10. どうか彼の努力が報われますように


藤乃さんから頼まれた籠を片手に、私は久しぶりに門の外へと出ていた。
基本的に修行は外で行われることが多い。
鍛錬の内容までは分からないけど、そこまで遠くには行ってないと思う。
正確な場所は知らないけど何となく場所がわかるので、声のする方角へ歩いていく。

「無理無理無理ぃぃぃ!!」

我妻さんの声だけしか聞こえないけど、そこにいるよね、きっと。
あの喧しい声が少しだけ役に立つとは。
本日何度目かのため息を吐いて、足早に向かった。

林を抜けた先、ひと際大きな木の下には旦那様がいて。
その大きな木の上には我妻さんがへばりついている。
あんな所までどうやったら登れるんだろう。
他のお弟子さん達は、思い思いの場所でそれぞれ鍛錬に励んでいた。

「旦那様」

我妻さんに向かって「降りてこんかぁぁぁああ!」と声を張り上げる旦那様。
後ろからそっと声を掛けると、すぐに振り返って下さった。
その顔は疲労感で一杯だった。ですよね、心中お察しいたします。

「名前か…」
「皆様に桃の差し入れです」

そっと籠を顔の前まで持ち上げ、中身が見えるように傾けた。
「ああ、助かる」と旦那様の声にさっきまで荒んでいた心が温かくなるのを感じる。

「名前ちゃん!? 俺に会いに来てくれたの!? ねえ、ねえええ」

まあ、その声を聞いて一瞬でまた荒んでしまったんですけどね。
木の上からどしゃぁっと大きい音を立てて、我妻さんが降りてきた、もとい落ちてきた。
泥だらけの恰好で立ち上がると、ふらふらとこちらに寄ってくる。

「はい、どうぞ」
「あ、ありがとう」

我妻さんに籠の中から一つ、桃を渡してあげるとぱあっと表情が一気に明るくなった。
あ、少し嬉しそう。
歳相応の笑顔を見て、少しだけ私も落ち着いた。
いつもみたいに気色悪い顔さえしなければ、それなりに仲良くなりたい、と思うのに。

旦那様にも一つ手渡し、私は「ほかの皆様も食べてくださいね」と声を掛けて早々に退散した。
これ以上我妻さんに絡まれても精神的衛生上困るので。


◇◇◇


その日は少しだけ冷えた。

いつものように自室の布団に潜り込んだは良いが、中々寝付けなくて。
暫く布団の上をゴロゴロしていたけれど、一向に睡魔はやってこないし、なんなら厠が近くなってくる。
夜に行くの嫌なんだよね、現代と違って暗いし、怖いし。

とは言え、部屋の中でいつまでも居ても仕方ないので、意を決して厠へと向かう。
障子を開けて縁側に出ると、思っていた以上に月の光で明るく感じた。

「こういうのを月が綺麗って言うんだろうな」

現代ではまず見る事がないだろう、星空。
そして美しい月。
幻想的な雰囲気に少しだけウキウキしながら、私は自分の用を済ませた。

厠から部屋へ戻ろうと、縁側を歩いたその時。
何処か人の気配がしたような気がして、縁側から門の方へ目線を動かした。
チラッとだけど、門の外へと出ていく人影があった。
こんな夜更けに誰だろう。

どうせ部屋に帰っても寝れないし。
ふと思い立って私はさっさと縁側から草履を履いて、人影を追いかけた。


何となく想像は出来ていた。
もしかしてお屋敷から逃げようとしているお弟子さんではないかと。
実際そういう人はいる、ここでの修業は決して甘くはないからだ。
特に昼間の鍛錬でさえ、あんなに逃げ回っている我妻さんだったら、逃げようとするのもあり得るかもしれない。

人影は林の中をどんどん進んでいく。
少し距離をあけて、そーっと物音を立てないように付いていく。

人影は林を抜けた先、昼間皆さんが鍛錬していた場所で止まった。
そこらへんの木の陰からその様子を伺う私。
雲にかかっていた月が顔を出したので、月明かりがそこにいる人物を照らす。
そこで私は、はっきり認知することが出来た。

あれは我妻さんだ。

金色の羽織を纏い、その場で腕立て伏せや、体幹トレーニングを始める我妻さん。
昼間の情けない恰好とは裏腹に、真面目な顔で玉のような汗を流し取り組んでいるのが目に映る。

正直、大変驚いた。

人影は我妻さんだと思っていたけれど、絶対ここから逃げるものだと確信していたから。
昼間、旦那様から習った呼吸法や、木刀の素振りなんかを密かに練習している姿は、
全然想像付かないし、そういう一面がある事に見直した(昼間も真面目にやればいいのに)。

ふーん…。

暫く鍛錬の様子を見ていた。
我妻さんの練習風景を見ていたら、何故だか少し嬉しくなって、我妻さんに気付かれる前に屋敷へ戻る事にした。

それからほぼ毎日、我妻さんは夜にこっそり屋敷を抜けて、一人で鍛錬をするようになった。

私が夜に気付いた時は、こっそり付いて行ってちょっとだけ見たらすぐ帰るんだけど。
昼間はあんなチャランポランでも、夜の我妻さんはカッコいいと思ってしまった。

強くなって欲しいなと心から思う。誰よりも。

どうか彼の努力が報われますように。


「名前ちゃん、最近俺になんか優しくない? 惚れた?惚れた?惚れた?」

我妻さんとの壁を少しは取り除こうとしてみた結果。
鬱陶しさに拍車が掛ったので、心の中で壁を再建することに決めた。



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