07
「ごめん、我妻くん。やっぱり私、帰るね」
不愛想にも程があるけれど、目を合わせずに私はカバンに本をしまうと、そのまま立ち上がった。
我妻くんが不思議そうにこちらを見て「どうしたの?」と尋ねてくるけれど、上手く言葉に出来ない。
緩く首を横に振って拒否をする事しか、私にはできなかった。
「俺も一緒に帰るよ」
そう言って我妻くんは立ち上がろうとしたけれど、それを振り切るように「大丈夫」と言って、慌てて図書室を出た。
後ろから我妻くんが慌てて追いかけてこようとしている事は気付いたけれど、それでも一緒の空間に居たくなかった。
特に図書室では。
図書室を出て、そのまま廊下をダッシュする。
普段使わない廊下を走り、帰ると見せかけて階段を駆け上がった。
階段を上がって、見つからないよう女子トイレの奥の個室で鍵をかけ、座り込む。
お腹に自分のカバンを抱き締めて。
はあ、はあ、と自分の荒い呼吸だけが聞こえた。
自分が何を考えてしまったのか、理解した時、どうしてもあの場にとどまる事は出来なかった。
自分の気持ちに気付いた時にはすでに遅い。
私は今、我妻くんに一番近い距離にいて、一番遠い存在なのだ。
覆すことの出来ない、その距離。
最初から分かっていたのに。
だからこそ、彼女役を引き受けたのに。
なのに、どうして。
どうして私は、我妻くんに好かれたいと思ってしまったのだろう。
人を好きになる事なんて、生まれて初めてなのに。
何でこんなにつらいんだろう。
恋をすると、みんなキラキラして、幸せで。
恋愛の本を読むと女の子はみんなそうだった。
なのに、なのに。
何で私は、こんなに泣きたくなるんだろう。
いつの間にかポロポロと零れていた涙にどうすることもできなくて、私はただただ長い時間、トイレの中で過ごした。
ああ、馬鹿だ私。
我妻くんの事、好きなんだ。
我妻くんは竈門くんのものなのに。
我妻くんが私に優しくしてくれるのは、特別だからじゃなくて私が彼女“役”だからなのに。
こんなことになるんだったら、彼女役なんてするんじゃなかった。
そうすれば我妻くんを好きになる事も、こんなみじめでつらい思いをする事もなかった。
私は今、告白する事も出来ない。
ただ我妻くんに何も伝えず、ただその彼女としての役割を果たすだけなのだ。
◇◇◇
どれくらいそうしていたのか分からない。
いい加減トイレに篭っているのが辛くなってきた。
きっと我妻くんは先に帰っているだろう。
ポケットで何度も震えていたスマホを見る勇気は無かった。
カチャリ、と鍵を開けてトイレの個室から出ると、トイレの小さな窓からは茜色の陽射しが入り込んでいた。
泣きすぎたみたいだ、目の下はなんか腫れぼったい気がする。
トイレの鏡を見ると案の定、酷いことになっていた。
ちょんちょん、と指で腫れた所を触ってみた。
だからといって腫れが治まるわけではないのに。
キョロキョロと当たりを見回して、ゆっくり女子トイレから出た。
当たり前だけど誰もいない。
ほっと息をついて、帰ろうと下駄箱に歩を進める。
この時間まで学校に残っているのは、部活動の人だけだろう。
下駄箱への階段を降りていた時、後ろに人の気配がした。
特に気にしていなかったけど、その人はあろう事か私に話しかけて来たのだ。
「…あれ? 苗字さん?」
聞き覚えのある声に私は慌てて振り返った。
階段の踊り場で、不思議そうに首を傾げた男の子、竈門くんがこちらを見ていた。
「あれ、善逸と一緒じゃないの?」
竈門くんがさも当たり前のように言う。
ズキンと胸に痛みが走った。
我妻くんの事は今は考えたくない。
目の前の竈門くんも我妻くんに好かれている、私から見れば羨ましい人。
会いたいと思うはず無かった。
「色々あって、先に帰ってもらったの」
不器用に笑って見せた。
だけどやっぱり不自然だったのか、竈門くんは「ん?」と首を傾げたまま。
早くこの場から立ち去らないと。
背中に変な汗が伝う。
竈門くんと一緒にいたら、自分がどれだけみじめな子なのか実感しそうだ。
「じゃあ、ね」
さっさとこの場から逃げ出そうとくるりと背中を向けた。
「苗字さんは、善逸の事好きなのに、何がそんなに悲しいの?」
ドクンドクン、と振動が大きく脈打ったのが分かった。
私の背中に向かって放たれた声は、紛れもない、私の心に直接問いかける質問だった。
悲しい…? 当たり前だよ?
だって、我妻くんは私の事、好きじゃないから。
好きなのは、竈門くん、貴方でしょ。
何も言わずに振り返り、私はきゅっと唇を噛んだ。
私はね、
竈門くん、貴方の事が羨ましくて仕方ないんだよ。
「……どうしたら、いいのかな…?」
さっきあれだけ泣いたというのに。
私の目からは大粒の涙がとめどなく溢れてくる。
今更遅すぎるんだよ。
最初から間違っているの。
でもどうすればこの気持ちが楽になるのか分からない。
私はどうすればいいの。
私の涙を見て、竈門くんは慌てて階段を下りてくる。
そしてポケットからティッシュを取り出し、それをそっと私の眼の下に当ててくれた。
「……善逸には言えない、のか?」
竈門くんは泣く理由を聞かなかった。
だけど、それを我妻くんに相談しないのか、と問う。
私は緩く首を振った。
出来る筈がない。
「そうか」
そう言って竈門くんはまだまだ零れ落ちる涙をそっと拭ってくれた。
我妻くんが、好きになる筈だ。
この人は素敵な人だもの。
私は身をもって理解した。
「…名前ちゃん、炭治郎?」
グズグズと必死に涙を拭っていて、その声に気付くのが遅れた。
やっと脳に声が届いたとき、私は目を見開いて、声の方向へ顔を向けた。
そこには帰ったと思っていた我妻くんが、驚いた顔で立っていた。
そして、すうっと目を細めて私と竈門くんを見つめる。
直感で分かった。
我妻くんが怒っていることに。
私はこれからの事を考えながら、ゆっくり竈門くんから離れた。
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