26. おかえりなさい


朝目が覚めた時にはもう既に我妻さんはこの屋敷には居なかった。

結局最後の最後まで逃げようとして、旦那様に殴られたらしい。
我妻さんらしいな。なんて考えながらその足はある部屋の前に来ていた。
襖を開けて入ると、いつもは少し乱雑な部屋が整頓されていた。

ここは我妻さんの部屋。

掃除をしに毎日ここへ来ていたけど、こんなに綺麗になっているなんて。
私の仕事を残して行ってほしいのに。
ふう、と息を吐いて中へと入る。

身支度して出ていくなんて。
それがどんな意味を持つのか、知っているのかどうなのか。
ホント酷い人だ。


ふと机の上に白い紙が一枚置かれているのに気づいた。

忘れ物だろうか。
慌ててそれを手に取ると、そこには一言だけ書かれていた。
ああ、これ私宛なんだと、見ただけで理解した。

“死んだら、ごめん”

まるで殴り書きのように書かれていたそれを見て、私は何かが込み上げてくる。
昨日は見せなかったのだ、我妻さんの前で泣くなんてこと、したくなかったから。
許しませんよ。死んだりなんかしたら、絶対。
彼らしい言葉で書かれた手紙を、大切に折り畳んで胸へと仕舞った。


◇◇◇


数日間、旦那様と藤乃さんは普段と変わらなかった。
旦那様が一番我妻さんの近くにいたから、彼の実力を知っているんだろう。
去年獪岳が受けた時よりも私の心情は慌ただしいけど。

なるべく普段通りに努めて過ごした。
時々藤乃さんが心配そうな顔を私に向けていたけど、気付かないふりをした。
二人とも心配でたまらない筈なのに、私だけが泣くわけにはいかない。


我妻さんが出て行って、一週間が過ぎた。


本来なら、試験自体はとっくに終わっている筈だ。

今まで我慢していたけど、目に見えて私の挙動はおかしかった。
常にソワソワしていて、やたら庭に出て、門の外へ顔を出すを繰り返す。
似たような背格好の人が歩いていると、走り出してしまいそうな衝動に駆られるけど、
頭の色を見てショックを受けるのを何回か繰り返した。

旦那様はそんな私に頭をぽんぽんと撫でてくれた。

「心配するな。善逸はもうじき帰ってくる」

その言葉に胸が熱くなるけど、私の心は晴れない。
まだ、彼をこの目で見ていないから。
早く帰ってきて。このままじゃ私の心が持たない。



それから二日経った。



もういい加減にしてほしい。
手鏡で自分の顔を見ながら思ってしまう。
お蔭で夜は眠れないし、睡眠不足で隈とか酷いし。
ご飯も喉を通らないから、少し痩せたのは良かったけど。

さっさと帰ってくればいいのに、何故こんなに時間が掛かるの?

どこか寄り道しているくらいなら、いいけど。
まさか、本当に…。

「名前さん」

良からぬ事を考え始めた時、藤乃さんが声を掛けてきた。
何だろうと振り返ったら、すっと桃の入った籠を渡された。

「お庭にいる旦那様に、渡してきて下さい」

いつものように微笑んで、藤乃さんは炊事場へと戻っていく。
こんな時に動く気にはならないけど、身体を動かしていた方が余計な事を考えなくていいか。
のそのそと私も動き始める。

面倒だから縁側から出てしまおうと、草履を片手に縁側までやってきた。
行儀が悪いのは分かってるけど、偶にはいいでしょ。
落とさないように籠を右手に掛けて、庭へと出た。

門の近くに旦那様はいた。
姿が目に入ったので、ゆっくりと近付く。
その時、門から誰かが入ってくるのが見えた。



その人を視界に捉えた瞬間ぼた、と籠ごと桃をその場に落としてしまった。



私はその人に向かって走り出していた。



「痛ててててて!! 痛いから! 名前ちゃん、本気で痛いからやめてえええ!!」


突進するように我妻さんに抱き着いた。
腕に力を込めると、悲鳴を上げて我妻さんは泣き始めた。
全身ボロボロの身体だった。
素敵な色の羽織もぼろぼろで、最終選別が如何に大変だったか姿を見ただけで分かった。

「うわぁああん、我妻さんの、ばかぁああ!!」

ぽかぽかと思いつく限りの場所を殴り倒し、情けなく号泣する私。

「ごめん、て何!? そんなんで許されると思ってるの!?」
「いや、だから、叩かないで。お願い。本気で俺、痛いの、死にそうなの!」
「もう死んじゃえ!!」
「ええ…」

今までにないくらい感情を爆発させる。
どれだけ心配したと思ってるんだろう。


「……嘘。死なないで」


ぎゅう、と更に力を込めて我妻さんを抱きしめる。
今度は何も言わないで、我妻さんは私の頭をその腕で包み込んでくれた。


「おかえりなさい」

「ただいま、名前ちゃん」


帰ってきてくれた、私の大好きな人。



< >

<トップページへ>