練習その4 慰める


「何で、」

驚きを隠せない俺の言葉を名前は緩く首を振って制止する。
はらはらと泣き続けるその表情を見れば、何かあったことは明白。
そんな事で俺がおいそれと引き下がるわけもなくて。

「誰かに、何かされた?」

寝ていた身体を起こして、名前の腕を掴んだ。
自分の声色に怒りの感情が乗っている。
誰だ、名前を泣かせたのは。
こいつは馬鹿で阿呆だけれど、いつも天真爛漫に笑う馬鹿なんだ。

俺の知らない所で泣かされるような、そんな事があれば俺は…。
ふっと沸き起こる怒りに頭が支配されそうになる。
まだ冷静だ、大丈夫。
怒りで自分を忘れたりしない。
それは目の前に泣き続けている名前がいるからだ。

教室の中に誰もいなくて良かった。

「違う、違うよ、無一郎」

涙を自分の手で拭い、それでも溢れてくる涙をまた拭い。
しまいにはポタポタと俺の机に落ちる雫。
何かを言おうとしている名前。
だけど涙の所為で上手く言葉が紡げない。
俺は自分のポケットからハンカチを取り出し、名前の目元に当てた。

「ハンカチすら持ってない女子なんて、戦闘力低すぎるんだけど」
「…うるさい」

俺のふざけた言葉に反応できるくらい余裕はあるみたいだ。
ほんの少しだけど俺は安堵した。
名前を自分の席に座らせて、俺はただ名前の顔にハンカチを当て、それからその小さく揺れる頭を撫で続けた。

昔は、こうしてよく頭を撫でていたっけ。
まさかこんな形でまた触れるなんて思ってもみなかったけれどね。
聞きたい事は沢山あるけれど、俺から尋ねてもきっと名前は答えてはくれないだろう。
だって、俺は恋人ではないから。
所詮、幼馴染なんだ。

名前の中の特別では、ないから。

恋人の真似事をしてみても、根本は結局変わらない。
俺は大事な時に名前を守れないし、名前も俺を頼らない。
少し、調子に乗っていたのかもしれないな。
名前の中での意識が少しづつ変わっている気がしてた。
ただの幼馴染から、ゆっくりでいい、違う存在になりたかった。
だけど、今身をもって思う。
そんな自分勝手な気持ちを優先するよりも、名前の傍に居れる、その存在になるべきだった。

ねえ、名前。
俺は君の為に何もできないと、悟ってしまったよ。


目の前でひたすら俺のハンカチで顔を隠す動作をしながら、名前は静かに震えていた。

時間にしてどれくらい経っただろうか。
一時間は経っていないきがする。
高等部の下校時刻になっているくらいだから、それなりに時間は過ぎたようだけれど。
やっと名前の涙も引いてきて、少し腫れてしまった目を恥ずかしそうに手で押さえている。
俺はひたすら名前の頭を撫でていたけれど、どこでやめるべきか完全にタイミングを逃していた。

「…無一郎、ありがとう」

やっと名前が引っ込んだ涙顔を見せて、俺から少し離れる。
自然と距離が出来て、名前の頭にあった俺の手も離れてしまった。
やめ時を考えていたけれど、いざ離れると寂しいと思う。

「ちょっとね、びっくりしちゃっただけだよ」

何でもないように、ゆっくり言い放つ名前。
俺は黙ってそれを聞く。
俺の渡したハンカチをぎゅっと握って名前は、俺を見た。


「冨岡先生にね、彼女が出来たんだって」


その言葉を聞いて、俺は目を限界まで見開いた。
冨岡?
体育教師の冨岡先生のこと?

「なん、」

何で?
そう言いたかった。
だけど、言う前に理解した。

『この前ね、冨岡先生がね一人でご飯食べてたんだけどね』

先日名前が言っていた言葉を思い出した。
やたら最近、冨岡先生の話題が多くなかっただろうか、と。
それは、つまりそういう事なのか、と。

理解すると同時にどす黒い感情が俺の胸を占拠した。
ああ、そういうこと。
名前の好きな人って、冨岡先生だったわけ。

「無理だってわかってたし、先生とどうなりたいとも思ってなかったよ。それでも、好きだっただけで…」

右から左へ抜けていく言葉。
とても辛そうに泣きながらそう言う姿は、俺にとっても酷く辛いものだった。

自分と全然違うタイプだ。
まず思ったのはそれだ。
冨岡先生とそんなに話したことはないが、それでも分かる。
俺とは違うタイプの人間を、名前が好きなんだと。

「…本当に名前はそれでよかったの?」

無理やり言葉にした。
そうでもしないと俺も沈んでしまいそうだったから。
でも全部が嘘でもなくて。
泣いている彼女が、どうしたら救われるのか考え始めている。
どうしたら。


「うん」


名前は泣きながら、大きく頷いた。
そして不器用に笑って「失恋しちゃったー」と呟く。
俺はその顔を見て、どうしても堪えきれなかった。

椅子から立ち上がり机の横を抜け、名前の前に立つ。
まだ潤んだままの瞳をこちらに向けて、名前が首を傾げた。
そのまま俺は名前の肩を掴んで、自分のお腹へ倒す。
ぽふ、という音がして、俺の胸に名前の頭が収まった。

名前は抵抗しなかった。


「俺しか居ないから」
「えっ?」
「嫌いになるまで散々愚痴ればいい。付き合うから」
「……」


一瞬戸惑いを見せた名前だったが、1寸置いてとても小さな声で「…嫌いにはなれないけど、」と漏らして、冨岡先生のここが好きだった、あれがかっこよかった、とポツリとこぼし始めた。
俺はそれらを聞き漏らすことなく、相槌を打った。

「保健室の先生でね…可愛い先生だったの」
「うん」
「とっても、お似合いだった」
「…うん」

今日くらい罵ってもいいのに、
冨岡先生の相手のことをこんな風に言える名前は、本当に馬鹿で阿呆だと思う。
でも俺は、こんな名前だからこそ好きだ。

好きだ。

何度も心の中で呟く。

明日には名前の調子が戻ることを願って、俺はただひたすらに名前の頭を抱きしめ続けた。

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