08. ぜ・ん・い・つ


目の前の羽織から、私は目を離す事が出来なくなった。
これはどういう事なんだろう。
夢の中の話とはいえ、これは私が幼い頃から見てきた夢で少年が羽織っていた物に間違いない。
何でこの羽織がここに?

羽織を開いて固まってしまった私を不審に思った旦那様が「どうした?」と声を掛けてくれる。
どう説明すればいいのだろうか。
でも、何か鬼と関係するのかもしれない。旦那様の耳に入れておいた方がいいだろう。
意を決して旦那様に説明しようと、口を開きかけた。
が、それは思わぬ所で邪魔される事となった。


「ねえねえねえねぇ!! 君名前何ていうの!? 俺、我妻善逸っていうんだぁ!!」


私と旦那様のシリアスな空気をぶち壊したのは我妻善逸と名乗る少年だった。
先程までの怯えた表情はどこへやら、ニヤニヤと頬を緩める姿に思わず私は後ろへ軽く仰け反った。
羽織を掴んでいた私の手を無理やり自分の掌へ納め、左右にくねくね揺れながら気持ち悪い顔で至近距離に近付いてくる。

善逸って呼んでほしいなぁと破顔しまくってる顔に言われ、私は呆れた顔をしているに違いない。

「善逸!」

旦那様が荒い声を上げる。
その声虚しく、というか全く我妻善逸という少年の耳には入っていないようだ。
ひたすらに手を握られ動く事も出来ないので、私は諦めつつ口を開く。
引き攣りながら「苗字名前と申します…」と答えたが、火に油を注いだように、彼の声は大きくなった。

「名前ちゃんっていうの!? うわぁ可愛い名前だなぁぁ! 爺ちゃん、俺こんな可愛い子がいたら頑張れるかもしれない!!」

いや、頑張らなくていい。
思わず胸の中に呟いてしまった。
何て面倒臭い人なの。やっぱりただの女好きじゃない。
ここにはややこしい人しかいないのか。
しつこく「善逸って呼んで」と言ってくる。正直鬱陶しい。

「我妻さん、離してください…」
「ぜ・ん・い・つ」
「あ・が・つ・ま・さん、これ以上は旦那様がお叱りになりますよ」

力を込めて離れようと試みたが、男の子の力に負けた。
さっきから背後でピキピキしている旦那様に気づいたのか、我妻さん(善逸さんとは呼んでやらない)は一瞬で泣きそうな顔へと変化する。

「名前、今日はもう下がりなさい」
「はい」

恐ろしく低い声で旦那様が言った。
凍り付いた我妻さんの手を払って、これ幸いと私はさっさと旦那様の部屋を後にする。
ざまあみろ、と思ってしまったのは内緒だ。

それから旦那様のお説教の声と我妻さんの泣き声が遅くまで続いていた。


◇◇◇


お風呂を頂いた後、自分の部屋へと戻ってきたと同時に盛大に溜息を吐いた。

はあ、疲れた。
今日来た我妻さんの事を思い出すと、頭痛がしそうだ。
獪岳(名前に出すのも嫌だ)みたいな人も嫌だが、パーソナルスペースが無ないような人も嫌だ。
なんて両極端なんだろう。バランスのいい距離感の人はどこにもいないのか。
精神的に疲れる。明日からどうなるのか考えるだけでぞっとする。
片手で軽くこめかみを抑えつつ、炊事場から持ってきた白湯を一口。

まあ、それよりも。

問題はあの羽織である。
夢の中のあの人へ繋がる手がかりである。
脳内で我妻さんとあの人を比較してみたけど、背格好も違うような気がするし(我妻さんの方が貧弱)、髪型は似ているけど髪色が全然違う。

藤乃さんにあの後、あの羽織について聞いてみたが、なんと仕立てたばかりの代物で誰も袖を通してないと言われてしまった。
確かに綺麗な羽織だったから、その通りだと思うけど。

「うーん…」

折角のの手がかりなのに、全く分からない。
これは先は遠いのかもしれない。

それでも、一応我妻さんには注意しておこう。
いろんな意味で。
夢のあの人とは別人説が濃厚だけど、あの羽織を着るのは我妻さんだから。

我妻さんの事を考えていたら、そのまま寝てしまった。
お蔭様で夢の中まで「名前ちゃああああんん」と追いかけられる羽目になり、ここにきて初めて最悪の目覚めを経験した。
マジで悪夢。



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