ったのだ。乾くん、こんなふうに笑うんだな………とちょっと感動した。
教室に一人になった後も、彼の笑顔が妙に頭に残っていて、ぼんやりと彼の笑顔を思い返していた。乾くんの笑った顔、初めて見たな…、なんて感慨に浸っていたら友達が来たので話したけれど、そもそも乾くんが笑ったことを信じてくれなかった。乾くんのことをなんだと思ってるんだ……なんてちょっと突っ込みたくなったが、それだけ貴重なものを見たのだと思うと、ちょっと得した気分になった。





「みょうじ、帰ろう」
「…え、……うん」

次の日から、何故か乾くんと一緒に帰るようになった。ホームルームが終わり話しかけてきた乾くんに、昨日に続いて話しかけてきた! と驚いたが、昨日の「よろしく」の意味を考えればなるほどと納得がいく。正直なんで俺と? とは疑問に思ったけれど、特に断る理由はなかったので乾くんの言葉に頷いた。クラスの友達が驚いたような顔で見てきたけれど、気にせずに乾くんの後に続いて教室を出た。
だが、自分から帰ろうと言ってきた割には、乾くんは驚くほど寡黙だった。それこそ一番初め、一緒に帰った時に交わした言葉は「帰ろう」「家どっち方向?」「また明日」、その三つだけと言っていいほどだった。だから帰り道、なんで俺と帰りたがるんだろう(確かに家の方向は一緒だった)、気まずいなあなんてずっと考えたりしていたが、そんな時間が何回か続くうち、その沈黙が不思議と居心地良く感じるようになった。乾くんの空気感というのか、それが柔らかくて落ち着いているからなのか、ただ慣れただけなのか。乾くんが二人で帰る時間をどう思っているのかは分からないが、少なくとも俺はつまらないとか、退屈だとか思わなくなった。時間が合う時には朝も一緒に学校に行くようになって、流石に何回目かの登下校の最中には会話も何往復かするようになったし。
友達に「カツアゲでもされてんのか」、「変なのに目をつけられる前に付き合うのはやめた方がいい」とか、心配されたけれど。それでも、乾くんと帰るのをやめるつもりはなかった。意地ではない。ただ、乾くんと帰るのが楽しかったのだ。





「イヌピー、行こうぜ」
「あ、……忘れてた」
「は? おい、マジかよ。完全に惚気てんじゃん」
「ココうるさい…。みょうじ、今日は途中までこいつも一緒に帰っていいか? こいつ、オレの幼馴染」

乾くんと一緒に帰り始めて一週間が経った頃。乾くんの友達だという九井くんを紹介された。どうやら二人には放課後用事があるらしく、乾くんはその用事とやらを忘れていたようだ。九井くんにも悪いし、「途中まで一緒に」と言う乾くんにそこまでして俺と一緒に帰る必要はないと断ったのだが、何やら乾くんの固い意志めいたものを感じたので断りきれず、結局三人で帰ることになった。実は乾くん、頑固なのかもしれない。
乾くんの幼馴染だという九井くんは、かなりの秀才だと学年の中でもちょっとした有名人だった。そんな九井くんと乾くんが幼馴染だったとは。俺は思ったよりも乾くんのことを全然知らないのだな。明かされた乾くんの交友関係のことを思うと、何だか少しさみしい気持ちだった。

乾くんを真ん中にして、だらだらと歩きながら会話が流れていく。九井くんは奇抜な髪型をしていて近寄り難い印象があったけれど、話してみると乾くんと同じように思っていたよりも普通に話せて少しほっとした。やっぱり人は見かけによらない。
会話の中心は九井くんで、九井くんが乾くんに話を振って、それに乾くんが返す。淡々とした、時折盛り上がりを見せる会話の応酬は、俺と乾くんの間にはないものだった。やはり幼馴染だけあって付き合いが長いのだろう、二人のやりとりは聞いていて面白い。

「──みょうじ、なに笑ってんの?」
「いや、二人って仲良いなあと思って」
「……ふうん」

自然と口角が上がっていたのだろう、怪訝な顔の九井くんにそう返せば、彼は意味ありげにニヤついた。なんだ、その「ふうん」て。反応がよく分からなかったが、それから何を思ったのか、九井くんは俺に何かと話を振ってきた。それに応えていたら乾くんは乾くんで何故かだんまりを決め込んでしまって、その日は別れるまでずっと九井くんと話していた。
それからたまに、乾くんに加えて、九井くんとも一緒に帰ったりするようになった。





それからまた数日後。
二人で帰ることにすっかり慣れた帰り道、その別れ際にちょっとした変化が訪れた。
俺の住むマンションの方が学校に近いので、俺は自然と乾くんを見送る形になる。だからいつもはマンションの前で軽い挨拶を交わして別れるのだが、今日はエントランスの前で乾くんが立ち止まった動かない。何やら真剣な顔をして黙ったままだ。
何かあったのだろうか。乾くんと話すようになってから、表情の変化に乏しい彼の感情を読み取るのに慣れてきたので、僅かに眉を寄せるその顔が怒っているのではないと分かるようになった。今回もそうだ。何かを考えているのだろうか。だとしたら何だろう。言いたいことでもあるのだろうか。
とりあえず待つか、と俺も何も言わずにその場に留まることにした。そうしてしばらく彼の様子を見守っていると、「みょうじ」、乾くんがぼそりと俺を呼んだ。

「………?」

何を言われるのだろう、とちょっとドキドキしていたのだが、乾くんは何も言わない。その代わりとでも言うように、俺の手を取ってきゅ、と両手で握られる。包み込まれる、と言ったほうが正しいだろうか。どちらにしても俺の手を握るその手つきは、ひどく柔らかくて優しかった。

「……乾くん?」

乾くんの意外な行動に、どうしたのかと彼の顔を見遣る。そしてまた驚いた。彼の顔は赤く染まっていた。色が白いから余計によく分かる。
頬を淡く染めたまま、乾くんは何も言わない。俺も何も言えなかった。ひんやりとした冷たい手に包み込まれて、ただされるがままになっていた。
どれだけそうしていたのか。多分時間にしては短かった、数秒くらいだと思う。けれど俺にとってはやけに長く感じる時間だった。

「また、明日」
「……うん、じゃあ」

結局、俺の手を握っている間、乾くんは何も言わなかった。
そっと俺の手を離して、ちらりと俺と視線を合わせて。そしていつもの挨拶で乾くんは帰っていった。
その後の俺は、握られていた時の感触を思い出すように、手を何度も握り直していた。





「あれ、イヌピーいないじゃん」
「あ、九井くん」

翌日。放課後の教室で一人乾くんを待っていると、九井くんがやってきた。

「みょうじもイヌピー待ち?」
「うん、ちょっと前に野暮用とかでどっか行っちゃって」

どうやら三年の先輩に呼び出されたらしい。「そんなに時間かからないから、待っててくれると嬉しい」と言い残して乾くんは教室を出て行った。時間がかかってもある程度は待つつもりだったが、先輩の用件にもよるだろう。呼び出された理由は大体が想像はつく。

「九井くん、乾くんに何かあった? そしたら俺先に帰るよ、邪魔しちゃ悪いし」
「いや、いたら伝えようかと思ってたけど、別にメールで事足りるしいいわ」

一度そこで会話が途切れる。少しの間を置いた後、九井くんが「イヌピーとはどうなの?」と聞いてきた。

「え? どうなのって……ふ、フツウだけど」
「フツウって、面白くねえ回答」

そう言いながら九井くんは鼻で息を吐く。じゃあどう答えればいいのか。どう考えてもフツウだ。一緒に帰って他愛のない話をして別れる。朝もたまに一緒になることはあるが、そこでするのは帰り道と同じく些細な内容の話ばかりだ。

「…あ、でも」

フツウでないことを挙げるとしたら。昨日のことを思い出して口にしようとしたけれど、言葉が舌先まで出かかったところで止まった。何となく、九井くんに言うのは憚られたからだった。けれど九井くんはお見通しらしい、にやりと薄ら笑いを浮かべて「手、繋いだ?」と聞いてきた。いや、ホントなんで知ってるんだ。

「まあ、繋いだというか、握られたというか……帰り際に、ちょっとだけ」
「……あー……そう」

そう、あれを「繋いだ」と言うのかは果たして微妙なところである。かと言って握手というわけでもないので、握られたというのが正しいだろう。
これは多分、普通に一緒に帰るだけだったら、しないことだと思う。けれど九井くんは俺の答えをお気に召さなかったらしい、彼はなんだか微妙な表情で歯切れの悪い反応を見せた。

「…なんで?」
「…いや、こっちの話。イヌピーによろしく言っといて」

きっと九井くんは色々と知っているのだろう。そう思って聞いてはみたが、はぐらかされた挙句、また意味ありげな言葉を残して帰っていった。結局乾くんの謎の行動の意味も、九井くんが俺と乾くんのことを聞いてきた理由も教えてくれないままだ。
もやもやする胸を抱えたまま眉を寄せていると、傷一つない状態で乾くんが戻ってきた。そしてその日も帰り際、少しだけ手を握られた。





乾くんと一緒に帰り始めてそろそろ一ヶ月が経つ。一緒に登下校するだけの仲だけど、「隣の席に座っているクラスメイト」からはだいぶ仲良くなったはずだ。九井くんの時のように流暢な言葉のキャッチボールとまではいかないけれど、それでも乾くんが俺の言葉で小さな笑みを浮かべてくれたりすると、楽しんでいてくれているのだと俺も嬉しくて自然と頬がゆるゆるになる。
乾くんと一緒にいるのは楽しい。けれどたまに、ちょっとだけ心が沈む時があった。九井くんの「こっちの話」とは一体どんな話なのだろうかとか、乾くんと九井くんの間には、一体何があるんだろうかとか、ただのクラスメイトの俺と幼馴染の九井くんとでは、どうしたって埋められない差がある、とか。胸の片隅に引っ掛かっているそんなことが不意に思い出されたりした時は、乾くんに話しかけたりして気を紛らわせていた。今日もそうだ。わざと別のことを考えて、心に影が差すのに気付かないふりをした。

「じゃあまた明日」

それにしたって、一ヶ月前はまさか不良の乾くんと一緒に帰ることになるなんて想像も付かなかったな。ぼんやり考えながら乾くんの大きな手に包み込まれた自分の手に視線を落とす。別れ際に乾くんに手を握られるのは最早恒例行事だ。今日もいつもと同じで、きゅ、と効果音がつきそうな優しいタッチで手を握られて、いつもの挨拶をしてから別れる、……はずだったのだが。
数秒だけのそれが、今日は数秒経っても離れない。それどころか、乾くんは俺の手を引いて歩き始めた。これなら九井くんに自信を持って「手を繋いだ」と言えるなと一瞬呑気なことを考えたが、普段とは違う乾くんの行動に、俺の胸はざわざわと騒ぎ始める。

「……乾くん?」

どこに行くのかと思ったら、エントランスのすぐ脇にある、マンションの自転車置き場だった。そこは生垣に囲われていて、階段の真ん前よりかは人目には付きにくい。
わざわざそういう場所に移動したのには、何か理由があるのだろう。何か言われるのだろうか、何かされるのだろうか。いよいよ不安で胸の動悸が激しくなってきた。
俺よりも少しだけ背の高い乾くんを見上げる。目と目が合った瞬間、繋いだままの手を、僅かに強く握り直された。
俺の問いかけに、乾くんは何も答えない。代わりにじりじりと、俺と乾くんの間にある空間がなくなっていく。乾くんの整った顔が近付いてくる。エメラルドグリーンの瞳は、真っ直ぐに俺を写している。その瞳に見入られて、ひゅ、と息を呑んだ。
キスをされる。
お互いの鼻先がくっつきそうになったところでそう理解した瞬間、気づけば乾くんの体を突っぱねてしまっていた。

「ちょ、っちょ、っと、待った」
「………嫌だった?」

顔が熱い。息が苦しい。耐えきれずに乾くんから顔を逸らした俺に、乾くんは「ごめん、」と言葉を続ける。その声が妙にしおれているように聞こえてちらりと乾くんを見遣れば、彼はその太い眉を微かに寄せて、不安そうな表情をしていた。なぜそんな顔をするのか。なぜ俺にキスなんてしようとしたのか。今日の乾くんはおかしい。まるで捨てられた子犬のような彼の表情を見て確かな罪悪感を覚えている、そんな俺もおかしい。

「いや、っていうか…なんで?」

でも、はっきりさせておかないといけない。思えば手を握られるのだってそうだ。俺が嫌だとか嫌じゃないとか、そういう問題ではないのだ。

「こういうのって、付き合ってる同士がするじゃん」
「…………は、」
「俺と乾くん、って、付き合って、ないよね…?」

乾くんの表情が固まった。
視線がさまよう。右に、左に、瞳が揺れる。 
俺が放った一言は、明らかに乾くんを動揺させていた。
俺は何か間違ったことを言っただろうか。いや、たぶん言ってない。俺と乾くんは、クラスメイトから最近友人の関係に昇格した、登下校を一緒にする程度の間柄だ。そのはずだ。
ぐるぐると思考がまとまらない。付き合っていないのだからキスはしない。だから拒否しても咎められることはない。なのに、どうしてこんなにも後ろめたい気持ちになるのか。
乾くんの動揺が俺にも伝染ってしまったかのように、胸がじりじりとして波立っている。握られた手はどちらのものか、じわりと汗ばんでいた。

「………オレは」

乾くんが小さく口を開く。そこから発された声は、今までにないくらいか細いものだった。

「…………オレ、は、付き合ってる、のかと」
「え」
「あの時、みょうじが…『俺も好き』って、言ってくれたから」
「え………」

呆然として、なんの言葉も出てこなかった。乾くんの声が一瞬、やけに遠くに聞こえた。
俺、そんなこと言ったっけ? 
全く見に覚えがなかった。けれど乾くんが聞いたのだから、確かに言ったのだろう。内心テンパりつつも懸命に記憶を掘り返してみて数秒、

「…………………待って、乾くん、アレ、俺に告白してたの?」

一ヶ月前、確かにそんなことを言ったのを思い出した。
乾くんが話しかけてきたあの日の放課後、「俺も好き」と確かに言った。ただしアレは、俺があの時読んでいた雑誌に載っていた人気若手女優のことを言っているのかと思ったのだ。乾くんはこういう感じの子がタイプなんだな、意外だと、見当違いのことも考えていた。
でも乾くんにとっては違った。そういえば、あの時の乾くんは、女優が好きとどうでもいいことを言うにしては、随分真剣な顔をしていた、ような。
もしかして俺は、とんでもない勘違いをしたままこの一ヶ月、ずうっと乾くんと過ごしていたのか?
思わず乾くんを見つめてしまう。視線がばちりと合わさると、乾くんの顔はいよいよ真っ赤に染まっていった。なんなら首の付け根から耳のはじっこまで煮立ったかのようだ。その反応を見て確信してしまった。
彼が好きなのは女優ではない、俺だ。
なら、「好きだ」の一言から突然一緒に帰るようになったのも、別れ際に手を握られるようになったのも、さっきキスをされそうになったのも、謎だと思っていた全ての行動に説明が付く。なんなら九井くんと話している時に乾くんが少しだけむすっとした不機嫌そうな顔をしていた理由も、俺が乾くんとのことを話す度に九井くんがニヤニヤと意味ありげな笑みを浮かべていた理由も、全て察しが付いてしまう。

「……ご、ごめん………。……俺、てっきり女優の方だと………」
「オレも、ごめん……早とちり、した」

どうしようもない勘違いをしていたことが乾くんに申し訳なさすぎて、居た堪れなくて亀のように身を縮こませたい気持ちだった。でも、俺よりもずっと、乾くんの方がそうしたいはずだ。
口を数秒開け、なんとか声に乗せて口に出した謝罪は、それはもうひどく弱々しいものだった。それと同じくらい、風が吹けば消えてしまいそうな声で乾くんはそう言って、ついには唇を噛んで俯いてしまう。

「…………」

ああ、なんてことだ。空いた口が塞がらないというのはこのことか。まさか、乾くんが俺のことを好きだなんて。
まるで斜め後ろから鈍器で思い切り頭を殴られたみたいな衝撃だった。驚きと困惑が胸の中で激しく渦巻いている。けれどそれ以上に、乾くんに好意を寄せられていると知って確かに嬉しいと感じる自分に、どうしようもなく戸惑っていた。
だって俺と乾くんは全然違うタイプの人間だ。ただのクラスメイトで、今までほとんど接点なんてなくて、しかも男同士なのに、
 
「──付き合わせて悪い。明日から、一緒に帰らなくていいから」

頭の中が考えで埋め尽くされそうになった時、乾くんの声によって現実に引き戻された。
乾くんの言葉を理解する前に、彼は「じゃあ、」と短く言って俺に背を向ける。どんな顔をしていたのか、乾くんの表情は見えなかった。

「っ待って、」

言葉を発するより先に、体が動いていた。踵を返して帰ろうとする乾くんの腕を掴む。引き止められるとは思っていなかったのか、乾くんが驚いたように俺を見た。薄いエメラルドの瞳が俺を捉える。

「……あの、」

何か、何か言わないと。
乾くんと視線が交わる。瞳が瞬いて、じ、と俺を見つめている。
口がわななく。喉の奥がきゅう、と締まる。心臓がどうしようもなく早鐘を打っていた。

「………一緒に帰るの、付き合わされたとか思ってない」
「……無理しなくていい」
「…無理、してない」

声が震えそうになるのを我慢しながらなんとか俺が口に出した言葉を、乾くんは優しく否定した。俺が気を遣ったと思ったのだろう。乾くんの声は柔らかかった。でも本心だった。無理なんてしていなかったし、なにより楽しかった。それ以上に、

「それに、乾くんのこと、かわいいって思ったのは、本当………」

一言だけでは足りない。
自分がしたくてしていたことなのだと、何とか説明しようと回らない頭を無理矢理回した。結果余計な一言が出てしまって、声に出した直後から後悔する羽目になった。俺は一体何言ってるんだ。相手は少年院行ってた特攻服着るようなバッチバチの不良だぞ。そんなやつのことを「かわいい」だなんて。女子に言われるならまだしも、同じ男になんてもってのほかだ。俺だって言われたくないのに、乾くんなんかもっと言われたくないに決まっている。こんなのフォローでもなんでもない、どうしようもない。思わず自分を取り繕うような渇いた笑みが溢れる。

「はは、俺乾くん相手に何言ってんだろ……ごめんほんと、気を悪くしたら」
「いや、嬉しい」
「へ、……」

早口で謝罪をした俺の言葉の上に、乾くんの言葉がかぶさる。それに呆けた声が漏れた。
嬉しいの? 「かわいい」で?
「不良」には似つかない、真逆な言葉を言われても?

「……みょうじになら、そう言われても、嬉しい」

戸惑う俺に乾くんがちらりとこちらを見て、そしてぽそりとそう言った。
頬を淡く染めてそんなことを言われてしまって、今度は俺が固まる番だった。
素で言ってるのか? だとしたら乾くんは恐ろしいやつだ。こんな殺し文句をさらりと言ってしまえるなんて。しかもそんな乾くんを、やっぱりかわいいと思ってしまった。乾くん、同じ男でケンカめちゃくちゃ強い不良なのに。俺はやっぱりおかしくなってしまったのだろうか。

「あの、乾くんがよければ……、明日からも、一緒に帰れると……嬉しいです」
「………うん」

ああほら、気付いたら「また一緒に帰ろう」だなんて、そんなことまで言ってしまった。そして俺の言葉に嬉しそうに頷いて僅かに口元を緩める乾くんのことを、またかわいいだなんて思ってしまった。

「じゃあ、また明日」
「うん、また明日」

「また明日」。いつもの言葉で乾くんの後ろ姿が消えるまで見送ってから、俺も家へと足を向ける。

「……乾くんは、俺のことが好き」

確かめるように、小さく声に出してしまう。つい数分前の出来事を何度も頭の中で反芻してしまう。その度にじわじわと嬉しい気持ちが胸に広がっていく。もうおかしくてもいい。これが今の俺の正直な感覚で、確かな気持ちだ。
次の日も、その次の日も乾くんに会える。
乾くんに返事をしなきゃ。
ああ、明日も楽しみだ。