そしてまた、キスをする
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「おめでとうございます」
「……はぁ」

目の前のメガネを掛けたお医者さんは、私の微妙な反応に、一瞬口元を引きつらせたが、すぐに元の笑顔へ切り替えた。
周りの看護師さんも同じく口を揃えて「おめでとうございます」と笑顔で言ってくれる。
私だけがまるで夢をみているような、現実を帯びていない光景に戸惑っていた。

そこからどうやって帰宅したのかも覚えていない。
気が付いたら、家のソファに転がっていた。
いつもと違うと言えば、いつもはうつ伏せで転がることも多いのに、今日は上を向いて寝転がった。
……本当に、これが現実なのか。


少し前からなんだから身体中がだるく、夜はすぐに眠ってしまうし、朝は布団から出るのも億劫になってしまうし。
元々朝はすっと起きれる方だ、我妻…善逸じゃあるまいし。
風邪でも引いたかと思って近くの病院に行けば「もしかすると…」と言われて別の病院を紹介された。
一瞬そこまで重病なのかと焦ったけれど、紹介された先は産婦人科だった。
まさか婦人病…?などと戸惑ったのも最初だけ。
沢山の妊婦さんが待つ待合で想像以上に待機させられてやっと「我妻さーん」と呼ばれたときは、自分の名前を「我妻」だと認識するまで一寸掛かった。
籍を入れてしばらく経つのに、未だに慣れない。

ドキドキしながら入ると、優しそうな表情のお医者さんが椅子に座っていた。

「先ほどの尿検査の結果が出ました。結論から言うと、妊娠されていますね」
「は、妊娠?」

向かいの椅子に腰かけるように言われて二秒後。
考える隙さえ与えない状況で、鈍器で頭を殴られたような衝撃が走る。
妊娠…妊娠? だれが? いや、私か。

何を言われたか覚えていないけど、そのまま奥の部屋に通され、漫画でよく見た診察台に乗せられた。
お腹のエコーを見るのかと思って、ひらりとお腹を出すと
「初期はお腹の上からでは見えないのよ」と看護師さんに笑われてしまい、私は死ぬほど恥ずかしかった。

「この豆粒のようなものが赤ちゃんの入ってる袋ですね」

モノクロの画面を見て、画面の少し端近い場所。
確かに米粒みたいな形の袋がそこにあった。
先生は「心拍…は、次回かな」とブツブツ言っていたけれど、私はそれどころではない。
え、ガチ?

「子宮外ではないからね、安心してね」
「…はい」

言われたことの意味を考える余裕もなく、とりあえず返事だけしておく。
お腹に、米粒…いや、赤ん坊がいる?
私に? 誰の? …善逸しか考えられないけれども。

診察中も帰宅中も、ずーっと考えていた。
私のお腹に赤ちゃんがいるという事実を飲み込むために。
そして、それを善逸にどうやって伝えるのか、ということを。

ソファに転がりながらスマホを取り出して、連絡するは善逸…ではなくて、
前の職場の同僚でもあるいちごちゃんにメッセージを送る

『赤ん坊って何食べるの?』

普通に考えればなんてメッセージを送っているんだと思うけれども。
それだけ私の頭の中が混乱しているということを理解してほしい。
メッセージは一瞬のうちに既読となり、返事が来る前にスマホの着信音が鳴り響いた。

「もしもし…」
『出来たんですかぁ?』
「……何で分かったの」
『意味不明なメッセージが来たので、それだけ混乱しているのかと思ってぇ』

電話の主は先ほどメッセージを送った相手、いちごちゃんだった。
普段と変わらない会話だけれども、電話口からでもわかるくらいいちごちゃんも興奮していることが分かった。

『おめでとうございますぅ。何か月ですか?』
「二か月、つわりはもう少ししたら出るかもって」
『うわ、やばぁ』

何がやばぁ、なのかと言われたらヤバイ以外に私も考えられない。
まだまだ夢の中だと錯覚してしまうくらい、現実味がない。
それからしばらくいちごちゃんに『ご飯はしっかり食べるんですよぉ?』だの『無理して動いちゃだめなんですからね』などまるでオカンかと言いたくなるくらい世話を焼かれ、最後に『ちゃあーんとパパにも報告するんですよ?』とまた一つ現実を突きつけられて、いちごちゃんとの電話は終了した。

パパ。
善逸が、パパ。
パパ。

パパパパ…と頭の中がパでいっぱいになった頃。
転がっていたソファがズンと沈む。
こんなすぐに体重に変化が!?なんて思いながら頭をあげたら、ソファの端に座る金髪の男がじっとこちらを見ていた。

「あれ、いつ帰ってきたの?」
「……今だけど、声かけたっつーの」

奴は首のネクタイを緩めてはあ、と一つ溜息。
ジャケットはそのまま足元に投げ捨てられた。そんなことすると皺になるだろう、と口を出す前に善逸がそっと額に手を伸ばしてくる。

「風邪だった?」

心配そうに眉が下がった顔。
ああ、そっか。昨日会社を休んで病院に行くと言っていたっけか。
私はのっそり身体を起こして、善逸の横にちょこんと座った。
改まって口にするのは難しい。きっと善逸は喜んでくれるし、何なら本人は結構前から望んでいた。
何も不安に感じることはないのに。

「風邪じゃなかった」
「…じゃあ、何?」

私の一言で、更に険しい顔つきへ変化する。
私を心配している事くらい、手に取るようにわかる。
その一言を、言えば彼だって安心するだろう。


「全治10か月」
「はぁ!? 何それ重症じゃん!!」


かなり遠回しに言ったのが悪かったようだ。
どんどん青ざめていく善逸の表情を見て私は後悔した。
何でこういう時に、ちゃんと口に出来ないんだ私は。
何年も喪女だったのがこんなところまで影響しているというのか。

「入院? 手術? 俺、どうすればいい?」

珍しく、あの善逸が焦っている。
急に立ち上がったかと思えば、大き目のカバンを見つけて、その中にその辺に転がっているものをどんどん放り込んでいく。
ああ、そうね、入院となれば入院グッズもいるだろうね。
だけどね、テレビのリモコンはいらないんじゃないかな。

「あのさ、善逸…聞いて」
「ちょっと待って、聞くけど、聞くけどさ…俺だってまだ心の準備とかできてなくて。…いや、一番不安なのは俺じゃねーよな。名前だもんな、何してんだ俺」

超早口でブツブツお経を唱える勢いで呟かれた言葉。
…それで少し自分の中の緊張が解けた。

私を大切にしてくれる、この人の。


「ちょっと…落ち着いて、パパ」


禁断の一言を放つと、一瞬で善逸の全活動が停止した。


「ぱ、ぱ?」


まるでお化けを見るような顔で私を見る善逸。
おい、その顔失礼が過ぎるだろう。
私はぷうっと唇を尖らせ「ダディ?」と冗談交じりで呟いた。

「え?」
「パパ上? それとも、グランパ…は違うか」
「え?」

未だ「え?」以外の言葉を口にしない善逸。
ぼとん、と手に持っていたカバンはフローリングの上に悲しく落下した。
だめだ、私以上に現実がわからないらしい。
さっきまでの自分の醜態を忘れて、私は善逸の前に立った。
そして、善逸の空いた手をそっと握って自分のお腹へ。


「しっかりしてよ、お父さん」


ふ、と一気に頬を緩めてそう言うと、途端に善逸は私を強くかき抱いた。
鼻先が胸板に当たって痛かったけれど、それを口にする空気ではなかった。
それに、ほんのり聞こえる善逸の胸の音がバクバクと加速していることで、さらに愛しさが増す。

「俺と、名前の?」
「私が聖母マリア様なら違うかもね」
「……誰がマリア様だって? 名前の処女は俺が散らしたんですけど」
「ほんと赤ちゃんに悪影響だわ」

頭の上から聞こえる、いつものような茶化すような声。
やっといつもの調子を取り戻したらしい。
はっと気づいたように強く抱きしめていた腕が緩んだ。

「もう、加減しないといけないか」
「そうだよ」

強く抱きしめられるのも嫌いではないけれどね。
と、そっと呟くと善逸の顔がすぐに近づいて私の唇を塞いだ。

「名前」

唇が離れて、少しだけ潤んだ瞳と目が合った。


「俺、今一番幸せだ」

「私も」


そしてまた、キスをする。


今よりもっと幸せになれるなんて、神様ってなんていい人なの。




あとがき
香澄さま、4回目のリクエストありがとうございました!
サザンカの妊娠話でした〜。
これでサザンカの番外は全て終了ですかね。えへへ。
妊娠時特有の、トイレでげーげーして「はっ、まさか…」みたいな展開ではなくてすみません。
初期にお腹の上からエコー見られないのは皆さんご存じだったんでしょうか。
私は残念なことに妊娠して初めて知りました笑
こんなものでよければお収めください〜。

この度はありがとうございました!


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色いろ