32. 死んでごめん

「いいぜ。鬼ごっこでもしようかァ?」

ぺろりと舌なめずりしながら鬼が言う。
私の体力が無くなったところを食べる気だろうけど。
未だ動かない身体を無理やり引きずって、なるべく距離を取る。
その様子に気付いた鬼がまた厭らしく笑う。

「あぁ、それ解いてやるよ」

パチン
鬼が指パッチンすると、痺れて動かなかった腕や足がふっと軽くなった。
慌てて腕を擦り、鬼を睨みつける私。
やっぱり血気術の一つだったんだろうか。
鬼の掌で踊らされている気がして、私は激しく嫌悪した。

ふらふらとその場から立ち上がり、ゆっくりと後ろへ下がる。

「さっさと逃げろよォ?俺は適当に追いかけるからな」

右手をひらひらとさせながら、顎で対面を指す鬼。
さっさと行けという事か。
まだ足は覚束ないが、このままここに居たら黙って食われるだけだ。
逃げきれる自信はないけど、逃げないと。

私は勢いよく振り返って、鬼とは反対の方向へ全速力で走った。


笹の葉が腕や顔に当たっているが、気にしない。
限界まで、限界を超えても走らないと行けない。
大きな葉は両手で受けて、太い根が転がっている所は飛び越えた。

後ろから音が聞こえる…!

足音ではない、風を切る音。
それが至近距離で聞こえた瞬間、私の腕に鋭い痛みが走った。

「いッ…つ…」

痛んだ箇所に触れると羽織に血が滲んでいた。
切られた?何に?
振り返るが何も見えない。
鬼の高笑いが遠くで聞こえた。

「早く逃げねえとケガするぜ?」

キッ、と何も見えない暗闇を睨んだ。
弄ばれているんだ、私は。
悔しい、何も出来ず逃げ回る事しか出来ない自分が。
痛みに耐え、竹と竹の間を駆ける。

自分の息が段々上がってきている。
そろそろ限界なのかもしれない。
でも走り続けないと、殺される。

油断していたら、また見えない風が私の身体を切り刻んでいくだろう。
そうして悪戯に遊ばれ、最後は鬼の餌だ。

深い林の中に潜り込み、両手で口を押えた。
全速力で走った所為で、呼吸がすぐに落ち着かない。
音が漏れないように私は必死で呼吸を止める。

「はぁ?もう終わりかよ」

すぐ近くで聞こえる鬼の声。
口に両手を当てたまま、鬼が立ち去るのを待った。
だけど無情にも鬼は私の背後に回り込み、そして

「休憩は済んだか?」

「あぁッ…」

声が聞こえたと思ったら、今度は反対側の腕から血が上がる。
くっ、と声を漏らし、私はすぐに駆けた。

すぐに追いつかれるかもしれない。
もう、足も限界だ。
でも必死に私は目の前の暗闇に食らいつく。

振っている腕はどちらからも血が垂れ、ゆっくりと羽織を侵食していった。

大きな切り株を避けて、笹が落ちている場所へ倒れ込んだ。


「はぁ、っ…あ、走らない、と」


口から胃の内容物が飛び出てきそうだ。
倒れ込んだ足はぶるぶると震え、限界を示している。
何とか身体を起こし、太い竹の陰に腰を下ろした。

もう、駄目かもしれない。
ケガは大したことないけど、血の匂いで鬼にはバレているだろう。
走る元気もない。
死ぬ、私はここで死ぬ。


浅い呼吸を繰り返し、空を見上げた。


最期に見る月だ。
我妻さんと最初に一緒に見たのも月だった。
もう顔が見れないのなら、せめて同じ月を見て逝きたい。
覚悟を決めなきゃ。

実は後ろから足音が聞こえている。
もう終わりが近いだろう。
今更後悔しても遅いけど、もっと一緒に居たかった。


「死んで、ごめんね」


いつかの手紙のようなセリフを呟くと、私はゆっくり瞼を閉じた。


足音は急に走り出したかと思ったら、そのまま私の方へやってくる。
怖くなってぎゅうっと固く瞼を閉じたまま、拳を握った。





「…んぅっ…!」





次に来るのは痛みだと思っていた。
だけど、私の身に降りかかったのは、鬼の攻撃ではなかった。
大きくて固い掌が私の口を覆っていたのだ。

慌てて瞼を開けると、さらりとした前髪が私の顔の前にあった。





「……ぁ…」






声にならない声が漏れる。
段々視界が涙で歪んでいくのが分かった。
目の前の光景は夢なんじゃないだろうかと疑いたくなる。
でも、それは紛れもなく本物の、彼だった。




我妻さん。




ぱっと手を口から離されて、彼の指が口元に当てられる。


「静かに」


我妻さんは、酷く真っ青な顔をしたまま私の頬に触れた。
嘘だ、本当に?
こんなところまで、来てくれたの?
危険だと分かっていたのに。

私はまた都合の良い夢を見てるような気がして、震える手で我妻さんの前髪に触れる。
くすぐったそうに顔を捩る我妻さんは、すっと私の涙を拭った。


「遅くなってごめん」


私の両腕の傷に触れ、我妻さんは下を向いた。
そんなのどうだっていい。
来てくれた、助けに来てくれたそれだけで、私は全てが救われるような気持ちになる。


「何で来てくれたんですか?」


ぽろぽろ止まらない涙を拭うこともせず、私は口を開いた。
本当は怖くて堪らない筈だ。
この人は、自分から鬼に向かって行った事なんて、今までない。
それでも私を助けに来てくれた。

少し驚いた顔の我妻さんが、私の頭を撫でる。



「約束したじゃん。それに、まだ伝えてない事あったから」



ぎこちなく笑う顔を見て、更に涙腺が決壊してしまいそうだ。

でもカッコよく言ったけど、足元が震えているんだよね。
少し残念だけど、そういうところが我妻さんらしいよ。