20. この人は優しい


「名前ちゃん、あのさ、ちょっといい?」

夕餉も済んで片付けもそこそこに、我妻さんが炊事場へとやってきた。
基本的に炊事場は男子禁制であるため、男の人がやってくる事自体珍しい上に、
相手は我妻さんだから余計に驚いた(この人、自分の部屋から出ない人だから)。

いつもはギャーギャー喧しく過ごす彼だが、夕方修業から戻ってきてからずっと元気がないようだった。
気にはなっていたけど、最近の私も気持ちが揺さぶられていて正直、何か言われるまでアクションをするつもりがなかった。
まあ我妻さんの事だから、何かあったら言ってくるだろうと思っていたけど。

「名前さん、後は私がやっておきますので、大丈夫ですよ」

いつも以上にニコニコしながら藤乃さんが言う。
有難いけど。有難いけど、何だろう、その顔。

藤乃さんの気遣いに私は微妙に顔を引きつらせて「わかりました」と返事をした。


◇◇◇


我妻さんの後ろを黙ってついていくと、屋敷を出て何時ぞやの池へとやってきた。
多分だけど、相当聞かれたくない話なんだろうなと何となく察する。
最後に我妻さんとここに来た時の事を思い浮かべながら、近くの岩に腰掛ける私。

「何かあったんですか?」

わざわざお呼び頂いたので。

私から口を開くのもどうかと思ったけれど、さっさと本題に入った方がいい。
それくらい、我妻さんの顔色は悪かった。

我妻さんも私の隣に腰を下ろし、すう、っと軽く息を吸った。

その雰囲気から、口に出すのも気合のいる話題なんだと勝手に察した。
我妻さんらしからぬ空気に、私は少しだけ戸惑っていた。

夕方からのすぐれない顔のまま、黙りこくってしまう我妻さん。
……ただ訳を聞いただけなんですけど。
私、我妻さんじゃないから。音聞いて感情を理解できないから。
せめて何か話してほしい。まるで私が独り言を喋ってるみたいじゃん。

私の複雑な気持ちを察してくれたのか、我妻さんは何か話そうと、口を何度も開きかける。

「何て、言っていいかわかんないんだけどさ……」

やっと口を開いてくれた我妻さんの声。
それは我妻さんにしては信じられないくらい小さい声だった。
普段あんなに大きな声を上げて、旦那様と鬼ごっこをしているのに。

「名前ちゃんは……さ。人の為なら、何でも出来るでしょ」

俺はそう言うのじゃないんだよ。

我妻さんの目線が下がっていく。
言葉足らずで言いたい事が微妙に分かりづらい。
言われた意味を理解しようとして頭をフル回転させる。

「どういう意味ですか?」

残念な私の脳では理解が追い付かなかったので、正直に尋ねた。


「例えば、雷に打たれた俺をた、た、助けるために…その…」


モゴモゴと口を動かし、ほんのり頬を染める我妻さん。
最初は何を言ってるんだ、この人、と冷めた目で見ていたけれど、我妻さんの言いたいことがやっとわかり、
私は数度瞬きをして、それからここ最近で一番大きな声で叫んだのだった。


「俺の、く、くち「ぎゃあああああ!!!」


我妻さんの言葉を遮って思わず叫んでしまった。
みなまで言わなくても理解した、むしろ理解したくなかった。

嘘!? 内緒にしてたのに! 我妻さんには内緒って、旦那様にも藤乃さんにも言ってたのに!
知られてしまった。私が心肺蘇生を行うために我妻さんに人工呼吸を行った事を。

「だ、だだだ誰!? 誰から聞いたんですか!」

その場から飛び上がり、我妻さんの肩を揺さぶる私。
がっくんがっくん我妻さんが揺れているけれど、そんなことよりも私の精神衛生の方が問題だ。

最悪だ。恥ずかしくて死ねる。もう誰も信じない。
瞬間、ここに来るときに私たちに向かってニコニコしていた藤乃さんが頭を過った。
あ、そういうことですか。
何となく犯人、分かっちゃいました。

「ち、違うんです!あれは立派な応急処置法で…わざとじゃなくて!」

混乱して何を言っているかわからないけど、我妻さんの胸板で顔を隠した。
意図してそうしたわけではなかったけれど、我妻さんの胸の中にいる形になり、普通に考えれば恥ずかしい行動をしている。
けれども今の私には知られたくない真実を知られ、そしてそれを目の前で問い詰められている事以上に恥ずかしい事はないので、自分の顔面を隠すことに必死だ。

何これ、私死にたくなってきた。
お願いだから顔見ないでほしいし、何ならこの場から立ち去りたい。
やだやだやだと顔を左右に振りながら、地面に目をやった。
我妻さんの顔を見れないし。


「俺を助けるためでしょ。わかってるから」


そんな私の頭の上で我妻さんが平坦なトーンで言う。
……やっぱり、普段の我妻さんとは様子が違うみたい。
ぴたりと頭を止めて、恐る恐る我妻さんの顔を見上げた。

「それも聞きたかったんだけど、それだけじゃなくてさ」
「……と、言うと?」

上目遣いで我妻さんの顔を見る。
何を考えているかわからない表情がゆらりと崩れ、そして。

「俺、爺ちゃんのために今まで頑張ってきたよ。逃げまくってたけど、自分でも結構頑張ってたんだよね。でも、何にも身についてないわけ。型も一つしか出来ないし、獪岳みたいに最終選別で生き残れるとは思えないし」
「……」
「人の為にした事が、裏切られて終わった事ばっかだったから。助けてくれた爺ちゃんの為に、頑張りたかったんだ」


でも、無理みたいだよ俺。


零れ落ちていく言葉が胸へと突き刺さる。
普通にしていれば愛嬌のある顔がくちゃりと歪んでいく。
我妻さんの気持ちを、初めて聞いたその時。私は自分の胸が痛くなるのを感じた。

「爺ちゃんは俺で最後にするって、言ってた。俺と獪岳が雷の呼吸を継がないといけないのに。俺は…俺じゃ…」

ぽろぽろと零れる涙。
その一つが私の頬に伝って落ちてきた。
初めて見る、我妻さんの気持ち。
普段の涙とは違う、やるせない涙。

我妻さんは自己評価の低い人だと思っていた。
せっかく我妻さんが頑張っても自分でその頑張りに気付けない人。

でも、この人は誰よりも優しい。

自分の借りを返すため、ここで鍛錬を行ってるって言うけど、本当は旦那様の為だ。
夜中に修業をしていたのも。逃げても逃げても、でも戻ってくるのも。

本当に優しい人だから、自分に情けなくって涙が出るんでしょう?
兄弟子のようになりたい、旦那様に安心してもらいたいんでしょう?
彼の気持ちを私は少しでも理解している、つもりだ。

だって、こんなに頑張っている人、他に知らない。


「…私は、我妻さんを無能だと思った事も、これから思う事もありませんよ」


何とか絞り出した声は、自分で思っていた以上に声色が落ち着いていた。


「本当に自分が無能だと思いますか?冷静に見つめてください。あなたが覚えた型は誰も真似が出来ないんですよ」
「でも、」
「でももクソもないんです。我妻さんの体格も出会った頃と比べてどうなりましたか?その豆が潰れて硬くなった手は?雷に打たれても死ななかったのは、基礎体力が上がっていたからですよ?」

どんと我妻さんの胸板に私の拳をぶつけた。
ほら、胸板だって硬いじゃないですか。
もうあなたは前までのひ弱なあなたではないんです。


「これ以上、自身を蔑むのは止めてください。私の大好きな人を卑下しないで下さい」


パチンと両手で我妻さんのほっぺたを叩いた。
未だに涙の止まらない彼に私は「約束ですよ」と言って、ハンカチを渡した。



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