さて、私の幼い頃に決心した目標のために行ったことと言えば、父と母に頼んで、近くの道場で稽古をつけてもらうことだった。
いつ何時、得体の知れないものに襲われるか分からない。
きっと人間なんてひと捻りだろうが、それでも自分の基礎体力を上げていくことは間違っていないはず。
母からは「年頃の女の子が何てこと…」と嘆かれたけれど、こちとら命がかかっている。
二度目の人生を終えた時、三度目の人生が始まる保証だってないのだから、今を精いっぱい生きるしかないのだ。
結果的に言うと、道場で習っていたことは私の役に立った。
道を歩いていた私を襲おうとした暴漢から、自分の身を守れるくらいには。
有難いことに、あれから同じような目にはあってはいない(父が私を一人にする機会を減らしたということもあるけど)。

加瀬様がお帰りになるというので、店の外までお見送りをした。

「加瀬様も、お気をつけて下さいね。何が起こるか分からない世の中ですから」
「はは、名前ちゃんは本当に優しいお嬢さんだね。きっとその辺の男が放ってはおかないよ」

冗談だと思われたのか、からっとした笑みを見せて加瀬様は自分の帽子を持ち上げ会釈した。
私はその背に緩く手を振って、何ともいえない顔で見えなくなるまでその場に立っていた。
私の知る鬼滅の世界ならば、きっと性別年齢など関係なしに被害者となりうるだろう。
せめて私の知る人達がそんな目に合わなければいいのに。
そう願うしかなかった。

それが、加瀬様を見た最後の姿だった。

毎日お食事に来てくれていた加瀬様が見えなくなって、数日。
最初は仕事か、もしくは体調が悪いのだろうと気にしていなかった。
それが一週間、二週間と過ぎた頃、従業員の中で一つの噂が広がる。

『人の惨殺死体が森の中で見つかった。それはどうやら加瀬様らしい』と。

一体どこから出た噂なのか分からない。
ただ、年の近い鶴子さんが神妙な顔で教えてくれたから、決して笑いごとではすまなかった。

「その遺体が加瀬様かどうかなんて、誰がわかったの?」

確かに新聞では性別不明の遺体が発見されたとあった。
だけど、この時代DNA鑑定なんてものもないのだから、個人を特定する方法なんて、その人の遺品や風貌でしかわからない。
だからきっと加瀬様なはずがない、と言った。
が、鶴子さんは顔を青ざめたまま

「遺体の近くに加瀬様のお帽子と…最後にお召しになっていた衣服の端切れが落ちていたそうよ」

と、告げる。
流石の私も、皿を洗っていた手を止めて、慌てて鶴子さんの手を握った。

「ど、どうしましょう…名前さん。私、怖いわ…だって、こんな身近な方が無くなるなんて…しかも犯人は捕まっていないのよ」

青から白へと変わっていく顔色をどうにかしたいと思って、鶴子さんの手を強く握ったが、鶴子さんはそのうちガタガタと震え始める。
普通のお嬢さんならば、きっと怖くてたまらないはずだ。
自分がその被害にあった事を考えれば、鶴子さんの気持ちはよくわかる。
だって、私だってそんな目に合わない為に、今まで生きてきたから。
幸運な事に、今までまだ鬼滅の登場人物に会ったことはないから、回避はできていると信じたいが。

「大丈夫。きっと大丈夫よ。心配なら、店長さんと一緒に帰ったらいいと思うわ。私から店長さんにお願いしておくね」
「ありがとう…ありがとう、名前さん」
「大丈夫だからね。気にしちゃだめ」

結局震える鶴子さんを、そうやって慰めることしかできなかった。
だって私にはどうすることも出来ない。
自分一人の命を守ることで精いっぱいだ。


街でも突然の事件にすっかり人通りも少なくなってしまった。
お店も閑古鳥、とは言わないが暇な時間が増えた。
いつお客様が来るか分からないから、店先に立っていることしか出来ないけど。

「ごめん下さい」

突如店に響く、若い女性の声。
うちの店は大体お金持ちの男性が女性を連れていることが多く、女性一人だけで入店されることは少ない。
だから大変驚いたけれど、別に店としては問題ないので私は慌ててお客様を案内しようと、小走りで向かった。

「いらっしゃいませ。ご希望のお席は…」

御座いますか。
そう続くはずだった言葉が、途中で止まってしまった。
女性は不思議そうに小首を傾げている。
女性の身に纏う地味な色合いの着物とは別に、まるで蝶の羽のような柄の羽織。
羽織とお揃いの髪飾りが女性の後頭部で揺れている。

私は、この人を知っている。

私の知っている隊服姿ではないが、まさしく彼女だろう。

蟲柱 胡蝶 しのぶ。

紛れもない、鬼滅の刃の重要人物の一人である。

途端に私の足が情けなく震え始めた。
まさかそんな。こんなに簡単に会うとは思っていなかったから、驚いた。
漫画で街の飲食店へ入る描写なんてあっただろうか。
最後まで読んでいないから良くは知らないから、もしかしたらあったのかもしれないけど。

目の前が真っ赤になるくらい色んな思考が駆け巡っていく。
何秒も沈黙し固まった私に胡蝶しのぶさんは戸惑う表情を見せた。
慌てて、引きつった笑みを見せて「失礼しました、奥へどうぞ」とくるりと翻した。

「お食事を決める前に、お伺いことがあるのですが」

透き通るような声。
決して聞き惚れている場合ではないのだろうけれども、私は呆然と彼女がメニューを開かず膝に手を置いている姿を見ていた。
反射的に「なんでしょう」と言う声は震えていたのかもしれない。
出来る事なら私以外の従業員に対応を任せたいところだが、昨今の情勢の所為で、出勤人数も減り、厨房へ引っ込んだまま出てこないなんてことも珍しくない。
あれだけ回避したかった繋がりが、こんな形でできてしまうなんて。


「こちらに、加瀬 泰輔という男性が通っていたというお話は、本当でしょうか」


ドクンと心臓が高鳴る。
加瀬様のフルネーム。一番最初に自己紹介を受けた時と同じ名前だ、と昔の記憶が蘇った。
私は唾を飲みこみつつこくりと頷く。

「はい。加瀬様には御贔屓頂いておりました」
「最近はそうではないみたいですね」
「……え、ええ」

すっと胡蝶さんの目が細められる。
口元は美しく弧を描いているが、決して笑っていない。
何かを見定めるようにも見える姿に、身体を鍛えたこともあったはずの私は震えあがっていた。

「…お店の方はお嬢さんだけですか?」
「まだ他にもいます。ですが、今は皆怖がってあまり店に顔を出しません」

必要であれば呼んできます、と言うと胡蝶さんは緩く首を振る。

「他にお客様もいらっしゃらないようですし、少しお話相手になってくださいませんか」
「…わかりました」

胡蝶さんに促されるまま、私は向かいの席に座らされる。
ドクンドクンと自分の心臓の音がまるですぐ近くで聞こえる。
背中に流れる汗と震えの止まらない指先。
どれもこれも胡蝶さんにバレない様に、私は平然とした表情を貼り付けて腰を下ろした。


「本題に入りましょう。加瀬泰輔という男性は、先日遺体で発見されました。何か心当たりはありますか?」


決して喫茶店で話す様な話題ではないだろう、と頭の片隅で思う。
今にも逃げ出したい衝動に駆られながら、私は頭をフル回転させて、言葉を紡ぐ。

「いえ、何も」

私は、何も知らないただの一般市民なのだから。
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