11. ここは私しかいないから


朝起きた時はいつも通りだったんだけど。

やっと一人で出来るようになった着付けをして、髪に櫛を通していた時だった。
気付いてしまった。
今日が“その日”であることに。


「名前さん、ちょっと…」

朝餉の食器を洗っている時に、藤乃さんから手招きをされた。
何だろう?と手ぬぐいでさっと手を拭いて、首を傾げながら藤乃さんに近付く私。
藤乃さんの白くて細い手が顔の前へと伸びてきた。

「熱はないみたいですね…」

困ったような顔をして、藤乃さんが私のおでこぴたりと触れる。
意味が分からなくて「どうしました?」と尋ねた。

「何か…いつもより元気がない気がして……」

心配したような顔を見せて、おでこの手をそのまま私の頭上へ持ってくると、そのまま撫でてくれる藤乃さん。

……態度で出した覚えはないのだが、そんなにバレバレだったのだろうか。
旦那様やお弟子さん達には気付かれていないと思ったから、意外だった。
珍しく我妻さんが何か言いたげな顔で黙ってたけど、あの人が喋ると碌なこと言わないから丁度良かった。

「藤乃さんの気のせいですよ!」

ほらね!と無理やり笑顔を作ってみたが、藤乃さんの顔は晴れない。
あまり無理はしないで下さいね、と言い残して藤乃さんは炊事場を出て行ってしまった。


気持ちに蓋をして何とか今日を終える事が出来た。
自分の部屋に戻ってきても気持ちは晴れなかったけど。

自分でも気分がブルーになっている事は分かっていたけど、こればかりはしょうがないと思う。
久しぶりに部屋の隅にある学生カバンに手を伸ばす。
私がこの時代に来て唯一、持ってきた荷物。
中から電源の入っていないスマホとイヤホンを取り出した。
まだ電源入るかな。


縁側へと続く障子を開けて、私は縁側から外へと出ていく。
今日も我妻さんは一人で修行に励んでいるのだろうかと、頭の片隅で思ったけど、
鍛錬場とは逆の方へと歩を進めた。
今日は一人で居たい、そんな気分だった。

2分くらい歩いて池を見つけた。
屋敷の近くに小さな池があるのは知ってた。
藤乃さんにここに連れて来られた日に見かけたから。
落ちないように池に近付き、池の真横にあるちょっと大きな岩に腰を掛ける。


何の音もしない、静かな空間だった。


池の鯉だか魚だか分からないけど、たまに水面を跳ねる様子が見える。
月明かりに照らされた池は、水面に光が反射していてとても綺麗だった。
今日も月が良く見えるなあ、なんて思いながら手元のスマホに視線を落とした。

スマホの電源をイチかバチか入れてみる。

半年くらい経っているから、もうダメかもしれない。
案の定電源を入れようとしても、スマホの画面はうんともすんとも変化しなかった。

そりゃ、そうか。

私が元居た時代の痕跡が、無くなってしまうような感覚になり、今日ずっと我慢していた気持ちが込み上げてくる。

この時代に来てから、泣いた事はなかった。
泣きたくても何故か涙が出なかった。
それでいいと思っていた。ここは私しかいないから。
一人で頑張らないといけないから、泣いてる場合じゃない
そんなこと、誰に言われなくても分かっている。

でも、今日は…

泣くのを我慢したくて、頭に浮かんだ歌を口ずさんだ。
我慢できずに声が震えてしまった。
それでも、歌う事は好きだ。

自分の気持ちも声と一緒に出て行ってしまう感覚になるから…。


一曲歌い終えると、もやもやした気持ちが無くなると思ったけど。

「そうでもなかったな……」

ポツリ、誰に言うわけでもなく呟いた、筈だった。


「えー?俺には上手だと思ったけど」


自分以外の声が背後から聞こえ、私は目を見開き「ギャアアア」と思わず叫んでしまった。

え、なになになになに!?
腰掛けていた岩からずどんと地面へと落ちてしまう。
お尻に走った痛みに顔を歪め、なんとか目線を上に向けると、


「そんなお化けみたいに反応しなくてもさぁー」


そこには困り顔の我妻さんがいた。



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