私一人なら、なんとかなった。
…いや、今までだって何とかなっていたわけではないのだけれど。
少なくとも一人で襲われるのと、一般人とともに襲われるリスクを考えれば、断然前者の方がまだ何とかなったのだ。
ちらりと隣の成瀬さんと見て、私はギリ、と奥歯を噛んだ。
傷は見た目軽い。出血はしているけれども、深くはないだろう。
最悪なのが、ここで私が足止めをし、成瀬さんを逃がしたところで、血の臭いを嗅ぎ分けてすぐに追いつかれてしまう危険の方が高い。
勿論、このままこの場に留まっていても、最悪な状況であることには変わりはないのだが。
どうする、どうすればいい。
成瀬さんを逃がし、生き延びさせるのはどうすれば。
色んなパターンを頭に浮かべるけれども、そもそもの私の身体能力で補えるものでもない。
特にここ最近など、真剣に走ったことなんて記憶にないくらいだ。
せめて、数か月前のあの時くらいならば、まだ動けただろうに。
背中の刀がずっしりと私にのしかかってくるような気がした。
善逸さん。
ここにはいない人の名を呼ぶのは気が引けるけれど、呼ばずにはいられない。
…そうだ、ここからなら。
「成瀬さん、急いで走って善逸さんを呼んできてください…!」
ここから善逸さんの作業場まではそう遠くない。
私の足ではダメだけれど、成瀬さんが走れば作業場まですぐだろう。
善逸さんが気づけばきっとすぐに鬼を滅してくれるはずだ。
あの人、なら。
だけど成瀬さんは青い顔を横に振って「行けるわけがないだろう!」と声を荒げた。
先程までポカンとしていた成瀬さんだったのに、今度は私の方がポカンとしてしまった。
「真琴を置いて一人逃げろと…!? 俺は、警察だ。民を犠牲にして自分だけ生き残るなど、あり得ない」
「いや、でもそうしないと鬼が…」
「例え残って死ぬことになったとしても、俺は真琴を置いてはいかない! ……そんなことをすれば、俺は友にどんな面を見せればいいんだ」
「…なる、せ、さん」
私の声よりも大きな声で叫ぶ成瀬さん。
がっしりと肩を掴まれ、有無を言わさずにそう言い放たれてしまえば、私は諦めてこくりと頷くしかなかった。
成瀬さんの言葉の中の、友という単語に少しでも嬉しくなった、それだけで。
「済んだか」
鬼が一歩前に出た。
どうやら私達の話が終わるのを待っていてくれたらしい。
少し優しいのか、なんて頭の片隅に過った瞬間、私達を挟み込むように影が伸びてきた。
…前言撤回。
影に触れないように私と成瀬さんがお互い逆の方向へ飛び込んだ。
受け身が上手くとれたか分からない。背中の刀が当たって痛かった気がしたけれど、それどころではない。
急いで身体を起き上がらせて、鬼をじっと見据える。
鬼は右手を前に出し、そして掌をぎゅっと何か掴むように動かすと、伸びていた影が一塊になっていくのが見えた。
ぎゅんぎゅんと音を立てて交わっていくそれを見ている余裕はない。
私はそのまま距離を取るように後ろへ下がった。
が、球体から太くて長い爪が伸び、私の行き場を先に潰していく。
「真琴!」
成瀬さんが私を呼ぶ。
ズザ、と慌てて急ブレーキをかけて止まり、私は諦めて背中の刀に手を伸ばした。
鬼が後ろで「ふっ」と笑うのが聞こえた。
「やっと振るう気になったか」
と言われても。
残念な事に私には日輪刀は使えない。
ただでさえ短刀より長いものを振るったことなどないのだから、扱えるはずがない。
でも、私が鬼狩り、鬼殺隊だと思わせておけば、少なくとも成瀬さんには注意が逸れるはずだ。
……本当に、こんな重たい刀を常時振っていた善逸さんは、とんでも筋肉お化けだったんだなぁ、と今一度思った。
「…か、刀…!?」
成瀬さんの驚く声が聞こえた。
私の背中にあるのが真剣だと思っていなかったのだろう。
白い鞘から出てきた刃を見て、息を飲む。
呼吸だって使えない。まともに刀を振るう事すらできない。
でも、それでも、私がやるしかないのだ。
「…ぜん、いつ、さ」
私が刀を構えた瞬間。
影の塊から無数の爪が飛び出してきた。
まるでスローモーションのように私に向かって伸びていく爪。
プルプルと震える刀をなるべくまっすぐに前に向けて、私は恐怖で目を閉じた。
「真琴! 逃げろ!」
必死の成瀬さんの悲鳴が聞こえたけれど、私はもう動けなかった。
◇◇◇
数秒待っても、私の身体に痛みなど来なかった。
恐る恐る瞼を開けた先、そこには刀に伸びた爪が全て折られて地面に落ちていた。
「あ、れ」
影のもっと後ろにいた鬼が驚いた表情を見せている。
先程までの余裕たっぷりの顔はどこへ。
それだけじゃない。
私の刀を持つ手に添えるように、固くて大きな手が二つあった。
「俺さぁ、家で大人しくしててって言わなかったっけ?」
どこか不機嫌そうに呟く声を耳元で聞いて、私は目を見開いた。
途端に腰が抜けそうになったけれど、声の主が私の身体を支えてくれているから、情けない事にはならなかった。
「善逸、さん…?」
振り返らなくとも、誰が私の身体を包んでいるのかわかっている。
でも、もしかしたら夢かもなんて。
そんな不安は更に声を低くした声によって、粉々に砕けた。
「あとで事情聴取するから、覚悟しててよ」
聞きなれた、最愛の人の声だった。