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こういう時に動き回っていいのか分からない。
もう暖かい季節になろうとしているのにも関わらず、露出している肌を冷たい風が刺激する。
どこからこの風は吹いているんだろうか。
そんなどうでもいい事に思考が巡るのは、そうでもしないとこんな怖い場所に一人でいる事が耐えられないからだ。
一歩一歩歩くたびに水音が響く。
水溜まりに入ったかと思ったけれど、そうじゃない。
“水の中に入ったんだ”。
水深1センチ程度だろうか。どこを歩いても水を引き連れて歩く感覚が足を襲う。
しかも奥へ奥へ進んでいくにつれて、水深も深くなっているような気がした。
これ以上先へは進めない。
誰かと合流しなきゃと思って動かしていた足を止めた。
同時に水音も止んだ。
暗闇の中を歩き、少しずつだが目が慣れてきた。
薄っすら視界に見えるのは、病院の壁だったもの。
こんなところにまでスプレーで落書きがしてあるのを見て、少しだけ安堵する。
「…ゃ」
声が聞こえた。
今まで聞こえていたのか分からないけれど、歩くのをやめたお陰で余計な音が耳に入らず、やっとその声を認識することが出来た。
なるべく息を漏らさず、足音を立てず。
もう一度耳を良くそばだてて声の方向を確認する。
「…ちゃ、ん」
聞こえた。
泣き声のような子供の声だ。
誰かを呼ぶような声を聞いて、胸が痛んだ。
こんな危険なところに子供が迷い込んでいる。
私ですら恐怖だと感じているのに、年端も行かない子が一人ならば非常にまずい。
先程戸惑って止めた方向へ足を進める。
この先だ、この先に子供がいる。
水深が3センチを超えた。
もう靴の中に水が入り込んでいて、湿って気持ちが悪い。
でもそんなことに気を取られているほど余裕はない。
壁伝いに手を置いて、ゆっくり声の方へ近づいていく。
声は段々大きくなっていった。つまり、この方向で間違いはない。
ガラスの割れた扉の横を抜け、先の長い廊下へ出た。
その一番奥の扉から声は漏れていた。
扉に手を掛け押してみる。
水を伴って少し重いが動かないことはない。
力を込め片方の扉だけ、私一人が入れる隙間を作った。
中へ入ると、廊下よりもさらに暗く、折角慣れた目も役には立たなかった。
「誰か、いる?」
私がそう声を掛けると、泣き声がぴたりと止んだ。
きっと他に人がいると思っていなかったのだろう、困惑の吐息が聞こえた気がした。
私は自分の身体の前に手を伸ばして、ゆっくり前へ進む。
キィ、と音を立てて扉がゆっくりと閉まった。
完全に光が途絶えた部屋の中、私の声と水をかき分ける音が響く。
「どこにいるの? 大丈夫、お姉ちゃんがいるから、こっちにおいで」
どのくらいの年の子なのか分からないけれど、きっと怖がっているに違いない。
なるべく声色を明るく務めた。
すると、私の前方で「おねえちゃん」と声が聞こえた。
小さな小さな女の子の声だ。
「そこにいるの?」
声の方向が分かったら、私はそのままの姿勢で歩く。
自分の手が壁に付いたと同時に、腰を落として、目の前にいるであろう女の子に向かって「大丈夫?」と声を掛ける。
見えないから手を女の子に触れて、ポンポンと頭を撫でる。
自分がそうして貰ったら、きっと安心するから。
「こわいよ、お姉ちゃん」
女の子の手が私の手を掴む。
予想通り小さい手だった。必死に私の指を握る様子から、どれくらい長い間一人だったのだろうかと思考を巡らせた。
「こんな怖い所から出ようね。こっちに来て」
小さな手を引いて、私は立ち上がる。
女の子の手を引きながら、来た道を戻った。
扉を開けて廊下に出るとぼんやり女の子の様子が確認できた。
ツインテールの5歳くらいの女の子だった。
女の子もまた私の様子が見えて、安心したのだろう。さらに強く握ってきた。
何があってこんな小さい子がこんなところにいるのかは分からないけれど、早く五条さんと伏黒くんと合流しないと。
何かがあってからでは遅い。
ジャバジャバと二人分の水をかき分ける音が響く。
それでも自分一人じゃないだけ恐怖はマシな方で、むしろ自分がしっかりしなければと意識を奮い立たせた。
「おねえちゃん、おねえちゃん」
「どうしたの?」
小さい手を握ったまま女の子に視線を落とすと、女の子は強張った顔をこちらに向けて「怖い人がいるの」と呟く。
「怖い人?」
「…そう、さっき入ってきた」
「大丈夫、お姉ちゃんがいるから、そんな人怖くないよ」
「本当?」
「うん」
怖い人が何か分からない。
でも、このぐらいの子なら、少しの物音でも怖いはずだ。
せめて少しでも怖い思いをしないよう、私はにこりと微笑んだ。
すると女の子はその表情を少しだけ緩め、同じように笑う。
「その人、お姉ちゃんと一緒に入ってきたのに?」
女の子の言葉に、歩いていた足を止めた。
それは、どういう意味だろう。
私と一緒に入ってきた人? その人が怖い人?
何でこの子は私が他の誰かと一緒に入ってきた事を知っているんだろう。
そもそも、何で小さな女の子があんな奥まった部屋で一人で居たんだろう。
ここに入るときの病院の外観は、とてもじゃないけど小さい子が気軽に入れるような雰囲気ではなかったはず。
さらに力を込めてぎゅうっと握られる。
むしろ、痛いくらいだ。
「どうしたの、手痛いよ?」
慌ててそう言ってみるも、女の子は手を離さない。
そして、顔を私の方へ向けて、弧を描くように口角が上がった。
子供らしからぬ表情に私は一歩後ずさった。
「ねえ、おねえちゃん。私ずっと待ってたの、お姉ちゃんが一人になるのを」
ゾクリと変な感覚が背中を走る。
……ちょっと待って。
頭の中で鳴り響く警鐘は、命の危険を知らせるものだ。
空いていた手で握られた手を離そうと藻掻くも、まるでセメントでくっついたかのように離れない。
次第に女の子がケタケタと笑い始め、そして、私の背丈を軽く越して大きくなるのが見えた。
私を軽々と覆いつくすような影。
目の前にいたのは小さな女の子などではなかった。
「大丈夫だよ、残したりしないよ。全部全部、綺麗に食べてあげるね」
女の子の口だったものから吐かれる言葉は、私を簡単に恐怖へ突き落した。
足はガタガタと震え、立っているのもままならない。
自分の命の危険が目の前に迫っているのに、動く事すらできない。
手も指も何も動かない、でも口先だけはゆっくりと動かすことが出来た。
「…ご、」
このまま死ぬ。
今までも何度か命の危険はあった。
今度はもうだめかもしれない。
それでも、この人の名を呼ばずには居られなかった。
「五条さん、たすけて」
ほろりと頬を雫が伝った。