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「オジイチャン、とうとう妄言を吐き出す様な年頃になっちゃったのかな?」
「妄言などではない」

ローテーブルを挟んだ向かい。
熱そうなお茶を啜る真似をする白髭ジジイにわざと茶化すように言ってみたが、その表情はいつもと同じくぴくりとも反応しない。
僕は薄っぺらい笑顔をにこにこと向けているが、腸はそれとは真逆で煮えくり返っている。
感情をそのまま態度に出すなんて、もう若者のようなことはしないけれど、それでも目の前のテーブルを蹴り上げてやろうかと思うくらい。
すっと左手を背中に隠し、見えない様にギリギリと力を込めて握ることしか出来ない。

この耄碌ジジイが。

「虎杖と小娘に任務に出てもらう」
「…悠仁ならまだしも、名前はまだ出せないよ。わかるだろ?」

ジジイはやっぱり表情を変える事なく平然と言ってのける。
その顔を見ていたら顔面に蹴りを入れたくなってきた。しないけどさ。
ジジイのでっかい耳たぶにある数えきれないほどのピアスに指を掛けて引きちぎってやろうか。しないけどさ。

京都呪術高専の学長である楽巌寺嘉伸。
わざわざ歌姫とともに京都からやってきたと思えば、僕たちの可愛い教え子たちへ特別任務があるという。
うちの学長が居ない間に何をふざけたことを。
当然聞き入れられるものではない。

「“先祖返り”と一緒に任務に出ると、周囲にいた人間の能力を引き出すというデータがある」
「まさかそれを立証するため、とか言わないですよね? そんなふざげたデータがあるのかも疑わしい」
「数年前、たった一度だけ。そこまで言えば分かるか?」

ぴくりと僕の瞼が痙攣する。
落ち窪んだ影の中の瞳がすうっと僕を見た気がした。
流石に笑顔なんて吹き飛んだよね。
僕の頭の中にあった記憶の引き出しから無理やりあの時の記憶が蘇る。
わざと僕を護衛から外し、逃げるためだと言われて連れられた“あの人”がどうなったのかなんて、口に出すまでもない。
あの時の事を言っているのだとすれば、この特別任務とやらは最初から仕組まれているものだ。

「許可できない」
「許可なぞいらん。上層部の判断に逆らうのか」
「……だから保守派ってクソなんだよ」

チッと舌打ちを零す。
とうとう感情が表に出てしまい、それを取り繕うこともしなくなった。
でもそんなことはどうでもいい。
上層部の保守派が何を考えているのかが手に取るように分かったからだ。
悠仁と名前。
二人を一気に消すのに、十分な理由だ。

「僕も行く」
「お前にはお前の仕事がある」
「は、」

目を見開く僕に歌姫が横から数枚の資料を出す。
ちらりとそれを見ると文章の中に夏油の文字を見つけ、僕は目を細める。
僕の反応を見るやジジイは「行かぬと申すか?」と茶を一口。
……どこまでもふざけたジジイだよ、アンタ。

「お前にしか出来ない任務だが、それを放棄するというのなら、上層部も黙っていないだろう」
「……汚い大人って嫌いだよ、ほんと」

足を組み直し投げ捨てる様に資料を手離した。
体のいい言い訳にすぎない。つまりは僕を引き剥がしたかっただけ、あの時のように。
苛立ちがピークに達し、噛み締めすぎた奥歯が悲鳴を上げている。
あの時のように、あの人のように、名前を殺すつもりか、ジジイ。

宿儺の受肉体となった虎杖悠仁、“先祖返り”である名前。
どちらも生きているだけで保守派の人間には神経すり減らす存在だろう。

「前の時は、こちらの力及ばずだったが、今回はお前の教え子である虎杖が居れば問題は無かろう? 何か心配事でもあるか」
「それらしいことを言っちゃって、悪い人間だねぇ」

前の時もアンタたちの思惑だっただろうが。
そう喚いてもいいが、結果は変わらない。
夏油が出てくる可能性があるのならば、僕が行くしかない。
名前を連れて行けるわけもないし、置いて行けば名前はその間に始末される。
名前のことを思えば、特別任務とやらに行かせられるわけないんだけど、行かなければ命令違反としてどうなるかわかったものではない。

悪魔のような時代から少しは変わってくれればよかったのに、一向に変わらない保守派の思考に感心さえしてしまうね。


「思い通りに行くと思うなよ、ジジイ」


殺させてたまるか。

布をずらして目の前のジジイを睨みつけると、ジジイは少し驚いた顔をしつつ小さく笑う。

「そこまで怒るか。あの娘に懸想しているという話は、本当だったか」
「センシティブな話題を振らないでくれる?」

このまま同じ空間に居たら、本当に手が出てしまうかもしれない。
ただでさえ苛立って仕方ないというのに。
深呼吸ついでに立ち上がり、僕はさっさと扉に向かって歩いていく。
僕の背中に「本当に、あれは可哀想だったのぅ」と呟くジジイ。
一瞬足は止まったけど、すぐに何事もなかったかのように、部屋を出た。
後ろ手に扉を閉めて、目の前の廊下の壁を思いっきり睨みつけて、僕は早足でその場を去る。

こんな時のために準備はしていたけれど、時間がない。
今すぐに悠仁と名前に会わないと。

長い廊下を足音もなく過ぎ去りながら、僕は下げていた布をかけ直した。

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