俺の恋人は猫被りだ。
そんな恋人の、ふとした時に垣間見える素の表情が好きだ。
「春千夜、遅刻するぞ」
「ん"…………」
例えば寝起き。朝が弱くて中々起きないところも、頑張って起きようとして、思い切り眉を寄せながらむくりと起き上がるところがかわいらしい。普段はすました顔をしているだけに、朝の眠気と戦う彼の姿はギャップ萌えだ。
お互いが仕事の日は、朝は俺が家を先に出ることが多い。そしていつも俺が先に起きて先にベッドを離れ、そして先に支度が終わる。彼はといえば俺が出かける頃にようやく目が覚めてきて、裸足でぺたぺた音をさせながら玄関まで見送ってくれるのが朝の恒例である。
「じゃあ行ってくるわ」
「ん」
まだ完全に目が覚めていないのか、彼は眠そうにその目をしぱしぱと瞬かせる。唇にキスを落とし、寝癖でぴょんと立ったピンク色の前髪を整えてやる。それに僅かに眉を寄せた恋人を見届けて玄関のドアに手をかける。
「なまえさん」
が、スーツの袖を控えめに引っ張られて引き止められる。それに振り返ると、彼は俺から視線を少し横にずらしながら、寝起きのままの少し掠れた声で小さく口を動かした。
「オレ、明日休みもらってて」
「うん」
その先の言葉は言わなくても分かっている。「だから、」と口をまごつかせる春千夜に頬を緩めつつ、俺を引っ張ったその手をゆるく握った。
「帰ったらしよう、俺も残業しないよう、頑張る」
「…ん」
もう付き合って何年にもなるのに、未だに彼からのお誘いの仕方はぎこちない。
もう一度唇を合わせながら言えば、それに彼は再び眉を顰めてきゅ、と口を結んだ。その仕草がこぼれそうになる笑みを我慢するための照れ隠しだということを知っているので、それにまた口元をゆるゆるにしつつ、「じゃあ、」と一言置いて今度こそ家を出た。
「………なんかあったっけ?」
マンションのエントランスを出て歩き出したところで、思わず口に出してはて、と首を傾げる。
明日は何かの記念日だっただろうか。何しろ朝からお誘いを受けるというのは今までほとんどなかったし。記念日ならば俺もそれ相応の準備をしないといけない、とスケジュール帳を確認したが、幸いにもなんでもない日だった。なるほど、ただしたいだけのようである。それであのお誘いをしてくるのだからかわいいやつだ。まあでも、最近お互い忙しかったからできていなかったし、たまにはケーキでも買って帰ろうかな、なんてとりとめもない考えが頭をふわふわと舞う。
まだオフィスに着いてもいないのに、仕事終わりのことを考えながら足を動かして。夜のご褒美のことを考えたら、会社に行く足取りも自然と軽くなるものだ。
俺の恋人、三途春千夜は猫被りだ。その上面倒臭い。後者についてもう少し詳しく言うならば、愛が重く、かつ束縛が激しい。
数時間おきに来るメッセージには必ず返事をしなければならないし(一緒に住んでいるのに)、スマホだって常時チェックされているし、俺が一人でどこか出かけたり、飲み会に行って帰りが遅くなろうものなら必ず事前に話をしておかないと大変なことになる。覚えておかなければいけない記念日はたくさんあるし、その一つ一つをささやかでもきちんとお祝いもしなければならない。それからなんでもない日に高級ブランド品を贈られたりなんだりと…春千夜の典型的な束縛激しい&重い恋人エピソードを上げ出したら枚挙にいとまがない。
とにかくそんな面倒臭い男が恋人になりだいぶ経つが、大小含めた喧嘩はいくつかあれど、総じて見ても俺と春千夜の仲は良好と言っていいだろう。同僚には「よくそんな重い女と付き合ってられるな」と言われるが─彼は勝手に春千夜のことを女だと勘違いしている─、俺はこれを褒め言葉として受け取っている。
春千夜と知り合ったのは、友人から紹介されたのがきっかけだった。
もう随分前になるが、まだ俺が学生の頃、当時暴走族に入っていた物騒な幼馴染とばったりコンビニで出くわしたことがあった。その時幼馴染にくっついていたのが春千夜だ。流れで紹介され、お互いペコリと挨拶を交わしたのを覚えている。その時幼馴染に「お前と隣にいるとエンコーみたいだな」とこっそり言ったら殴られたのが懐かしい。
第一印象はきれいな子。俯くと長いまつ毛が影を落とす様に、どことなく儚げなイメージも持った。幼馴染のイメージが強いせいか、こんな子も暴走族に入るんだなあ、と驚いた記憶がある。それから、健気で忠誠心の強い子だなあとも。幼馴染への尊敬ぶりや忠犬ぶりを見ていたし、慕っている人間の友人である俺に対しても丁寧で礼儀正しかった。不良でもしっかりしているんだな、とちょっと感心したものだ。
で、そんな春千夜に告白された時は驚いた。幼馴染ならまだしも、その友人である俺が、まさかそういう対象として見られているとは思わなかったからだ。
とはいえ、困惑はしたが嬉しかった。告白された時には結構な長い付き合いになっていて最早見知らぬ仲ではなかったし、正直な話、春千夜ならイケるかも、とも思った。けれどどんなにきれいな顔をしていても彼は男だ。男を恋愛対象として見れるかが分からなかったので、正直な気持ちを伝えた。「気持ちは嬉しいけど、春千夜の気持ちに沿えるかどうか分からない」。それに彼は「それでもいい」と言った。「それでもいい、試しでもいいから付き合ってくれ」と、そんなようなことを。
そんなこんなで付き合い出して、春千夜が所謂重くてめんどくさい恋人だと気が付くのにそう時間は掛からなかった。そして彼が、俺の前では猫を被っていることも。
正直な話、猫被りに関しては実際に春千夜が喧嘩しているところを見かけたことがあり、付き合う前から素の彼の姿を知っていた。その時は顔に似合わず粗暴で喧嘩っ早い性格なんだと驚いたものである。
だが、付き合ってからも彼の俺の前でのいい子ちゃんムーヴ─礼儀正しくたまに見せる健気さとあざとさがツボである─は変わらなかった。それに素を知られたくないのかなあと、俺も俺で知らないフリをしていたらずるずるとそのフリが今の今まで続いてしまっている。一時期その猫被りの理由が俺に嫌われたくなくて素を隠しているのか、あるいは俺を信用していないからなのかと悩んだ時期もあったのだが、そんな若い悩みはとうの昔に消え去ってしまった。だってあんな束縛激しくて愛が重いのに、、猫被りの理由が後者なんてあるわけないだろ。
最初はちょっとした好奇心に揺れてとんでもない奴と付き合ってしまったなあ、なんて思ったものだが、今は束縛の激しさも、彼の愛の重さも心地良いとすら感じてしまっている俺がいる。今思えば、あの時「イケるかも」なんて思っていた俺の気持ちが見透かされていたのかもしれない。結果バッチリイケてしまったわけである。強かな春千夜の作戦勝ちだ。
こうして、彼にどっぷり浸かってもう何年も経つ。
いつものように春千夜とこまめにチャットをしつつ仕事を残業ほぼゼロで終わらせ、駅ビルで彼の好きなケーキを買ってきて帰宅した。春千夜のことを考えていたら時間もあっという間だ。
流しっぱなしのテレビから聞こえてくるのは反社会的勢力同士の抗争のニュースだ。小競り合いがあったらしく、どうやら死人も出たらしい。最近は物騒だなあなんて思いつつ、それをBGMにして、ご機嫌に流行りのラブソングを口ずさみながら夕飯の準備を進める。
今日のメニューはペンネ・アラビアータと野菜サラダ、それからコンソメスープだ。春千夜が帰ってきたタイミングで出来上がるように計算して作り始めた調理は終盤に差し掛かり、あとはソースとペンネを絡み合わせるだけ。うん、我ながら完璧である。
ふんふん唄いながら濃厚なトマトソースに茹で上がったペンネを投入しようとした時である。ガチャリと鍵を開ける音が耳に届いた。連絡の通り小一時間程で帰宅した春千夜を出迎えに、火を止めて玄関に向かう。お互いがお互いを出迎える、俺と春千夜の中で取り決められた暗黙のルールのひとつである。
「おかえり〜」
間延びした声で能天気に出迎える。一方の春千夜といえば、靴を脱ぎ散らかしてドスドス音を立てて俺の方へと大股で向かってきた。なんだ、怒ってるのか? と若干身構えて体が止まる。長いまつ毛がかかった瞳と視線がぶつかったが否や、胸ぐらを掴まれ唇を塞がれた。
荒々しいキス。口から漏れるその息は乱れて熱い。腰を引き寄せられ、きつく抱かれながらなす術もなく、まるで俺の息を呑み込むような口付けを受け入れる。それがしばらく続いて、息がそろそろ苦しくなってきたところで唇が離れた。春千夜も同じだったのか、は、と籠った熱を吐き出すように息を吐く。
卸したてのかっちりとしたスーツ、腕の高級時計にふわりと香る香水。見た目や香りで隠そうとしているが、春千夜のギラついた瞳を見てすぐに悟った。
春千夜がそんな貪欲で凶暴な目つきをしているときは、激しい暴力の後、もしくは一発クスリをキメた後。あるいはそのどちらか。目が据わってるこの様子から見るに、恐らくこれはどちらもだ。
「ご飯は?」
「……なまえさん」
「はは、俺? 美味しくいただいてくれよ」
とりあえず聞いてみれば、俺の言葉を聞いていたのかいないのか、よく分からない答えが帰ってきた。まだラリってるのだろうか。冗談半分に笑えば、春千夜に強引にキスをされる。
「は……っ、ン、ん」
「ふ……、は、っぁ、」
春千夜に連れられるがままなだれ込むようにして寝室に入り、そのまま乱暴な手つきでお互いの服を脱がせていく。
「ン、はるちよ、今始めたら、途中でお腹空くよ」
春千夜の答えは分かっているので野暮なのだが、せっかく作った料理が冷めるのはなあ、と思ったのでとりあえず聞いてみる。案の定彼は俺のズボンに手をかけながら「分かってンだろ」、と若干素が見える口調で返してきた。けぶるまつ毛に象られた瞳が俺を写す。
「アンタがオレの中埋めてくれるんだから、腹なんて空かない」
「…だよね」
「じゃあなんで聞いたんすか」
「だってせっかく作ったから、」
と言いつつも、俺も春千夜の服を脱がす手は止めない。「後で食べましょう」、「うん、ケーキも買ってきた、春千夜の好きなやつ」、「運動の後に最適っすね」、なんてお互いに触れながらぽつぽつと会話を交わしていく。シャツの最後のボタンを外し終えると、春千夜は体に纏わせているのがうざったいとばかりに雑に脱ぎ捨てた。高いスーツなのにかわいそうに、なんて床にバラバラに放られた服たちの残骸に視線を遣ると、よそ見をするなとばかりに顎を掴まれてキスをされる。そのまま体を押されるままにベッドに後ろ向きに倒れ込むと、俺に跨った春千夜が舌なめずりをして俺を見下ろした。その様はまるで肉食獣だ。
「まずは、オレのことを美味しく食べて?」
ああ、ぞくぞくする。腰の裏側から背骨にかけて走る甘い痺れに体が震える。視線が絡み合い、にやり、素に近い笑みを見せた春千夜が俺の唇に噛み付いた。
本当の春千夜を知っている。普段は横暴で乱暴な性格をしていることも、何を生業にしているかも知っている。クスリをしていることも、非人道的なことに手を染めていることも、俺の幼馴染に手をかけたことも、全て知っている。
でも。それを俺の前では全てきれいに隠している。そんな事実などないかのように俺の前では穏やかに振る舞って、普段の粗暴な口ぶりや態度も仕舞っている。俺のためだけに、俺が離れて行かないように、本当の自分を偽っている。
それを知ってしまうと、彼を味わうのがやめられなくなる。
もう、今更春千夜の素の性格が、何をしているだとか、そんなことは気にならない。隠さなくてもいいのにとも思う。けれど俺に素がバレないように頑張っている春千夜がどうしようもなくかわいいので、もう少しだけこのままでいようかといつも踏みとどまってしまう。
俺の恋人はまるで麻薬だ。一度ハマったら最後、その魅力からは抜け出せない。
──いや。
もう、今更抜け出す気なんてさらさらない。
「じゃあ、いただきます」
俺もにやりと口角を上げて、真っ赤に熟れたその唇にかぶり付いた。