06


「どうしたの、元気ないね」

ふと不審者男の手がすっと伸びてきて、滑らかな手付きで私の肩をそっと抱き寄せる。
私は抱き寄せられたと分かった時点で胸板に手で押さえたけれど、頭の上から「暴れないの」という軽い笑いが聞こえるだけだった。
いやいやいや! 確かに家に、というか部屋に入れた私が悪かったとしても、こんな風に近づいてこられることは想定していない。
そのつもりで離れて座っていたのに、いつの間にか近づいてきている上に、自然に触れてくるし。
変質者極まりない手付きにサーっと青ざめる私。
男はそれでも手を放す事なく、楽しそうに笑っていた。

「何かあった?」

私の顎に手をやって、クイっと強制的に上に向けさせると男は口元を優しく緩めながらそう呟いた。
何かあったか、と言われれば何かあった。
それは私の知らないところで勝手に終わっていたし、未だに解決はしていない。
ただもう少しで私自身も巻き込まれていた可能性があったということ、ここ最近の私の周りで起こる怖い事と何か関係しているんじゃないかって思ってしまって、恐怖でどうしようもなかった。
それをどう説明すればいいのか分からなくて黙っていたら、男は顎にあった手をそのまま頭の上にぽんと持ってくる。

「……大丈夫。名前の事は僕が守ってあげるから。僕って最強なんだ」
「キモイ」
「あれー? ここは『キャー素敵!』って目をハートにして抱き着く所じゃない?」
「キモイ」

当たり前のように私の名前を呼ぶ事に気味の悪さを感じつつも、それでもこの男の言葉で少しだけ心が晴れた。
元より男がこの部屋に入ってきた時点で、恐怖なんてほとんど消え去ってはいたが。
それでも、この男なら本当に守ってくれるかもしれない、という何となくの自信があった。
どうして。ただのストーカーなのに。気持ち悪い人なのに。

「僕はね、君を守るために傍にいるんだよ」

当然のように呟かれても、背筋はゾゾゾと薄ら寒気が走る。
それを感じ取った男が「おかしいな、他の女の子はこれで落ちるのに」と不服そうだ。

「それはそれとして、いい加減離してください」

少し力を込めて胸板を押すと、あっさり男は腕を解いた。
すかさず元の位置よりも遠い位置に座り直して、絶妙な距離を取る。
それを見て男はふうと息を漏らした。

「暫く学校休みなんでしょ?」
「…そうですけど、何で知ってるの…」
「ほら僕って好きな子の事は何でも知りたいタイプだから〜」
「……」

私の個人情報は既にどこかに売られているのかもしれない。
じゃないとこの男が私の情報を持ちすぎている理由が説明付かない。
私が更に青ざめている間にブツブツと男は「晩御飯の内容だって、昨日のお風呂に使った入浴剤だって知ってるよ」と当然のように言う。
男の漏らした言葉に悪寒どころの騒ぎではないぐらい、恐怖とは違う寒気が私を襲うが、男はニコニコ笑っていた顔を急にキリっと真面目にして、首を僅かに傾げた。


「明日から僕と一緒に過ごしてくれるね?」


パチパチと数回瞬きをして、男を見る。
真面目な顔をしているけれど、どうせまたふざけたことを言っているに違いないと、一寸時間を置いてみたけれど、男はその真面目な顔を解くことなく、布で隠れているというのに鋭く視線で射抜かれたような気がした。
それは有無を言わさず。私に拒否権を与えないそんな言葉だった。
反射的に拒否しようと思った口は、少し戸惑いながら「どうして?」と問うていた。
男は表情を変える事なく、当然のように続ける。

「僕が傍にいないと、君は死んじゃうから」

私が、死ぬ。
その意味はよく分かる。
この男と初めて会った時、それから昨日の放課後。
もしどちらもこの男が居なければ、私はきっと今もこの世にはいない。
馬鹿みたいな話だというのに、それを否定することはできなかった。

「私、死んじゃうの?」

漏れた声は震えていた。
自然とベッドのシーツを固く握っていた。男はシーツを握る私の手を一瞬見て、それからまた私の方にまるで目を合わせるようにこちらを見て。
そして、ゆっくりその目を覆う布を外した。

はらりと男の膝に落ちる布。
持ち上がっていた髪までも重力に逆らうことなく垂直に落ちて。
髪の隙間からちらりと見える、淡い海のような色の瞳。


「死なせないよ」


その瞳から目を逸らすことは出来なかった。
ただ、昨日も少しだけ見えたその瞳に完全に目を奪われた私は、昨日言えなかった言葉をぽつりと零した。

「……綺麗な瞳」

そう言うと男の真面目な顔が一瞬ポカンとして、それからくすりと一つ小さく笑う。
「ああもう、本当に君は可愛いんだから」と男は軽く髪をかきあげて、まるで飛ぶようにベッドから降りた。
くるりと私の方を振り返った男は、いつものような食えない笑みに戻っていた。

「明日迎えに来るから、大人しくしているんだよ」
「……え?」

男はさっさと言いたいことを言って、元来た窓の外へと飛び出して行った。
正気に戻った私が窓の外を覗き込んでもそこにはもう奴の姿は見当たらない。
まるで嵐のようにやってきて、かき乱すだけして出て行ってしまった、本当に訳が分からない。
呆然と外を見て私はやっと気づいた。

「…迎えに、来る?」

一緒に過ごす事を強制され、それから迎えに来ると言われた事に。

先程までのまるでおとぎ話の中で綺麗な宝物を見つけたような感覚が、一気に遠い昔のような感覚に陥ると同時に自分の貞操の危機が差し迫っていることをやっと理解したのだった。


◇◇◇


「せんせー、女子の部屋ってどんな感じ?」
「僕に聞かなくても野薔薇の部屋を見せてもらえばいいじゃない」
「……分かってて言ってんだろ、この人」

適当な家の塀に足を組んで座っていた悠二を見つけて近寄ると、悠二はつまらなそうな顔で呟いた。
どうやら僕が先ほどまで名前の部屋に居た事を知っているらしい。
だとしても名前の部屋がどうだったかを悠二に言う気はしなかったので、適当にはぐらかすと大きく溜息を吐いた。

「……俺がもっと上手くやれればよかったんだけど」
「悠二。いくら何でも想定外な事を簡単に対応できるようなそんな人間になるには、もう少し時間が必要だ」
「でも、」
「僕が居たとしても、きっと犠牲が減ることはなかったよ。……随分と前から彼らは中から食われていたようだし」

昨日の学校での任務を思い出しながら、悠二の隣に腰を掛けると、悠二は顔を上げて僕の方を見る。
少なくとも、君を一人にした僕の責任でもあるんだから、悲観することはない。
当初の報告よりも大きく違っていたしね。

「あの子は、大丈夫だった?」
「うーん、まあちょっと気持ち的にやられてるみたいだけど、大丈夫でしょ。明日からは僕が傍に居ることだし」
「明日からじゃなくて、毎日傍に居る癖に」
「愛って罪だよね」

ハハ、と乾いた笑いを見せると悠二は何度目かの溜息を吐いて、ぴょんと塀から飛び降りた。
ポケットに両手を入れて、首だけをこちらに向ける悠二はあきれ顔で「敷地内に一般人を入れていいの?」と問う。
勿論、その質問を待っていた僕は当然のように余裕たっぷりでこう答えた。

「僕の家に招待するだけさ」
「いやそれ絶対ダメなやつじゃん」

目をカッと開いてブンブン首を横に振る悠二に、僕は「え〜」と不満を漏らしたけれど、それからも根気よく説得されたので、プランを考え直すことにした。
これじゃ、どっちが先生か分からないね。

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