男主受け攻めどちらでも読めます
*監督生設定
自分に会いに寮の部屋まで来てくれた彼のどこか浮かない顔を見た時から、何か嫌な予感はしていた。
紅茶でも?と聞いたアズールにお願いしますと彼は返したが、テーブルの上に出されたそれに彼は手を付けず、どこか暗い、思い詰めた表情をするばかり。いつもなら喜んでカップを手に取って美味しそうに顔を綻ばせ、今日の出来事を話し始める彼だが、どうにも今日は様子がおかしい。胸に残る嫌なもやもやしたものを追い払いつつ、アズールも席について何かあったのかを聞こうと口を開きかけた時、俯いたまま、彼がぼそりと呟いた。
「先輩、もう俺、だめです」
「……何がです?」
だめだ、その先は聞きたくない。声の調子、彼の表情、こちらに合わせようとはしない目線。アズールの本能がその続きを聞いてはいけないと止めようとする。けれどそれとは裏腹に、気が付けば口が動いていた。平静を装い、その先を聞いてしまう。
「終わりにしましょう。俺と、先輩」
そして、こういう時ほど嫌な予感というのはよく当たるもので。
彼のその言葉に、アズールの心臓が大きくどくりと跳ねた。聞いた瞬間から身体の芯が冷えていく。彼の声は、抑揚のない、静かな声だった。
「……ど、うしてです?」
口を開け、それから時間差で出した言葉はたった一言。アズールの声は、誰が聞いても分かるくらいに弱々しく震えていた。
喉の奥につっかえそうになった言葉をようやく口に出しても、彼は何も答えない。そこでようやく彼がアズールの方へと顔を向けた。吸い込まれそうな真っ黒の瞳がただアズールを見つめている。普段ころころと感情のままに目まぐるしく変える彼の表情からは、今は何も感じられなかった。
「──……、」
彼は本気だ。そう理解した瞬間、まるで失ったかのように声を出すことができなかった。代わりに出たのは、ひゅう、と弱々しい呼吸の音だけ。
次の言葉が見つからない。どうして、何故。僕が悪いのか。激流のように言葉が胸の中で渦巻いてぶつかり合って消えていく。その渦の中心にあるのはいやだ、別れたくないという思いだけ。終わりになんて、したくない。目の前の彼を失いたくない。
「僕、……っぼく、なまえさんが、あなたが嫌だと思っているところは直します、全部、直しますから、言ってください…!僕が、っぼくがグズでノロマなタコ野郎だからですか?っ……きらいに、なったんですか、」
「…違います、そういうことじゃないんです」
「ならなんなんですか!なんで、どうして…」
その続きの言葉は形を失い意味をなさない。いつもの慇懃無礼で饒舌なアズールからは想像ができない程、今のアズールはひどく狼狽していて弱々しかった。その姿を彼はただ静かに見つめているだけで、何も言おうとはしなかった。
「どうして、っ………」
いつだって、彼の望みを聞いてあげたかった。ハグやキスや、アズールに向けられる優しい笑顔は彼から無条件に与えられる贈り物だ。アズールはそれがどうにも苦手だった。過去の暗い経験がアズールの心に影を落とし、彼から贈られる愛に何か裏があるのではないか、見返りを求められるのではないかと恋人を疑ってすらいた時もあった。
けれど、そうした彼からの愛を受け続けるうちに、アズールにようやく彼に愛されているという自覚が少しずつ生まれてきた。その萌芽が見え出したのはつい最近のことだ。彼に送られる眼差しや言葉や、身体に触れる手つきは他の誰にも向けられない。全部自分だけに向けられるもので、無条件に贈られるそれらは優しさに満ちている。彼の想いを正面から受け取る度に、アズールの心から猜疑心は薄れ、温かく、まるで夢の中に居るような心地良い気持ちになっていった。
これを愛と呼ばずに何と呼ぶのだろう。少なくともアズールはそう思っていた。
だからこそ与えられてばかりではいられない。「契約」という形でなく、自分からも何かお返しをしたい、彼のために何かをしたいと思えるようになったのは大きな変化だった。
今まで恋愛経験が殆ど無いアズールなりに努力してきたし、できうる奉仕はしてきたつもりだった。けれど、アズールに対する彼の「お返し」が関係を終わりにすることだなんて。それだけはどうしてもできない。自分のお返しは彼の贈り物に見合うものではなかったのか。そう考えるとどうしようもなく悲しくて、耐えられなかった。
全部、見える全部、聴こえる全てを色付けたくせに。あなたがいないと、だめになってしまったのに。
思いのままの言葉をぶつけたかった。けれどどうしてもできなかった。口をぎりりと噛み締め、漏れた声は嗚咽になって消えていく。
「っいやだ、いや、……っ」
どうして、いやだ、そんな同じ言葉ばかりを何回も繰り返す。首を振り、下を向いた拍子にアズールのフォグブルーの瞳からは、ついに重力に耐え切れなくなった大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちていく。一度決壊してしまったからか、それは次々と溢れて止まらない。ぼたぼたと、透明な涙はテーブルの上に水たまりを作っていった。
「そんなのずるいじゃないですか……今更、っ僕をこんなに、っしておいて、…終わりにしようだなんて……っ」
笑顔を張り付けて、はい分かりましたとすんなり頷けたら良かったのに。泣き喚いて、引き下がって、こんな惨めな姿を彼には見せたくはないのに。そう思っても、身体は言うことを聞いてはくれなかった。
「………っ」
一方、アズールが取り乱す様を黙って見つめていた彼だったが、しゃくり上げ、嗚咽を漏らすアズールの姿にぐ、と強く唇を噛み締め、やがて我慢できないというように立ち上がった。がたりと椅子が音を立てる。
「っやっぱり駄目だ、俺、駄目です、ごめんなさい、」
「謝るなよ!聞きたくない……っ!」
駄目、ごめんなさい、彼から出る拒絶の言葉を聞きたくないとばかりに、アズールは子供のように耳を塞ぐ。聞こうとしないアズールの元に歩み寄り、そっとその肩に触れる。小さく震える身体に彼は苦しげに眉を寄せ、そのまま縮こまったアズールを抱き締めた。
「違うんです、違くて、……嫌いなんかじゃない、先輩のことが好きだから、」
「っう、そだ……!」
嘘だ。彼の腕にしがみつく。漆黒の制服に深い皺ができていく。それに彼は嘘じゃないです、と静かに返した。感情のままに否定したかったけれど、彼の声色から嘘を付いていないと嫌でも分かってしまう。ならどうして。
理解ができなかった。自分のことが好きなら、何故終わりにしようとするのか。彼の胸に顔を埋めたまま泣き続けるアズールに、彼は静かに口を開く。
「俺は、この世界の人間じゃないから、」
「……だから何なんですか。そんなの今更ですよ」
アズールにとってそれはとっくに承知のことだった。口にした通り、そんなの今更だった。それを承知の上でアズールは彼といることを選んだのに、だから何だというのか。
アズールのつっけんどんな言葉に彼は苦笑する。それからぽつり、ぽつり、口下手ながらも、彼のアズールへの想いが語られていく。
「この前、ふと思ったんです。この世界に来るのは突然だった。だから、帰る時も突然来るんだろうなって。そう考えたら…、先輩となんのお別れもできずに、気持ちの整理も付けれずに……なんて想像したら、すごく怖くなってきちゃって。先輩と突然会えなくなってしまうのが、耐えられないと思ったんです」
それに、と彼は続ける。しがみついていたアズールの手を優しく解き、しゃがんでアズールと視線を合わせる。アズールのぼやけた視界に映った彼は、とても優しい表情をしていた。
「先輩にはずっと幸せでいて欲しいんです。でも、それは俺じゃなくてもできる。いつ別れが来るかも分からない異世界の人間よりも、この世界にいる人の方が先輩を幸せにできる。先輩、俺が急にいなくなったら、今みたいに泣いてくれるでしょう。でも、それは嫌なんです。だから、別れが来る前に終わらせておけばって思ったんですよ。今のうちに関係を終わらせておけば、突然の別れが来ても先輩が悲しむことはきっとないから」
そこで言葉を切って、彼は再びアズールを見つめた。シルバーフレームの眼鏡をそっと外し、涙や鼻水でぐしゃぐしゃになったアズールの頬に指を這わせる。涙が落ちていった跡をそっとなぞればアズールが僅かに目を細め、溜まっていた大粒の涙が宝石のような美しい瞳からこぼれ落ちる。それを優しく指の腹で拭ってから、彼は切なげにきゅ、とその眉を寄せた。
「でも、やっぱり駄目なんです。先輩の泣き顔を見たら俺も泣きそうになってきちゃって」
彼の声が僅かに震えたかと思うと、深海の夜のような真っ黒な瞳は滲み出す。くしゃりとその顔は歪み、その拍子に涙が頬に筋を作っていく。それを腕で拭って、すみません、と彼ははにかんだ。
「他の誰かじゃなくて、俺が先輩を幸せにしたい。いつか突然帰る時が来ても、それまでは先輩には笑っていてほしい。だから、終わらせるのは無理だなって、思いました」
「つまり、それは……どういうことですか?」
彼の思いの丈を聞いているうちに、アズールの心は少しずつ落ち着いて、そしてじんわりと温かいもので満たされていった。ここまで聞けば、彼が何を言いたかったのか予想はつく。それでも彼の口から、結局どうしたいのかを聞きたかった。
未だ涙声が滲むアズールの言葉に、彼は口をもごつかせる。耳を赤くさせ、ああ、だとかその、だとか、意味を成さない単語を繰り返し、そしてようやく結論を口にした。
「あー、だから、つまり…前言撤回です。さっきの話は忘れてください」
気恥ずかしそうに目線を逸らし、ごめんなさいと彼は小さい声で謝罪した。
すん、と鼻水を啜る音が部屋に響く。アズールは心から安堵した。けれどそれを隠すように自分を泣かせた目の前の人間を睨め付ける。覇気がないのは分かっていたが、どうしてもそうせずにはいられなかった。眼鏡を外されたせいで視界はぼやけ、彼の表情もはっきりとは分からないけれど、それでも眉を下げて申し訳なさそうにしているのは何となく感じ取れる。
「…………あなたは、本当に馬鹿で、自分勝手で、ずるい人だ」
「…ごめんなさい、」
「終わる前提の話をしないでください。終わらせませんし帰らせません。あなたが何を言っても、…帰りたいと言っても、絶対に、僕は離さない」
彼の服を掴むその手に力が篭る。途中から独り言のように漏らされた言葉に、彼は思わず頬を緩めた。他人が聞けば度が過ぎた、最早執着のような怖さを感じる言葉を向けられても、嬉しくて暖かい気持ちになるくらいには、彼はアズールのことが好きだった。愛を囁く言葉を今までに交わしたことはないけれど、この「執着」はアズールなりの愛だ。それを分かっているから嬉しいのだ。けれど。
どうしても、彼にはその先が踏み出せないでいた。彼の柔らかい笑みに影が差す。それにアズールは気付かない。
「…はは、先輩、俺のこと大好きですよね」
「今更過ぎるんですよ。第一そうさせたのはあなただ。あなただって分かっているくせに」
「…そうですね」
「僕がいれば、何もいらないって、そう言わせたいくらいには…、僕はあなたを──、」
その先の言葉は、彼の唇によって飲み込まれる。まるで言わせない、と言うかのように。その理由をアズールは分かっていた。
彼がアズールの口を塞いだのは、「好き」以上に決定的な、恋から愛へと変わる言葉を聞いてしまうのが怖いからだ。呪いのようなその言葉を受け取ってしまえば、必然と来る別れの時がより辛くなるから。それは裏を返せば、彼が別れが来るのは必然だと、そう思っているということだ。
彼は、元の世界を捨て、この世界に留まるという選択肢を未だに選べずにいる。
だからこそあんな世迷い言を言ったのだ、自分を悲しませたくないから、その前に終わりにしてしまおうなどと。
終わらせるつもりなど、毛頭ない。喉から手が出るほど欲しかった彼を、やっとの思いでその心まで手に入れたのだ、それをみすみす手放すはずがない。
彼にも同じ気持ちでいて欲しい。「離さない」と言って欲しい。自分のために、この世界にしがみついて欲しい。
でも、そこまでの覚悟や想いが彼にはまだないことを、アズールは知っている。
ああ、ずるい人だ。喉まで出かかった言葉を飲み込んで、アズールは彼からの口付けを享受した。
20200830