17
水の音、そして自分の心臓の音。
水だと思っていたのは、少女だったものの口から垂れたものだ。
「お、ねえ、ちゃ、ん。 いただき、ます」
酷く耳障りな声だ。
これが死ぬ間際に聞いた言葉だなんて、なんて酷い人生だ。
覚悟など決められるはずもない。だって私はただの高校生。数日前にやっと自分の価値について知ったばかり。
でもきっと、これが本当に最後なのだろう。
最後の最後に思い浮かぶのは、今まで大切に育ててくれた家族でも、学校の友達でもない。
「ごじょう、さん」
私の情けない声を聞いて、少女だったものが厭らしく笑ったような気がした。
もう表情すら人からかけ離れていて、どんな感情を私に見せているのかすら分からない。
でもきっと私の事が滑稽だとでも思っているのだろう。
助けなどないのに、死ぬ最後の最後まで仲間の名前を口にする私を。
本当の恐怖を目の前にすると、人は瞼を閉じる事すらできなくなる。
化け物の大きな口があんぐりと開き、私の顔の前にそれが来た。
…こわい。
次の瞬間には私の頭と胴は別々になっている、その恐怖を私はギリギリのところで耐える。
「まさかすぐにフラグ回収されるとは思わなかったね」
トン、と私の肩を優しく叩かれて自然と私のお尻は冷たい水についた。
あれだけ離れなかった化け物と繋いでいた手は、あっさり離れていて。
そして私の前には後頭部を手で搔きながら「ごめんね、怖かったでしょ」と言うその人を見て、私は死の淵で見えた幻覚なのかと思った。
お尻をついたまま、その白い手に手を伸ばしてしまった。
「心配しなくても、後で存分に繋いであげるよ」
私の手の平に感じる熱は、明らかに幻覚などではなくて。
優しく語り掛けるような声もまた、この死が間近に迫っている状況の中で異質で。
私が夢でも見ているのかと思うくらい。
「来ないで!! こっちに、来ないで!」
化け物の泣き叫ぶ声が真横で聞こえる。
なのに、五条さんは目の前に化け物がいるのに、華麗にスルーして私の手を優しく撫でる。
「冷えてる」
「…え?」
「一人でよく耐えたね。もう大丈夫だよ」
僕、最強だから。
その言葉を耳にしたら最後、次に聞こえたのは化け物の断末魔だった。
ボチャン、ぼとん。
私の身体の横に飛ぶ肉片は、五条さんのものではない。
全て化け物の身体についていたものだ。
私の目には何が起こったのか、早すぎて追いつかなかったけれど、ただただ肉片が水の中に落ちる音が聞こえる。
最初は威勢よく叫んでいた化け物の声も次第に静かになる。
「なるべく痛みを感じないようにしてあげるのが、優しさなんだろうけど、流石にそういう訳にもいかなくてね」
「あ、あ…」
「人生初めてだよ、肝が冷えたの」
「お、おね、お」
あんなに図体の大きい化け物は、私とそう変わらない大きさへ削がれてしまう。
五条さんの目にかかっていた布がはらりと落ちて、化け物と目が合った途端、ポツポツと小さな爆発が体の上で起こっているようだ。
最後に残った太い腕が五条さんを搔い潜り、私の足元へ。
そして、
「お…おねえ、ちゃ、たすけ、て」
最後にそう言い残し、私の目の前で爆散した。
頬に掠めた化け物の体液。
その最後を目を逸らすことなく、気が付けば何故か宙に向かって手を伸ばしていた。
もう痛いほど握っていたそれは、この世のどこにもいなくなってしまった。
自分が助かった、という事に気づいたのは、一寸置いてから。
私の頬を自分のシャツで拭う五条さんを見て、やっと焦点が合った。
さっきまであれだけ余裕で、しかもどこか怒りを孕んだような戦いをしていたのに、今や泣きそうな顔で私の頬をごしごしと摩っている。
「……僕が怖い?」
「何故?」
首を傾げて問うてみる。
でも五条さんははっきりとは述べず、その綺麗な瞳を逸らして私の右手をそっと自分の手で包み込む。
まるで幼子だ。
私よりも幾分も年上のこの人が、小さな小さな子供のようだ。
「何を考えているのかわかりませんけど、五条さんのお陰で私、生きてます」
私が食われて死ぬ事がどれだけ罪な事なのか、それを知っているだけにこうしてまだ息をしていられるのは、幸運としか思えない。
五条さんが助けに来てくれなかったら、私は孤独に死んだ。
「五条さん、私を助けてくださってありがとうございます」
お礼を言っても五条さんの表情は晴れない。
私に怖い思いをさせたことをそれだけ気にしてくれているのだろうか。
……五条さん、あのね。
「自分が死ぬところだったのに…」
つう、と頬に雫が落ちる。
恐怖のそれか、安堵のそれか。
あの子を救えなかったのかと責める自分がいるの。
「この世は綺麗なものばかりじゃなかった」
五条さんは親指の腹で雫を拭うと、黙って私を自分の胸元に押し付けた。
◇◇◇
「大丈夫か!?」
「…伏黒くん」
病院の入り口。
五条さんに抱きかかえられなんとか外へ出ると、心配そうな顔をした伊地知さんと、伏黒くんがいた。
すぐに伏黒くんが駆け寄ってきてくれた。よく見ると伏黒くんの頭から血が出ている。
血の色を見て我に返った私は思わず声を張り上げた。
「ふ、伏黒くん! 血、血…!」
「こんなのはかすり傷だから、気にすんな。それより、怪我はないか?」
「私は大丈夫、五条さんが助けてくれたから」
そう言って顔を上げると、五条さんはさっきの泣きそうな顔はどこへ。
何故か自慢げに鼻を鳴らしていた。
…え? メンタルどうなってるの、この人。
さっきの命のやり取りの中で、まだ心臓がキリキリしているけれど、
それでもいつもの五条さんの様子に安堵してしまう。
きっとこの状況に慣れないといけなくなる。
私はもうただの高校生には戻れない、と悟った。