「伊之助、離せよ」
我妻さんにしては珍しくトゲトゲしい言い方をするなぁ。
何に怒っているのか分からないけど、雰囲気がいつもと全然違うし、伊之助さんを呼ぶ声が物凄く冷たく感じた。
私もピリッとするくらい、何だか緊張してしまう。
「は?」
対して、伊之助さんは苛立ちを隠そうとせずに反応する。
私の掌の手もさらに力が籠ったのが分かった。
痛い。これ以上は痛いです。
抵抗してみようとしたけど、案の定手は解かれなかった。
ずんずんと我妻さんがこちらに寄ってくる。
近くで見ても怒っている事がはっきりと分かった。
おでこには青筋が見えるし、口元なんかめちゃくそ歪んでいる。
どうしよう、本気で怒っている。
初めてみる我妻さんの怒りに私はどうしていいか分からない。
「あの、伊之助さん?やっぱり手を離してほしい、なんて」
ちょっとした願望を呟いてみたが、我妻さんを睨みつける伊之助さんの耳には届いていないようだ。
ちらっと我妻さんを見たら、さらに苛立ちが顔に出ていた。
やばい、まずい、どうしよう。
「伊之助さん…?」
少し可愛く言って見たが無視だ。
私の手が限界を迎えようとしている。
この猪馬鹿に力いっぱい握られたら、私の手は粉砕骨折してしまうだろう。
もういい加減にしてほしい。
ずきずきと痛み始めた手をいつまでも犠牲にするつもりは無いので、私は意を決して叫んだ。
「伊之助さん!私の手が折れますから、離してください!」
「なっ…」
結構なボリュームの声がその場に響いた。
一瞬、伊之助さんが驚いて手の力が弱まった隙に私の体はひょいっと後ろへ後退させられた。
それもまた予想外だったので、軽くパニックになってしまったが、よく見ると我妻さんに脇から手を入れて身体を抱き上げられていた。
我妻さんの後ろへすとんと下ろされ、まるで私を伊之助さんから隠すように前に立つ。
こうしてみると背中も大きいな、なんて考えてたら伊之助さんが「おい!」と声を上げた。
「伊之助は少し女の子の扱い方を学べば?」
挑発的に我妻さんが言う。
いや、貴方。人の事言えるほど女慣れしてるんですかと問いたい。
女慣れしてたらそんなに女性に騙されたりしないでしょうが。
まあ、猪と比べると慣れてるのかもしれないけど、猪は最底辺だ。
「るっせぇ!」
「じゃあ、俺たちはこれで」
「おい、待て!話はまだついてねェだろうが!!」
くるりと我妻さんが私の手を握って伊之助さんに背中を向けた。
その背中に伊之助さんは暴言を吐いているが、私が小声で「まあまあ」と言うと苦虫を噛み潰したような顔でこちらを見ていた。
そんな顔されても、ねえ。
その間に我妻さんは私を引っ張って縁側から立ち去った。
早歩きで我妻さんの向かった先は、私が一人で寝ている部屋だった。
乱暴に扉を閉められて、私はぽいっとベッドの上に投げ出された。
「いったぁっ」
突然の事だったので、吃驚して声を出した。
何すんだこのバカ、と喉まで出かかって我妻さんを見たら、その表情は怒りで満ちていた。
蛇に睨まれた蛙のように私は怯んでしまった。
「な、なんです、か?」
若干どもっていたが我妻さんに問うと、扉の前にいた我妻さんがずいっと近付いてくる。
「何してんの、名前ちゃん」
「なに、とは?」
「手、見せてよ」
ぐいっと右腕を無理やり上げられる。
見事に猪に掴まれた跡がそのまま残っていた。
あの猪、本気で掴みやがったな。どーりで痛い筈だ。
「何されてんの」
「と、言われましても…」
超絶不機嫌王子の言葉に反論する私。
正直アンタたち化け物筋肉に私みたいなか弱い女子が敵うわけないじゃないか。
抵抗はしたんだよ?したよ?
「もう伊之助には近づかないで」
「うーん…どうでしょう?」
「どうでしょうって何」
「私から近付かなくても伊之助さんが寄ってくる場合もあるのでは?」
「じゃあ、俺の傍から離れなきゃいいじゃん」
ああ言えばこう言う。
今の我妻さんは普段のそれよりも面倒だな。
私だって出来る事なら我妻さんの傍に居たいですけどね。
これは口には出しませんが。
「ずっとという訳に行かないじゃないですし」
「ずっと居ればいいじゃん」
「そんなあほな」
まるで子供戯言だ。
それでも少しだけきゅんとしてしまう自分の心に呆れてしまう。
でも、ね。
我妻さんに私の行動を制限される言われはないんですけどね。
「大体、私が伊之助さんと居ようが我妻さんには関係な」
い、と続くはずだった言葉は途中で消えた。
気が付くと目の前には我妻さんの金色の髪があって、唇には柔らかな感触がして。
逃げようにも右手と左手を掴まれてて、動けなくて。
でも一瞬だった。
すぐに我妻さんの顔が離れ、潤んだ瞳が私を見つめていたのだ。
その顔に少しだけ色気を感じてしまい、余計に戸惑った。
こんな我妻さん、私知らないんだけど。
本当に、我妻さん?
そして遅れてやってくる唇の熱に、体中の血が沸騰しそうになった。
「二回目、でしょ」
うっすら頬を染めた我妻さんがそう言うと、私の思考はキャパを超えてしまった。